血と束縛と

北川とも

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第45話

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「――……約束を守れ、って、そういう意味だったんだ」
 呻くような和彦の呟きが何を指しているか、すぐに俊哉は解した。
『お前の存在を目立たせるわけにはいかなかった。しかも、紗香と一緒にいるなど、あってはならないことだ。――ただ、わたしなりに、あの結末は後悔している。紗香は、あんな亡くなり方をしていい人間ではなかった。世間知らずだが、普通の優しい女だったんだ。お前が、当時のことを忘れてしまったのは不幸中の幸いだと、ずっと思っていたが……』
 深く息を吐き出して、和彦は抱えた膝に顔を埋める。秘密を封じ込めていた箱の紐は、一度緩んでしまえば、あとは簡単に解けてしまう。開いた箱から溢れ出たものが和彦の中を満たしていき、苦しくて堪らない。
「……ぼくの人生は、生まれる前から決められていた、ということか……」
『それでも、自由にはさせたつもりだ。進学のために一人暮らしをさせて、医者になったあとも、佐伯の家に戻ってこいとは言わなかった。いつか英俊が佐伯の姓を捨てたあと、お前が戻ってくれば、それでよかった。何かを強いるつもりはない。お前は佐伯の人間として生きてさえいればいいんだ』
「兄さんは、佐伯の家を大事にしている。父さんの思い通りにならない可能性があるのに」
『〈あれ〉は、あまりにわたしに似すぎている。わたしの人生をたどろうとして、わたし以上に血に殉じようとして――苦々しかった。英俊は、若い頃のわたしだ』
 佐伯の血が流れている英俊から、あえて姓を奪うという行為は、血の呪いから解放してやりたいという親心なのか、佐伯の家の系譜を歪めてやろうという、俊哉なりの復讐なのか。
 わからない、と和彦は何度も声に出して呟く。俊哉の抱えている闇の深さが、本当にわからなかった。どれほど、佐伯の血を疎んでいるのかも。
「父さんは、ぼくに意思があることを忘れている。もしぼくが、全部知ったうえで、和泉の家に入ると決めたら、どうするつもりなんだ。今みたいな話を聞いて、どんな顔をして家に戻ればいい……」
『和泉の家に入ったところで、お前は紗香と同じ苦しみを味わうだけだ。もともと和泉の家は、憂いの種となっていた紗香の元婚約者の実家が断絶したあと、お前を返してほしいと、こちらに連絡を寄越してきていた。お前の健康な体があれば、後継ぎとなる子はどうとでもなると考えていても不思議ではない。〈和泉〉と〈和彦〉、姓と名に同じ漢字が入っていると短命になると、古い言い伝えを信じている家だ。お前に名も捨てさせるかもな』
「そんな……」
 和泉の家に住む人たちと接してみて、そんな企みがあるとは到底思えなかった。少なくとも総子はもう、家の将来について諦観のような感情を抱いていると感じた。
「血の呪いだと言いながら、父さん自身が、ぼくに呪いをかけようとするんだね……」
『お前がこちらに戻ってきたら、膝を突き合わせて、いくらでも時間をかけて語ろう。――お前が佐伯家を継ぐべき人間だと、何度でも言ってやろう』
 ふいに猫が鳴き声を上げ、体を丸めたままこちらを見る。大きな丸い目を見つめ返しながら和彦は、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。
「母さんは、全部知ってる?」
『……どうだろうな。英俊を婿養子に出す話に前のめりなのは、綾香なりに、わが子を守りたいと思ってのことかもしれない。佐伯や和泉の家から引き離そうと』
 初めて抱く感情だが、和彦は、自分自身を強烈に哀れんでいた。同時に、叫び出したいほど猛烈な怒りに襲われた。そして次の瞬間に襲われたのは、虚無感だった。
「血の繋がらないぼくに託すぐらいなら、父さん自身が、抗うべきだった。父さんの対応次第で、紗香さんはあんな亡くなり方をしなくて済んだかもしれない」
『そのことに気がついたときには、手遅れだった。そもそもわたしも、長嶺と出会っていなければ、考えなかった。……いろんなことを』
 俊哉の声は、暗い澱みのようなものを感じさせた。胸の内にずっと隠し持っていたものを晒しながら、この人はどんな感情に支配されているのだろうと、想像せずにはいられない。一方の和彦自身は、疲れからか声が掠れ気味となっていた。
 まだ聞かなければならないことがあるのではないかと、忙しく頭を働かせるが、思考は緩慢になりつつある。
 昨日までとは、まさに世界が一変したのだ。佐伯という姓に対しても、家族に対しても、自分は異物だという認識はあったが、完全に血が繋がっていないという現実は、あまりに非情だ。
「だったらぼくも、父さんと同じだ。長嶺の男たちと出会って、いろんなことを考えるようになった。その中の一つに、佐伯の姓を失っても、生きていけるんじゃないか、ということもある……」
 和彦のこの発言に対して返事をしなかった俊哉だが、電話を切ろうとしたとき、最後にこんなことを言った。
『――明日は、列車を乗り継いで帰ってこい。新幹線は今からだともう予約が取れないだろ』
 俊哉の指示を怪訝に思ったが、あえて疑問を口にするほどではない。実際、帰省終わりのラッシュが始まっており、和彦が利用する予定の新幹線は全車指定席となっているため、予約は絶望的なはずだ。
 それに、無理をしてでも一刻も早く帰りたいという心境ではない。
「わか、った……」
 電話を終えた和彦はぐったりと壁にもたれかかり、しばらく動けなかった。



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