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第45話
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「それを受け入れたんですね。賀谷先生は」
「不思議と、嫌悪感も嫉妬もなかった。自分は潔癖なタイプの人間だと思っていたけど、そうじゃなかったんだろう。……なんだか、危うくてね。裏切られたとか、そういうことはまったく思わなかった。当時」
「……危うくてとは、母が、ですか?」
いや、と賀谷は緩く首を振る。
「紗香さんと佐伯さんの二人が」
このタイミングで、板戸を軽く叩く音がした。和彦と顔を見合わせてから、賀谷が立ち上がる。板戸を開けたとき、ちらりと見えたのは総子の姿だった。短く会話を交わしたあと、賀谷は一旦部屋を出る。
和彦の様子について手短に説明したのか、一分もしないうちに賀谷は、湯呑みと急須をのせた盆を持って部屋に戻ってきた。
「君が目を覚ましていたら、勧めてくれないかと言われた」
差し出された湯呑みから漂う甘酒の香りに、ほっと吐息を洩らす。少しだけ口に含むと、優しい甘さが体に溶け込んでいく。
甘酒で思い出すのは、ちょうど一年前、初詣に出かけたときのことだ。あのときは、甘酒を勧められたものの、結局一口も飲まないうちに賢吾に取り上げられてしまった。
賀谷はお茶を啜ってから、再び話し始めた。
「佐伯さんと自分は似ていると、紗香さんが言ったことがある。最初、ぼくはピンとこなかったけど、一緒にいる二人を見ているうちに、こういうことじゃないかなと思うようになったんだ――」
同志、という単語を賀谷は口にし、和彦は口中で反芻する。
「二人の関係は、不倫の一言で片づけることもできるけど、ぼくはそうしたくない。……紗香さんは、とにかく自分が置かれた状況から抜け出したがっていた。何かを変えたくて必死にもがいているようでもあり、佐伯さんはたぶん、そんな紗香さんに共感した。もしくは、紗香さんが佐伯さんに、かも。――目的のためなら、なんでもやってしまいそうな危うさ。当時ぼくが二人に感じたのは、それだ」
俊哉は、優秀な官僚として精力的に働いていたであろう時期だ。当時の俊哉の姿を知らない和彦だが、そんな俊哉に『危うさ』を感じたという賀谷の言葉は、にわかには信じられないものだった。俊哉は、常に完璧であり、理性的だ。そして、家庭の中にあっても孤高だ。俊哉の孤高ぶりは、己への自信に裏打ちされたものだと、当然のように和彦は考えていた。
しかし、異性関係に奔放であったとはいえ、俊哉があえて妻の妹と関係を持ったのには、目的があったとすれば――。
形容しがたい感情の塊に胸を塞がれ、和彦は甘酒をさらに啜る。
「……ぼくも、親からの圧力にうんざりはしていたけど、切迫したものではなかった。だから、なんの決断もできなかった。紗香さんが亡くなったあと、都会でそれなりの規模の病院で、手術が上手いだなんだと持ち上げられて、だからといって独立するだけの気概はなく、縁談を何件も持ち込まれても選ぶもこともできず、ただ流されてきた」
「ぼくも、そうです。ずっと、流されてきました」
ぽろりと出た言葉に、賀谷はふっと目元を和らげる。
「似ているんだな、ぼくたちは」
自分が知っていることはこれだけだと、賀谷は言った。和彦は湯呑みに視線を落としてしばらく黙考していたが、思いきって顔を上げる。賀谷は、和彦が何を言おうとしているか察しているようだった。
「――あなたは、ぼくの本当の父なんですか?」
「その質問に対する答えを、ぼくは持たない。……紗香さんはあくまで、佐伯さんの子だと主張して、佐伯さん自身も認めていた。和泉家の人たちはそれで納得するしかなかった。ぼくに対して彼女は、あなたは関係ないと言ったんだ。そんなわけにはいかないと、ぼくは何度も説得しようとしたんだけどね」
追いすがろうとした賀谷に、紗香はさらにこう言ったのだという。
もう二度と会わない、と。
「婚約破棄のゴタゴタにぼくを巻き込みたくないんだと、すぐにわかった。佐伯さんはいいのかと聞いたら、あの人は戦い方を知っていると言われて、初めて、佐伯さんに嫉妬した。ぼくは医学生。あの人は当時すでにエリート官僚だったから、相手にならない。家庭のある身なのに、醜聞を恐れてもいないようだった。佐伯さん自身、すごい後ろ盾を持っているのかと、あれこれ考えたものだよ」
この瞬間、和彦の脳裏に過るものがあったが、一瞬すぎて、それがなんであるかはっきりと捉えることができなかった。
「ぼくは、誰にも、何も主張できなかった。紗香さんの意思を尊重したと言えば格好いいが、そうじゃない。敗北感と劣等感で身動きできなかった。結果、産まれた君に一度も会うことは叶わなかったし、会いに行くこともしなかった」
申し訳ないが、と前置きしてから、賀谷はこう続けた。
「長い時間が経つ間に、紗香さんのことは鮮やかな思い出になり、彼女が産んだ子供の存在は、どんどん現実味が薄れていった。夢の中での出来事だったのかもしれないとすら、思い始めていた。紗香さんの墓前で、数年に一度、佐伯さんと顔を合わせるたびに、子供のことを聞こうとして、できなかった。教えたくないと言われることも、そんな子供はいないと言われることも、恐れていた。ぼくは勇気のない男なんだ。……ずっと」
この人は、外見はともかく、内面は青年の頃のままなのかもしれないと和彦が思ったとき、棘が刺さったような痛みが胸の奥に生まれた。紗香と過ごしていた時間に心が囚われ続けているのだとしたら、賀谷を愚かとも哀れだとも思わないが、一方で、紗香と俊哉に対しては怒りを覚えるのだ。
「賀谷さん……、ご家族は?」
「ずっと独身のままだ」
寂しげな笑みとともに、賀谷が答える。
「紗香さんを引きずっているわけじゃない。ただ向いてなかったというだけだ。家庭を作るということに」
「それは――」
わかる気がする、と言いかけて、寸前で口を閉じる。賀谷は情が薄そうに見えるという同意ではなく、自分もそうだと共感したのだ。
長嶺父子と出会う前まで和彦は、自分は佐伯という姓に縛られたまま、一人で生きて一人で死ぬ人間なのだと、漠然と思っていた。今はどうかと自問してみると――。
「でも、ときどき考えていたんだ。この世界には、紗香さんの子がいるんだなと。どんな人生を歩んでいるんだろうかと。聞けば、総子さんは教えてくれたんだろうけど、そのとき自分は、どんな顔をすればいいのかと想像して、怖気づいた。佐伯さんの下で育っているなら、ぼくなんかが心配するのは、失礼だろう」
和彦は何度か唇を舐めてから、ようやく切り出した。
「……ぼくは、あなたを責める気持ちはまったくありません。父たちとの間で実際はもっといろんなやり取りがあったんでしょうけど、あなたが自分を卑下するのは違う、と思います」
むしろ責められるべきは、自分〈たち〉ではないのかと和彦は呵責に苛まれる。賀谷から、紗香を奪ってしまったのだ。
賀谷は目を丸くして和彦を凝視し続けていたが、我に返ったのか、診察鞄のポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、素早く何か書き込む。
「相談事や助けが欲しいときは、いつでも連絡してくれないかな。大層な力はないけど、できる限りのことをさせてほしい」
「お気持ちはありがたいですが、ぼくに関わらないほうがいいと思います」
和彦の置かれた状況を知ってか知らずか、賀谷は遠慮がちにこう言った。
「――……普通、親は、子が困っていたら、なんとかしたいと思うだろう?」
和彦は、なんと答えていいかわからなかった。検査をすれば、誰と血の繋がりがあるかはっきりするが、今の賀谷に、この提案はできなかったし、してはいけない気がした。
賀谷にとって重要なのは、和彦が紗香の子であるという一点なのだ。
携帯電話の番号が書かれたメモ用紙を受け取った途端、激しい疲労感に襲われた。気を張っていられる限界が訪れたらしい。賀谷もすぐに察したようで、横になるよう言われて、おとなしく従った。
「念のため、抗不安薬を出しておこう。あとで届けるから、夜休む前に服用して。不安や緊張が続くなら、自宅に戻ってからきちんと診察を受けたほうがいい」
賀谷には、今夜もこの家に泊まるべきだと釘を刺された。和彦としても、今の自分の体調では、長距離移動は無理だと判断せざるをえない。それに、俊哉と対峙するのに、少しでも猶予が欲しかった。
和彦が頷くと、賀谷は安心したように口元を緩めた。
「不思議と、嫌悪感も嫉妬もなかった。自分は潔癖なタイプの人間だと思っていたけど、そうじゃなかったんだろう。……なんだか、危うくてね。裏切られたとか、そういうことはまったく思わなかった。当時」
「……危うくてとは、母が、ですか?」
いや、と賀谷は緩く首を振る。
「紗香さんと佐伯さんの二人が」
このタイミングで、板戸を軽く叩く音がした。和彦と顔を見合わせてから、賀谷が立ち上がる。板戸を開けたとき、ちらりと見えたのは総子の姿だった。短く会話を交わしたあと、賀谷は一旦部屋を出る。
和彦の様子について手短に説明したのか、一分もしないうちに賀谷は、湯呑みと急須をのせた盆を持って部屋に戻ってきた。
「君が目を覚ましていたら、勧めてくれないかと言われた」
差し出された湯呑みから漂う甘酒の香りに、ほっと吐息を洩らす。少しだけ口に含むと、優しい甘さが体に溶け込んでいく。
甘酒で思い出すのは、ちょうど一年前、初詣に出かけたときのことだ。あのときは、甘酒を勧められたものの、結局一口も飲まないうちに賢吾に取り上げられてしまった。
賀谷はお茶を啜ってから、再び話し始めた。
「佐伯さんと自分は似ていると、紗香さんが言ったことがある。最初、ぼくはピンとこなかったけど、一緒にいる二人を見ているうちに、こういうことじゃないかなと思うようになったんだ――」
同志、という単語を賀谷は口にし、和彦は口中で反芻する。
「二人の関係は、不倫の一言で片づけることもできるけど、ぼくはそうしたくない。……紗香さんは、とにかく自分が置かれた状況から抜け出したがっていた。何かを変えたくて必死にもがいているようでもあり、佐伯さんはたぶん、そんな紗香さんに共感した。もしくは、紗香さんが佐伯さんに、かも。――目的のためなら、なんでもやってしまいそうな危うさ。当時ぼくが二人に感じたのは、それだ」
俊哉は、優秀な官僚として精力的に働いていたであろう時期だ。当時の俊哉の姿を知らない和彦だが、そんな俊哉に『危うさ』を感じたという賀谷の言葉は、にわかには信じられないものだった。俊哉は、常に完璧であり、理性的だ。そして、家庭の中にあっても孤高だ。俊哉の孤高ぶりは、己への自信に裏打ちされたものだと、当然のように和彦は考えていた。
しかし、異性関係に奔放であったとはいえ、俊哉があえて妻の妹と関係を持ったのには、目的があったとすれば――。
形容しがたい感情の塊に胸を塞がれ、和彦は甘酒をさらに啜る。
「……ぼくも、親からの圧力にうんざりはしていたけど、切迫したものではなかった。だから、なんの決断もできなかった。紗香さんが亡くなったあと、都会でそれなりの規模の病院で、手術が上手いだなんだと持ち上げられて、だからといって独立するだけの気概はなく、縁談を何件も持ち込まれても選ぶもこともできず、ただ流されてきた」
「ぼくも、そうです。ずっと、流されてきました」
ぽろりと出た言葉に、賀谷はふっと目元を和らげる。
「似ているんだな、ぼくたちは」
自分が知っていることはこれだけだと、賀谷は言った。和彦は湯呑みに視線を落としてしばらく黙考していたが、思いきって顔を上げる。賀谷は、和彦が何を言おうとしているか察しているようだった。
「――あなたは、ぼくの本当の父なんですか?」
「その質問に対する答えを、ぼくは持たない。……紗香さんはあくまで、佐伯さんの子だと主張して、佐伯さん自身も認めていた。和泉家の人たちはそれで納得するしかなかった。ぼくに対して彼女は、あなたは関係ないと言ったんだ。そんなわけにはいかないと、ぼくは何度も説得しようとしたんだけどね」
追いすがろうとした賀谷に、紗香はさらにこう言ったのだという。
もう二度と会わない、と。
「婚約破棄のゴタゴタにぼくを巻き込みたくないんだと、すぐにわかった。佐伯さんはいいのかと聞いたら、あの人は戦い方を知っていると言われて、初めて、佐伯さんに嫉妬した。ぼくは医学生。あの人は当時すでにエリート官僚だったから、相手にならない。家庭のある身なのに、醜聞を恐れてもいないようだった。佐伯さん自身、すごい後ろ盾を持っているのかと、あれこれ考えたものだよ」
この瞬間、和彦の脳裏に過るものがあったが、一瞬すぎて、それがなんであるかはっきりと捉えることができなかった。
「ぼくは、誰にも、何も主張できなかった。紗香さんの意思を尊重したと言えば格好いいが、そうじゃない。敗北感と劣等感で身動きできなかった。結果、産まれた君に一度も会うことは叶わなかったし、会いに行くこともしなかった」
申し訳ないが、と前置きしてから、賀谷はこう続けた。
「長い時間が経つ間に、紗香さんのことは鮮やかな思い出になり、彼女が産んだ子供の存在は、どんどん現実味が薄れていった。夢の中での出来事だったのかもしれないとすら、思い始めていた。紗香さんの墓前で、数年に一度、佐伯さんと顔を合わせるたびに、子供のことを聞こうとして、できなかった。教えたくないと言われることも、そんな子供はいないと言われることも、恐れていた。ぼくは勇気のない男なんだ。……ずっと」
この人は、外見はともかく、内面は青年の頃のままなのかもしれないと和彦が思ったとき、棘が刺さったような痛みが胸の奥に生まれた。紗香と過ごしていた時間に心が囚われ続けているのだとしたら、賀谷を愚かとも哀れだとも思わないが、一方で、紗香と俊哉に対しては怒りを覚えるのだ。
「賀谷さん……、ご家族は?」
「ずっと独身のままだ」
寂しげな笑みとともに、賀谷が答える。
「紗香さんを引きずっているわけじゃない。ただ向いてなかったというだけだ。家庭を作るということに」
「それは――」
わかる気がする、と言いかけて、寸前で口を閉じる。賀谷は情が薄そうに見えるという同意ではなく、自分もそうだと共感したのだ。
長嶺父子と出会う前まで和彦は、自分は佐伯という姓に縛られたまま、一人で生きて一人で死ぬ人間なのだと、漠然と思っていた。今はどうかと自問してみると――。
「でも、ときどき考えていたんだ。この世界には、紗香さんの子がいるんだなと。どんな人生を歩んでいるんだろうかと。聞けば、総子さんは教えてくれたんだろうけど、そのとき自分は、どんな顔をすればいいのかと想像して、怖気づいた。佐伯さんの下で育っているなら、ぼくなんかが心配するのは、失礼だろう」
和彦は何度か唇を舐めてから、ようやく切り出した。
「……ぼくは、あなたを責める気持ちはまったくありません。父たちとの間で実際はもっといろんなやり取りがあったんでしょうけど、あなたが自分を卑下するのは違う、と思います」
むしろ責められるべきは、自分〈たち〉ではないのかと和彦は呵責に苛まれる。賀谷から、紗香を奪ってしまったのだ。
賀谷は目を丸くして和彦を凝視し続けていたが、我に返ったのか、診察鞄のポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、素早く何か書き込む。
「相談事や助けが欲しいときは、いつでも連絡してくれないかな。大層な力はないけど、できる限りのことをさせてほしい」
「お気持ちはありがたいですが、ぼくに関わらないほうがいいと思います」
和彦の置かれた状況を知ってか知らずか、賀谷は遠慮がちにこう言った。
「――……普通、親は、子が困っていたら、なんとかしたいと思うだろう?」
和彦は、なんと答えていいかわからなかった。検査をすれば、誰と血の繋がりがあるかはっきりするが、今の賀谷に、この提案はできなかったし、してはいけない気がした。
賀谷にとって重要なのは、和彦が紗香の子であるという一点なのだ。
携帯電話の番号が書かれたメモ用紙を受け取った途端、激しい疲労感に襲われた。気を張っていられる限界が訪れたらしい。賀谷もすぐに察したようで、横になるよう言われて、おとなしく従った。
「念のため、抗不安薬を出しておこう。あとで届けるから、夜休む前に服用して。不安や緊張が続くなら、自宅に戻ってからきちんと診察を受けたほうがいい」
賀谷には、今夜もこの家に泊まるべきだと釘を刺された。和彦としても、今の自分の体調では、長距離移動は無理だと判断せざるをえない。それに、俊哉と対峙するのに、少しでも猶予が欲しかった。
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