血と束縛と

北川とも

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第46話

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 夕食前に和彦は、鷹津がキッチンに立っている隙に少しだけ外に出てみたが、世界が一変したかのような静寂と、積もる雪の白さに息を呑んだ。このまま降り続いたら、この場所はすっぽりと雪に覆われてしまうのではないかと不安が首をもたげたが、一方で、物理的に隔絶されるということに、抗いがたい魅力も感じていた。
 外はすでに真っ暗で、玄関灯の明かりがかろうじて周囲をぼんやりと照らしているだけだ。明かりの届かない場所まで行ったとき、そのまま闇にさらわれてしまうのではないか――。
 和彦はふらりとウッドデッキの階段に足を踏み出そうとしたが、試みは成功しなかった。背後から鷹津に首根っこを掴まれて、部屋に連れ戻されたからだ。
 今晩は特に冷え込むということで、夕食はおでんだった。手の込んだ料理は作れないため、ダシもついたおでん種のセットを鷹津が買ってきていたのだ。煮込み担当も鷹津で、料理ができないというわりに、意外に刃物の扱いや準備などが手慣れている理由を問うと、山登りをしていた頃はやむなく自分で作っていたのだという。
 その頃の話を和彦はもっと聞きたかったが、おでんを食べて体が温まっているうちにシャワーを浴びてこいと、追い立てられてしまった。
 まず熱湯を出して狭いシャワー室内を暖めてから、急いで体を洗う。換気扇から入り込んでくる冷気は厄介で、のんびりしていると、湯を浴びている端から体が冷えてくるのだ。替えのスウェットの上下を着込み、慌ただしくリビングダイニングに戻って薪ストーブの前に陣取る。水滴が落ちている髪を拭いていると、キッチンから鷹津が出てきた。
「しっかり髪を乾かしておけよ。湯冷めするぞ」
「湯冷めどころか、そもそも温まる暇がなかった。――早く、温泉に入りに行きたい」
「お前、毎日言ってるな。それ。……残念だが、確実に明日は無理だろうな」
 夜のうちに水道が凍るかもしれないからと、鷹津もシャワーを浴びてくるのを待ってから洗濯を済ませる。梁と梁の間に張ったロープに洗濯物を干していくと、それでなくてもコンパクトな部屋は一層狭く感じられるが、仕方ない。それに、生活感が増した空間を和彦は嫌いではなかった。
 総子が送ってくれたティーバッグでお茶を淹れてから、ヤカンにたっぷりの水を足しておく。鷹津は、寝室のほうで何かしているようだ。
 やっとソファに腰を落ち着けた和彦は、改めて、室内に干した洗濯物を眺める。自分のTシャツと、隣には鷹津のインナーシャツが並び、さらには二人分のトレーナーとバスタオル。薪ストーブ近くに移動させたイスの背もたれには、洗濯ハンガーを引っ掛け、そこには靴下や下着を。
 誰かと二人きりで生活して、相手を思いやりながら家事をこなすのは初めてだった。甲斐甲斐しいタイプではないと自覚はあるため、世話を焼かれることはあっても、焼いたことはない。今の生活も、鷹津に世話になっている部分は多大にあるが、それでも、不得手なりに和彦も動いている。
 食事のたびに何を作るかと相談し、役割を分担し合うのも、けっこう楽しい――。
 無意識のうちに表情を和らげていたことに気づき、和彦は強く頬を撫でる。自分がこの場所に滞在している理由を考えれば、能天気に楽しんでいる場合ではないのだ。そこに、鷹津が戻ってくる。
「何してたんだ?」
「寝室の窓に断熱シートを貼っていた。お前がベッドから窓の外が見えると喜んでたから、まあいいかと思ってたんだが、こうも冷え込むと、やっぱり気になる」
「……あり、がとう」
 お茶を飲むかと問いかけた和彦の顔を、ふいに鷹津が覗き込んでくる。
「お前、顔が赤いぞ」
 それは今さっき頬を擦ったからだと言おうとしたが、鷹津はその前に体温計を取りに行き、有無を言わせず突き出してくる。鷹津は、和彦の体温管理に厳しい。
「一応、こっちは医者なんだが……」
「医者の不養生という言葉があるだろ。お前は、ちょっと元気になったら、フラフラしやがって」
 渋々体温計を受け取ろうとした和彦は、鷹津の右手に目を留める。トレーナーの袖を捲り上げているせいで、腕から手首にかけて走った刃物傷の跡がよく見えた。
「なんだ?」
「さすが、ぼくが縫った傷だと思って。跡がきれいだ」
 体温計を脇に挟みながら和彦が答えると、鷹津は鼻先で笑った。
「オッサンの傷跡がきれいか汚いかなんて、気にする奴はいねーよ」
「きっとぼくだけだな。気にするのは」
 不自然な沈黙が訪れる。和彦は体温計の電子音が鳴るのを待ちながら、鷹津の視線を意識していた。そのせいか、やけに鼓動が速くなり、今になって頬の熱も感じる。
 ようやく熱を測り終えたときはほっとしたが、脇から出した体温計をすかさず取り上げられた。表示を見てムッと唇をへの字に曲げた鷹津に、寝室を指で示される。
「お前はもう、ベッドに行け」
「……まだ夕方――」
「行け」
 こういうときの鷹津に逆らうのは不可能だ。和彦は、まだ全然眠くないのだがとぼやきながら、寝室に向かう。確かに、ベッド横の小さな窓には半透明のシートが貼られ、外の景色が見えなくなっていた。
 和彦がベッドに潜り込むと、鷹津がサイドテーブルに水の入ったペットボトルを置き、さらにラジオまで持ってきた。
「至れり尽くせり……」
「うるせー。寒気がしてきたら電気毛布も使えよ」
「なんともないんだけどなー」
 ベッドの端に腰掛けた鷹津がラジオを操作し、音量を抑えたニュースが流れてくる。どこも大雪で大変なようで、混乱ぶりを伝えるニュースに耳を傾けながら、向けられた鷹津の背を和彦はじっと見つめる。
「――ずっと気になってたんだ」
「何をだ」
「少し痩せただろ、秀」
 肩越しにちらりと鷹津が振り返る。
「忙しかったんだ。刑事だった頃よりまじめに働いてたな」
「総和会に追われてたんじゃないのか」
「あいつらは、俺一人にかまっていられるほど暇じゃないだろ。ようは、お前にまとわりついていたのが不愉快って話だったんだ。そういう意味では、長嶺のほうが厄介だったかもな」
「組?」
 和彦は枕からわずかに頭を浮かせる。
「長嶺個人だ」
「賢吾……」
「あいつは、俺という人間をよく知ってる。だから伝手という伝手を使って、俺を捜し出そうとしていたみたいだ。自分のオンナを連れ出されて、相当頭に来てたんだろうな」
「……それなのに、ぼくの前に現れたことがあっただろ。前に」
 鷹津は短く声を洩らして笑った。
「まさか、見つかるとは思わなかった。あのときお前は、よりによって総和会の奴と一緒にいたしな」
 鷹津が言っているのは、中嶋のことだ。彼と一緒にいたとき、人波の中に鷹津の姿を見かけたのはやはり見間違いなどではなかったと、今証明された。
「どうして……」
「俺の口から言わせたいのか?」
 鷹津の背に伸ばしていた手を、触れる寸前で止める。
「――〈俺の〉オンナが元気にしているか、確かめたかった。……お前が気づかなかっただけで、何度か遠くから見てたんだぜ」
 思いがけない告白に、じわりと熱が上がった。

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