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第46話
(7)
しおりを挟む昨夜の残りの鹿肉入りシチューを温め直すため、コンロにかけ、慎重に火を調節する。また焦がしたら、鷹津にどんな皮肉を言われるかわからないので、和彦は真剣だ。わずかに水を足してから、次は、冷凍保存しておいたバゲットを二人分、トースターに並べる。
コンロとトースターの前を行き来しつつ、合間にコーヒーカップも二つ出し、インスタントコーヒーの粉を放り込む。シチューが焦げつかないようかき混ぜ、先にパンが焼けたので、器に盛る。
和彦が着々と朝食の準備を整えていると、玄関のドアが開き、重装備の鷹津が姿を見せる。朝早くから、ログハウス前の雪かきをしていたのだ。
この四日の間、雪は降ったり止んだりを繰り返しており、豪雪に埋もれるとまではいかないが、容易に移動ができる状態ではなくなった。こんなときのための備蓄だということで、翔太の配達は止めてもらい、ほぼこもりきりの生活が続いている。和彦の場合、熱が完全に下がるまでおとなしくしていろと言われ、玄関から出ることすら許されていなかった。
そんな生活が功を奏したというべきか、体調はすっかりよくなっていた。鷹津は半信半疑だが。
鷹津が着替えを済ませるのを待って、朝食となる。バゲットを千切ってシチューに浸して食べながら、他愛ない会話を交わす。
「シチュー美味しかったな。料理の才能が開花してるんじゃないか」
「レシピどおり鍋に放り込んで煮込めば、食えるものは作れる」
「つまり、ぼくでも同じ味にできると?」
「……さあ、それはどうだろうな」
テーブルの下で、鷹津の爪先を軽く蹴りつける。鷹津はふっと口元を緩めた。
「高い山に登ると、気圧のせいで舌が鈍くなるし、汗を掻いた分、体が塩分を求める。若い頃は平気で濃い味つけにして、それが普段の生活にも身についちまってたが、年食ってからは、さすがに加減するようになった。レシピの調味料の分量も、ほんの少しだけ変えてる。――俺だって健康的に長生きしたいからな。お前の口に合ってるんなら、何よりだ」
和彦が返事に困っていると、今度は反対に、鷹津に爪先を軽く蹴られた。
「笑えよ。柄にもないこと言うな、って」
「……自分でわかってるんだな。自分のこと」
ここで話題は変わったが、シチューとバゲットを半分ほど食べたところで和彦は、ヤカンの注ぎ口から吹き上がる蒸気に目を向けつつ、ぽつりと洩らした。
「あんたは、自分のことに興味がないのかと思ってた。悪徳刑事で出世は望めないうえに、長嶺組や総和会にもちょっかいをかけてたぐらいだから、破滅願望がある、ヤバイ男だと……」
「まあ、そこまで極端ではないが、投げ遣りではあったかもな。長嶺と知り合って、俺は人生をしくじった。だからあの男へ嫌がらせすることで、帳尻合わせをしたかった」
「……それで、合ったのか?」
「どうでもよくなった」
「捨て鉢になってるだけじゃないだろうな」
ここに滞在している間はいいのだ。しかし、必ず元の生活に戻る日はやってくる。鷹津が何も考えていないはずはないだろうが、和彦はどうしても心配になる。
鷹津は、ニヤリと笑いかけてきた。
「今のところ俺は、かつてなく人生の張り合いを感じてる。お前を匿いながら、快適に過ごさせるためにな。騎士になった気分だ」
「それは……、言いすぎだろ」
「お前に手がかかればかかるほど、俺は楽しいぜ」
鷹津の軽口に、また大雪が降るのではないかと本気で和彦は危惧する。
朝食を終えて一段落つくと、鷹津は雪かきの続きをしてくると言って席を立つ。手伝おうかという和彦の提案は、あっさり拒否された。
「ウッドデッキの屋根の雪を落とすから、お前がいるとかえって危ない。洗い物をしたあとは、ゴロゴロしてろ」
「そんな、落ち着きないのない小さい子供じゃないんだから……」
小声でぼやく和彦に対して、面倒くせーなと言いたげな顔をした鷹津が、ひげを撫でながら思案する。そして、こんなことを呟いた。
「――……昼頃から晴れてくると、天気予報で言ってたな」
「つまり、散歩に出ていいってことだな」
勢い込んで尋ねると、鷹津が鼻で笑う。
「雪道の歩きにくさを舐めるなよ。お前が遭難したときのために、俺もついていく。……はー、仕事が増えたな」
騎士を自称するわりには、性格と口の悪さは変わってないではないかと、心の中で毒づきながら和彦は、再び外に出る準備を始めた鷹津の様子を眺めていて、ある用事を思い出した。
「あっ、そうだ。携帯電話を借りるからな」
「勝手に使え」
どこにかけるのかは、当然聞かれない。
鷹津が玄関を出ていくと、和彦は急いで洗い物を済ませ、薪ストーブの薪とヤカンの水を確認してから、携帯電話を掴んで寝室に引っ込んだ。
今のところ和彦しか使っていない寝室だが、一応、私的なものは出しっ放しにはせず、段ボールにひとまとめにしてクローゼットの隅に置いてある。見ようと思えば鷹津も見られるが、現状、その素振りは一切見せない。
一旦段ボールを引っ張り出し、ファイルを手に取る。その中に、賀谷から渡されたメモ用紙を挟んでいた。
メモ用紙を手にベッドに腰掛け、さっそく電話をかけようとして、ふとあることに気づく。反射的に、壁に貼り付けた手製のカレンダーを見遣った。
当初、このログハウスにはカレンダーがなかった。正確には、狭いキッチンの壁にかかってはいるのだが、それは四年も前のものだ。これまでの滞在者は日付に頓着していなかったのかもしれないが、和彦はそうではない。ラジオで知ることができるとはいえ、日常生活に組み込まれたカレンダーを見るという行為が大事なのだ。だからといってわざわざ買ってきてもらうほどでもなく、携帯電話のカレンダー機能をチェックするのも味気ない。結果、菓子箱についていた厚紙を切り取って、自分で作ってしまった。
本来であれば一月六日からクリニックの仕事始めであったが、もう中旬を過ぎた。手製のカレンダーを見るたびに罪悪感を覚えるが、自分が置き去りにしているものを確認するためにも必要だ。
そして今日は日曜日だ。気を抜くと、曜日感覚が狂ってしまう。
メモ用紙に記された携帯電話の番号にかけてみると、意外なほどすぐに賀谷は電話に出た。知らない番号からの着信に、最初は訝しげな様子だったが、遠慮がちに和彦が声を発すると、電話の向こうで慌ただしい物音がして、すぐにおさまった。
『――和彦くん?』
この人に名を呼ばれるのは妙な感覚だなと、和彦は短く息を止める。
「……すみません。今、大丈夫ですか?」
『ああ、うん。今日はまだ往診の予定は入ってないから』
賀谷の場合、日曜日だからといって仕事が休みとは限らない。それを心配したのだ。
賀谷は、和彦が用件を切り出す前に、正時の容体を教えてくれる。眠っている時間が多いものの、落ち着いているということでほっとする。総子も風邪を引くことなく過ごしているそうだ。
『それで、何かあったかい? 二人の様子を聞くためだけにかけてきたんじゃないだろう』
「……すみません。ぼくに関わらないほうがいいとか、自分で言っておきながら……」
『いやっ、違うんだ。咎めているんじゃなくて、まさかこんなに早くに君から連絡をくれると思っていなかったから――』
嬉しいんだ、と言われて、和彦は自然と笑みをこぼしていた。耳に馴染む優しい声は、本心からの言葉だと信じさせる不思議な力があった。だから和彦も、気負うことなく告げられた。
「あなたと、〈これから〉のことを話したいんです」
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