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第45話
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顎ひげを生やした男のほうは、グレーのチェック柄のマフラーを外し、口元に笑みを湛えながら総子に頭を下げる。一方の坊主頭の男は、表情らしい表情もなく、黙然と佇んでいる。
「――寒いですね。約束の時間まで宿でじっとしているのも落ち着かないので、わたしらだけ一足先にやってきました」
総子の言っていた通りだと思ったが、それよりも和彦が気になったのは、顎ひげの男の言葉にわずかに独特のイントネーションがあることだった。関西訛りだろうかと思いながら、なんとなく総子の背後に控えたままになっていると、顎ひげの男がふいに和彦に目を留めた。
「なかなかいい格好ですね。いかにも、田舎で過ごす正月休みといった感じで」
スウェットの上下に半纏を羽織った格好をそう表現され、和彦は居たたまれなさから身を縮める。
「顔色はあまりよくないが、起きて動けるようならよかったです。昨日は、あんなことになっていましたから」
墓地で気を失った和彦を運んできてくれたのが彼らであると、総子は教えてくれた。和彦は礼を言おうとしたが、制された。
「ああ、気にしなくてけっこうです。仕事をしただけですから。……昨日のはこちらの失態です。もっと早くにあなたを見つけるべきでした」
戸惑う和彦にかまわず、顎ひげの男は総子に向き直る。
「ざっとこの周囲を見ておきましたが、不審者は見かけませんでした」
「ご苦労様です。さあ中にどうぞ。お茶を淹れましょう。朝食はお済みですか?」
「こちらで食べるのを楽しみにして、宿の朝メシは断ってきたんですよ。――あっ、コーヒーでお願いします」
男とのやり取りに慣れているのか、総子は口元を押さえて笑う。しかしすぐに笑みを消し、和彦を見た。
「では、準備をしますから、和彦さんがお風呂を済ませてから、一緒にとりましょう。そのとき、お互いの紹介と、今後についてのお話も」
和彦は、一変した場の雰囲気に呑まれそうになりながら、ぎこちなく頷いた。
帰りの列車で、和彦は座席にぐったりと身を預けていた。効きすぎた暖房のせいで、さきほどから顔が火照るうえに、頭痛がする。車内は混んでおり、人いきれにもあてられたのかもしれない。運よく座席に座れたが、こんな状況でなければ、途中下車してしばらく休みたいところだ。
自分には時間が必要なのだと、車窓の外を流れる景色に目を向けながら、和彦は心の中で呟く。
和泉家での体験は、強烈すぎるものばかりだった。家の人たちは優しく接してくれたし、親しみも覚えたが、滞在することによって和彦は、嫌でも己の出生と、今後の人生について向き合わざるをえなかった。
和泉家から辞するときに、紗香の写真が数枚収められたアルバムを渡された。それと、とりあえず目を通しておくようにと、相続に関する分厚いファイルを。総子は、本当はいろいろと土産を持たせたいと言っていたが、帰ってからの和彦の生活の慌ただしさを気遣い、渡す荷物を最小限にしてくれたのだ。
まだ他に、持ち帰っているものを思い出し、和彦はジャケットのポケットをまさぐる。取り出したのは、賀谷から渡されたメモ用紙の他に、三枚の名刺だ。顎ひげの男と坊主頭の男。そして、弁護士のものだ。
弁護士を交えての面談は、諸々の手続きの説明や、準備されていた書類への署名などで、想定を超えて時間がかかった。
灰色の雲の合間から、わずかに夕暮れのオレンジ色が覗いている。実家に戻った頃にはもう暗くなっているだろう。どうせ遅くなるなら、夕食は外で済ませるか、何か買って帰ろうかと、ぼんやり考える。和泉家の温かな食事を味わっていると、長嶺の本宅での食事が懐かしくなって、仕方なかった。
帰りたい、と痛切に願った次の瞬間、どこに、と自問する。自分には果たして帰れる場所があるのだろうか、とも。
すべてを知った今、和彦にとって実家の存在は、どこよりも苦しい場所となった。俊哉と相対するのも、正直怖い。だからといって、このまままっすぐ長嶺の本宅に駆け込んだところで、総和会が――というより守光が、見逃してくれるはずがない。
長嶺の男たちと知り合う前まで、自分はどうやって生きてきたのだろうか。ふっとそんなことを考え、和彦は身を震わせる。
列車がようやく目的の駅に到着し、のろのろとコートを着込んで準備をする。
ホームを歩きながら、ずっと緊張していた。人の流れに押されるように改札口を通り抜けた瞬間、ざわりと肌が粟立った。混雑する駅構内で、何者かがこちらを見ているような視線を感じたのだ。気のせいかとも思ったが、和彦は顔を伏せる。このときには、心臓の鼓動が痛いほど速くなっていた。
どこに向かうのかも決めないまま、とにかくその場を立ち去ろうと機械的に足を動かすが、行き交う人たちにぶつかりそうになり、結局顔を上げてしまう。五メートルほど離れた場所で、マスクをした男が、じっと和彦を見ていた。さらに男が携帯電話を手にしたところで、顔を背けて早歩きとなる。
明らかに、和彦を捕捉しようとしている者の目だ。
脳内に激しい警告音が鳴り響き、じっとりと冷や汗が滲む。とにかくここから出なければと、気ばかりが逸り、足がもつれそうになる。
「――佐伯先生」
背後からはっきりと名指しされて呼ばれる。和彦はビクリと肩を震わせたものの、振り返らない。
とにかくタクシー乗り場まで行けばなんとかなるかもしれないと、密集していた人たちが分散したタイミングで、小走りとなる。背後から足音が迫っているようだった。
階段を駆け下りながら和彦はふと、もしかして自分は、意図的に罠に追い込まれているのではないかと危惧を抱いた。
「あっ……」
タクシー乗り場の案内が見えたが、最悪なことに乗車待ちの行列ができている。その近くに、大柄な男が立っていた。行列に加わっているわけではなく、誰かを探しているかのように辺りを見回している。
全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、近くの太い柱の陰に隠れた和彦は強張った息を吐き出す。見間違えるはずもない。普段の粗野な空気を押し隠すように、黒のシックなコートで身を包んでいるが、存在が獰猛な獣じみた男には無駄なことだ。
「どうして、ここに、南郷さんが……」
震える声で和彦は呟く。この場に止まり続けるわけにもいかず、柱からそっと顔を覗かせると、すでに和彦に気づいていたらしく、南郷がまっすぐこちらを見ていた。
歯を剥き出すようにして南郷特有の笑みを浮かべ、手招きしてくる。逃げられないと悟り、足を踏み出しかけたが、寸前で踏みとどまる。
耳元で蘇ったのは、電話越しに聞いた賢吾の言葉だった。
『――どうしてもダメだと思った瞬間が来たら、迷わず逃げろ』
和彦は踵を返すと、とにかく一気に駆け出す。どこに向かうかはまったく考えられない。とにかく、南郷たちの手から逃れるのが先だった。
待てっ、と鋭い声をかけられたが、必死で走り続ける。
横断歩道を渡ろうとして、寸前で赤信号に変わる。一瞬ためらいはしたものの、立ち止まるわけにはいかなかった。停止している車が発進する前に道路に飛び出したところで、思いがけない速さでバイクが突っ込んでくる。
足が竦んだ和彦は、目を見開いたまま動けなかった。
「――寒いですね。約束の時間まで宿でじっとしているのも落ち着かないので、わたしらだけ一足先にやってきました」
総子の言っていた通りだと思ったが、それよりも和彦が気になったのは、顎ひげの男の言葉にわずかに独特のイントネーションがあることだった。関西訛りだろうかと思いながら、なんとなく総子の背後に控えたままになっていると、顎ひげの男がふいに和彦に目を留めた。
「なかなかいい格好ですね。いかにも、田舎で過ごす正月休みといった感じで」
スウェットの上下に半纏を羽織った格好をそう表現され、和彦は居たたまれなさから身を縮める。
「顔色はあまりよくないが、起きて動けるようならよかったです。昨日は、あんなことになっていましたから」
墓地で気を失った和彦を運んできてくれたのが彼らであると、総子は教えてくれた。和彦は礼を言おうとしたが、制された。
「ああ、気にしなくてけっこうです。仕事をしただけですから。……昨日のはこちらの失態です。もっと早くにあなたを見つけるべきでした」
戸惑う和彦にかまわず、顎ひげの男は総子に向き直る。
「ざっとこの周囲を見ておきましたが、不審者は見かけませんでした」
「ご苦労様です。さあ中にどうぞ。お茶を淹れましょう。朝食はお済みですか?」
「こちらで食べるのを楽しみにして、宿の朝メシは断ってきたんですよ。――あっ、コーヒーでお願いします」
男とのやり取りに慣れているのか、総子は口元を押さえて笑う。しかしすぐに笑みを消し、和彦を見た。
「では、準備をしますから、和彦さんがお風呂を済ませてから、一緒にとりましょう。そのとき、お互いの紹介と、今後についてのお話も」
和彦は、一変した場の雰囲気に呑まれそうになりながら、ぎこちなく頷いた。
帰りの列車で、和彦は座席にぐったりと身を預けていた。効きすぎた暖房のせいで、さきほどから顔が火照るうえに、頭痛がする。車内は混んでおり、人いきれにもあてられたのかもしれない。運よく座席に座れたが、こんな状況でなければ、途中下車してしばらく休みたいところだ。
自分には時間が必要なのだと、車窓の外を流れる景色に目を向けながら、和彦は心の中で呟く。
和泉家での体験は、強烈すぎるものばかりだった。家の人たちは優しく接してくれたし、親しみも覚えたが、滞在することによって和彦は、嫌でも己の出生と、今後の人生について向き合わざるをえなかった。
和泉家から辞するときに、紗香の写真が数枚収められたアルバムを渡された。それと、とりあえず目を通しておくようにと、相続に関する分厚いファイルを。総子は、本当はいろいろと土産を持たせたいと言っていたが、帰ってからの和彦の生活の慌ただしさを気遣い、渡す荷物を最小限にしてくれたのだ。
まだ他に、持ち帰っているものを思い出し、和彦はジャケットのポケットをまさぐる。取り出したのは、賀谷から渡されたメモ用紙の他に、三枚の名刺だ。顎ひげの男と坊主頭の男。そして、弁護士のものだ。
弁護士を交えての面談は、諸々の手続きの説明や、準備されていた書類への署名などで、想定を超えて時間がかかった。
灰色の雲の合間から、わずかに夕暮れのオレンジ色が覗いている。実家に戻った頃にはもう暗くなっているだろう。どうせ遅くなるなら、夕食は外で済ませるか、何か買って帰ろうかと、ぼんやり考える。和泉家の温かな食事を味わっていると、長嶺の本宅での食事が懐かしくなって、仕方なかった。
帰りたい、と痛切に願った次の瞬間、どこに、と自問する。自分には果たして帰れる場所があるのだろうか、とも。
すべてを知った今、和彦にとって実家の存在は、どこよりも苦しい場所となった。俊哉と相対するのも、正直怖い。だからといって、このまままっすぐ長嶺の本宅に駆け込んだところで、総和会が――というより守光が、見逃してくれるはずがない。
長嶺の男たちと知り合う前まで、自分はどうやって生きてきたのだろうか。ふっとそんなことを考え、和彦は身を震わせる。
列車がようやく目的の駅に到着し、のろのろとコートを着込んで準備をする。
ホームを歩きながら、ずっと緊張していた。人の流れに押されるように改札口を通り抜けた瞬間、ざわりと肌が粟立った。混雑する駅構内で、何者かがこちらを見ているような視線を感じたのだ。気のせいかとも思ったが、和彦は顔を伏せる。このときには、心臓の鼓動が痛いほど速くなっていた。
どこに向かうのかも決めないまま、とにかくその場を立ち去ろうと機械的に足を動かすが、行き交う人たちにぶつかりそうになり、結局顔を上げてしまう。五メートルほど離れた場所で、マスクをした男が、じっと和彦を見ていた。さらに男が携帯電話を手にしたところで、顔を背けて早歩きとなる。
明らかに、和彦を捕捉しようとしている者の目だ。
脳内に激しい警告音が鳴り響き、じっとりと冷や汗が滲む。とにかくここから出なければと、気ばかりが逸り、足がもつれそうになる。
「――佐伯先生」
背後からはっきりと名指しされて呼ばれる。和彦はビクリと肩を震わせたものの、振り返らない。
とにかくタクシー乗り場まで行けばなんとかなるかもしれないと、密集していた人たちが分散したタイミングで、小走りとなる。背後から足音が迫っているようだった。
階段を駆け下りながら和彦はふと、もしかして自分は、意図的に罠に追い込まれているのではないかと危惧を抱いた。
「あっ……」
タクシー乗り場の案内が見えたが、最悪なことに乗車待ちの行列ができている。その近くに、大柄な男が立っていた。行列に加わっているわけではなく、誰かを探しているかのように辺りを見回している。
全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、近くの太い柱の陰に隠れた和彦は強張った息を吐き出す。見間違えるはずもない。普段の粗野な空気を押し隠すように、黒のシックなコートで身を包んでいるが、存在が獰猛な獣じみた男には無駄なことだ。
「どうして、ここに、南郷さんが……」
震える声で和彦は呟く。この場に止まり続けるわけにもいかず、柱からそっと顔を覗かせると、すでに和彦に気づいていたらしく、南郷がまっすぐこちらを見ていた。
歯を剥き出すようにして南郷特有の笑みを浮かべ、手招きしてくる。逃げられないと悟り、足を踏み出しかけたが、寸前で踏みとどまる。
耳元で蘇ったのは、電話越しに聞いた賢吾の言葉だった。
『――どうしてもダメだと思った瞬間が来たら、迷わず逃げろ』
和彦は踵を返すと、とにかく一気に駆け出す。どこに向かうかはまったく考えられない。とにかく、南郷たちの手から逃れるのが先だった。
待てっ、と鋭い声をかけられたが、必死で走り続ける。
横断歩道を渡ろうとして、寸前で赤信号に変わる。一瞬ためらいはしたものの、立ち止まるわけにはいかなかった。停止している車が発進する前に道路に飛び出したところで、思いがけない速さでバイクが突っ込んでくる。
足が竦んだ和彦は、目を見開いたまま動けなかった。
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