血と束縛と

北川とも

文字の大きさ
上 下
1,198 / 1,268
第45話

(18)

しおりを挟む



 結局、俊哉との電話のあと、和彦は部屋に閉じこもったまま、誰とも顔を合わせることができなかった。総子が様子をうかがいに来てくれたが、板戸越しに最低限の会話を交わすのが精一杯で、それで総子は察してくれたようだ。
 夕食はわざわざ部屋まで運んでもらったが、ほとんど口をつけることができなかった。
 届けられた抗不安薬を服用したあと、和彦はただ横になって天井を見上げていた。ゆらゆらと視界が揺れていたのは、薬のせいなのか、浮かべた涙のせいなのかも、気に留めなかったぐらいだ。ただひたすら、考え続けていた。
 いつ自分が眠ったのかもわからず、ひどい喉の渇きを覚えて目を覚ましたとき、今が何時なのかわからず混乱する。
 部屋の電気はつけたままではあるが、ヒーターは消して休んでいたことに安堵する。しばらく和彦の傍らにいてくれた黒猫も、そろそろ仲間の元に戻るようにと、抱えて廊下に出したのだ。
 頭上に手を伸ばし、リモコンをたぐり寄せる。テレビをつけると、見覚えのあるニュースキャスターがニュースを読んでいる。画面の隅に表示された時刻を見て、小さく声を洩らす。
「朝、だ……」
 テレビに目を向けたまま和彦はぼんやりしていたが、いつまでもこうしているわけにはいかず、気力を振り絞って起き上がる。両瞼が腫れぼったく、きっとひどい顔になっているだろうなとため息をつく。
 顔を洗いに行こうと半纏を着込んで外に出ると、何か抱えた総子がこちらにやってくる。
 昨夜、礼を失した態度を取ったことを謝罪しようとしたが、そんな和彦を柔らかく制し、総子は微笑んだ。
「お風呂が沸いているから、入ってきてください。温まってから、朝食にしましょう」
 差し出されたのは、きれいにアイロンがかけられたワイシャツだった。
 受け取ったワイシャツを眺めて、今日の予定を思い出す。
「……今の状態だと、弁護士さんの話をまともに聞けそうにありません」
 ぽろりとこぼした弱音に、表情を変えないまま総子が応じる。
「何も心配はいりません。面倒なことは、この家と弁護士の先生で引き受けますから。あなたは必要な手続きを済ませればいいだけです」
「ぼくに、そこまでしてもらえる価値はあるんでしょうか」
 総子の顔からスッと微笑みが消える。憔悴しきった和彦の様子から、斟酌は簡単だったようだ。
「昨日は……、あまりいい話は聞けなかったようですね。俊哉さんから」
「楽しい話ではありませんでした」
 和彦は自嘲気味に言うと、ふうっと息を吐き出して、視線を窓の外に向ける。今朝は、山茶花の側に猫の姿はない。
「ずっと、何を考えているのかわからない人でしたが、昨日電話で話して、ますますわからなくなりました……」
 俊哉は、自分の生き方に対して、他人からの理解も共感も得られるとは思っていないだろう。そもそも、必要としていないのだ。傲慢で身勝手で冷徹。それが、俊哉という人間だ。その俊哉が生み出した〈呪い〉を押し付けられようとしている理不尽さに、和彦は何度も息が詰まりそうになる。
 しかし、総子に打ち明けるつもりはなかった。信用しているか否かの問題ではなく、綾香と紗香の母親である総子を、間違いなく傷つけると確信しているからだ。
「――俊哉さんの抱えた闇は深い、ということでしょうね」
「闇……なんでしょうか。父さん自身は、光を見出しているのかもしれないと、なんとなく思って……」
「あなたは、引きずられてはいけませんよ。闇だろうが、光だろうが、それは俊哉さんのものでしかないんです。――わたしの娘たちは、それがわからなかったのかもしれません」
 そう言った総子が、突然何かを思い出したように、小さく声を洩らした。一瞬、逡巡する素振りを見せたものの、毅然とした眼差しで和彦を見上げてきた。
「お風呂に向かう前に、あなたに見てもらいたいものがあります。……いろいろ思い出したあとですから、もしかするとつらいかもしれませんが」
 かまわないと答えた和彦は、総子について歩く。向かったのは、屋敷の奥にある部屋だった。奥とはいっても、晴れた日であれば日当たりのいい一角なのだろう。残念ながら今は薄曇りのうえに霧も出ているが、窓から見える景色は計算されたかのように素晴らしい。けぶる山々と、近景の生垣と花壇の花と。
「入ってください」
 総子に言われるまま部屋に足を踏み入れて、和彦は目を見開く。なんのための部屋であるか、すぐにわかった。
「ここは……」
 紗香のための仏間だった。仏壇には、墓に供えてあったのと同じ種類の花が飾られており、室内の雰囲気を明るいものにしていた。
 仏壇の前に正座すると、総子は小さいテーブルの上に並んだ写真立ての一つを差し出してきた。収められている写真には、まだ少女らしい面影を残した綾香と、もう一人、わずかに年若でよく似た顔立ちの女性が写っている。片方だけが、穏やかに微笑んでいた。
 この人が、と和彦は心の中で呟く。写真を見ても、不思議なほど気持ちは凪いでいた。記憶にあるのは成長した姿の紗香で、写真の少女とは面影が似ているだけとも思えるせいだ。
「女の子なのに、二人ともあまり写真が好きではなかったから、あまり撮ってあげられなくて……。あとになって後悔しました」
 他の写真も見せてもらったが、高校の入学式らしい制服姿の紗香に、胸が詰まった。生まじめな硬い表情を浮かべており、それが、自分自身の姿と重なった。
「似て、ますね……。ぼくに。顔もだけど、佇まいというか。晴れやかな場面で、上手く笑えないところとか――」
「恥ずかしがり屋なのでしょうね。あなたも、紗香も」
 ぎこちなく笑みを浮かべたものの、和彦はこぼれそうになる涙を堪えるのに必死だった。
 仏壇に手を合わせてから、テーブルの上に、写真立てと一緒に置かれた陶器製の鉢に目を留める。艶やかなピンク色の花が咲いており、なんとなく気になって、総子に花の名を尋ねる。ベゴニアといい、紗香が好きだった花だと教えてくれた。
 仏間を出て廊下を歩いていると、総子を探していたのか、君代が慌てた様子でやってきた。二人組のお客様が見えられた、と報告を受けて、総子は顔を綻ばせる。心当たりがあるのか、君代に短く指示を出してから、和彦を見た。
「……あの?」
「じっとしているのが落ち着かない性分だと、よく話している人たちですよ。行動力があって、優秀。若いのに、それなりに修羅場も経験しているそうです。だから――あなたのことをお任せしようと決めました」
 客人を出迎えるつもりなのか、総子が向かったのは玄関だ。必然的に和彦もついていく。
 靴を脱いでいる二人組の姿を見て、思わず声を洩らす。そこにいたのは、昨日墓参りに向かう途中で見かけた男たちだった。

しおりを挟む
感想 80

あなたにおすすめの小説

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

魔王に飼われる勇者

たみしげ
BL
BLすけべ小説です。 敵の屋敷に攻め込んだ勇者が逆に捕まって淫紋を刻まれて飼われる話です。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

処理中です...