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第45話
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和彦は身じろぐと、慎重に体を起こす。賀谷が手を貸してくれ、なんとか座ることができた。賀谷は和彦の指先を軽く握ってから問いかけてきた。
「痺れは?」
「いえ……」
「寒気とかは……」
大丈夫ですと、顔を強張らせたまま応じると、賀谷に指摘された。
「緊張している、かな。――実はぼくも、緊張している。昨日はたまたま君と顔を合わせたけど、今日は違うから」
そう言って賀谷は顔を伏せる。
「もう聞いているかもしれないけど、ぼくの父親も医者だったんだ。和泉家には長く世話になっていてね。だから、わかるようになったんだそうだ。総子さんの話しぶりで、これは内密にしたい診察だな、というのが。今日総子さんから、うちにかかってきた電話を聞いて、これかと思った。だから目立つ白衣を置いて、一人で来たんだ」
再び顔を上げた賀谷は微苦笑を浮かべていた。
「総子さんは肝が据わっている。ぼくと君をこうやって対面させるんだから。……いつかは、会いたいと思っていたんだ。紗香さんの子に」
「ぼくの子に、とは言わないんですね」
自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。賀谷はハッとしたように目を見開いたあと、なぜか慈しむような眼差しを和彦に向けてきた。本能的に感じた。これは、親が子に向ける眼差しではないか、と。
和彦の発言で、ある程度の事情を把握していると察したのか、あらかじめ総子から何か教えられていたのか、賀谷はすぐさま、医者としてではなく、賀谷個人として和彦と向き合うことを決めたようだった。
「……弱っている君に話していいものか、ためらう気持ちはあるんだ」
「かまいません。全部、聞きたいです」
和彦の中でわけのわからない感情がこみ上げてきて、目頭が熱くなってくる。ぐっと奥歯を噛み締めて、涙を堪えた。
「――多くの人は理解してくれないだろう。紗香さんとぼくと、佐伯さんの関係を」
話しながら賀谷が指を組む。
「父を……、佐伯俊哉を知っているんですか?」
「最初は、紗香さんが紹介してくれた。義理の兄だと言って。それから何度か。紗香さんが亡くなってからは、彼女の墓の前で」
賀谷が話してくれた紗香との出会いは、前日に総子から聞かされたものとさほど差異はなかった。この土地では目立つ二人だったため、おおっぴらに出歩くわけにもいかず、ときには電車で出かけて、離れた場所で逢瀬を重ねていたと、昔を懐かしんでいるのか賀谷は目を細めた。
「ぼくは本気で結婚を考えていたけど、父からは釘を刺されたんだ。彼女にはもう婚約者がいて、婿として和泉家に入ることが決まっていると。一方のぼくは、国試に受かるのは当然で、医者としての出世を家族から望まれていた。ご覧のとおり、野心からは程遠い人間だから、なんとも息苦しくてね。……当時の紗香さんも似たような状況だった。一時本気で、駆け落ちしようかと話したこともあった」
「……どうして、そうしなかったんですか?」
「どうしようもなく重いものを背負わされた人間は、簡単には投げ出せない。紗香さんは、和泉家を大事にしていたんだ。お姉さんが嫁いでいってしまったから、自分が将来、家の切り盛りしなくては、と。――だからせめて、ぼくを欲しいと訴えてくれたんだ。総子さんと正時さんに」
古くから続く家同士の繋がりは難しいと、ため息交じりに賀谷は洩らした。どんなに当人たちが求めようと、家長が許さない限り、二人の結婚はありえなかったのだ。
「そのときからだ。ぼくが知る、おとなしくて控えめなお嬢さんの紗香さんは変わった。もしかすると、ずっと本当の自分を抑え込んでいただけで、
本当の姿は〈こちら〉だったのかもしれない」
「本当の姿……?」
「気性が激しくなった、というのは、少し違う。そう……、怒りや苛立ちを表に出すようになった。大嫌いだと言っていたよ。自分の実家を。大事だけど、大嫌い。偽らざる、彼女の本心だったと思う」
視線を上げた賀谷は、苦しげに眉をひそめる。
「ぼくは、総子さんや正時さんには話せない、彼女との思い出がたくさんある。話せないのは、二人がつらい思いをするとわかっているからだ。こういう感傷を持つのは、ぼくのエゴなのかもしれないけど。――君はどう思う? 自分の祖父母に会ってみて」
こう問われ、和彦の脳裏にまず浮かんだのは、なぜか父方の祖父母の存在だった。すでに二人とも他界しているが、和彦が実家で暮らしていた頃は行き来があり、顔も覚えている。特に可愛がられたわけではなく、それは英俊に対しても同様だった。いくつかの名誉職を掛け持ちしていた祖父母はとにかく多忙で、孫に目をかけている暇などなかったのだろう。
佐伯家を継ぐ男子が生まれて、それだけで満足だったのかもしれない。しかも長男の英俊は優秀だ。ある意味、無関心は、安心感の表れだったともいえる。
自分たちの祖父母とはそういうものなのだと、ずっと和彦は思っていた。
「……優しい人たちだと思います。何年も疎遠にしていたぼくと会っても、喜んでくれて……。事情があったにせよ、もっと早くに会って、話したかったです」
「ぼくも同じ気持ちだ。家族同様に扱ってくれて、紗香さんのことをいろいろ聞きたいだろうに、こちらの気持ちをずっと慮ってくれる。――父を亡くして、後ろ盾をなくしたぼくをここに呼び寄せてくれたのも、あの人たちなんだ。紗香さんが繋いでくれた縁だ」
賀谷の話に引き込まれながらも、和彦はあることが気になった。
「……〈母〉を、憎んでいないんですか?」
和彦の問いかけがよほど意外だったのか、賀谷は目を見開いたあと、口元に手をやり、あごを撫で、小さく声を洩らして視線を伏せる。医者として、大人の男性として、和彦などよりよほど経験を積み重ねているはずの人が、この瞬間だけはひどく頼りなく見えた。まるで、世間ずれしていない年若い青年のような――。
「ああ……、考えたこともなかったな。そうか。ぼくは、恋人を既婚者に奪われた挙げ句、恋人自身を死なせて失った男になるのか」
「すみません……。冷静に話されているので、気になって」
「ぼくなりに、納得したんだ。紗香さんは目的があって行動した。ぼくは、その彼女についていくことを許されなかった。……いや違うな。ぼくが彼女の手を取れなかった。自力で生活費を稼いだこともなく、学費も親頼みの自分が、駆け落ちして二人きりで生きていくという現実を怖がったんだ。紗香さんは聡い女性だったから、ぼくの心の揺れを見抜いたんだろうな」
当時の二人がどんな様子だったか、和彦には知ることができない。ただ、賀谷と紗香、それぞれが抱えたであろうやるせない気持ちは、少しだけ理解できる気がするのだ。
特に紗香が、周囲の期待を裏切るような行動を取ったことは、和彦自身にも重なる。無意識に唇を噛んでいた。
「――……紗香さんと佐伯さんの間にどんなやり取りがあったのかまでは、ぼくは知らない。はっきりしているのは、ぼくと佐伯さんは同時期に、紗香さんと関係を持っていたということだ」
昨夜総子から話を聞かされて、想像はしていたことだ。それでも、紗香と自分はどこまでそっくりなのかと思わずにはいられない。
「痺れは?」
「いえ……」
「寒気とかは……」
大丈夫ですと、顔を強張らせたまま応じると、賀谷に指摘された。
「緊張している、かな。――実はぼくも、緊張している。昨日はたまたま君と顔を合わせたけど、今日は違うから」
そう言って賀谷は顔を伏せる。
「もう聞いているかもしれないけど、ぼくの父親も医者だったんだ。和泉家には長く世話になっていてね。だから、わかるようになったんだそうだ。総子さんの話しぶりで、これは内密にしたい診察だな、というのが。今日総子さんから、うちにかかってきた電話を聞いて、これかと思った。だから目立つ白衣を置いて、一人で来たんだ」
再び顔を上げた賀谷は微苦笑を浮かべていた。
「総子さんは肝が据わっている。ぼくと君をこうやって対面させるんだから。……いつかは、会いたいと思っていたんだ。紗香さんの子に」
「ぼくの子に、とは言わないんですね」
自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。賀谷はハッとしたように目を見開いたあと、なぜか慈しむような眼差しを和彦に向けてきた。本能的に感じた。これは、親が子に向ける眼差しではないか、と。
和彦の発言で、ある程度の事情を把握していると察したのか、あらかじめ総子から何か教えられていたのか、賀谷はすぐさま、医者としてではなく、賀谷個人として和彦と向き合うことを決めたようだった。
「……弱っている君に話していいものか、ためらう気持ちはあるんだ」
「かまいません。全部、聞きたいです」
和彦の中でわけのわからない感情がこみ上げてきて、目頭が熱くなってくる。ぐっと奥歯を噛み締めて、涙を堪えた。
「――多くの人は理解してくれないだろう。紗香さんとぼくと、佐伯さんの関係を」
話しながら賀谷が指を組む。
「父を……、佐伯俊哉を知っているんですか?」
「最初は、紗香さんが紹介してくれた。義理の兄だと言って。それから何度か。紗香さんが亡くなってからは、彼女の墓の前で」
賀谷が話してくれた紗香との出会いは、前日に総子から聞かされたものとさほど差異はなかった。この土地では目立つ二人だったため、おおっぴらに出歩くわけにもいかず、ときには電車で出かけて、離れた場所で逢瀬を重ねていたと、昔を懐かしんでいるのか賀谷は目を細めた。
「ぼくは本気で結婚を考えていたけど、父からは釘を刺されたんだ。彼女にはもう婚約者がいて、婿として和泉家に入ることが決まっていると。一方のぼくは、国試に受かるのは当然で、医者としての出世を家族から望まれていた。ご覧のとおり、野心からは程遠い人間だから、なんとも息苦しくてね。……当時の紗香さんも似たような状況だった。一時本気で、駆け落ちしようかと話したこともあった」
「……どうして、そうしなかったんですか?」
「どうしようもなく重いものを背負わされた人間は、簡単には投げ出せない。紗香さんは、和泉家を大事にしていたんだ。お姉さんが嫁いでいってしまったから、自分が将来、家の切り盛りしなくては、と。――だからせめて、ぼくを欲しいと訴えてくれたんだ。総子さんと正時さんに」
古くから続く家同士の繋がりは難しいと、ため息交じりに賀谷は洩らした。どんなに当人たちが求めようと、家長が許さない限り、二人の結婚はありえなかったのだ。
「そのときからだ。ぼくが知る、おとなしくて控えめなお嬢さんの紗香さんは変わった。もしかすると、ずっと本当の自分を抑え込んでいただけで、
本当の姿は〈こちら〉だったのかもしれない」
「本当の姿……?」
「気性が激しくなった、というのは、少し違う。そう……、怒りや苛立ちを表に出すようになった。大嫌いだと言っていたよ。自分の実家を。大事だけど、大嫌い。偽らざる、彼女の本心だったと思う」
視線を上げた賀谷は、苦しげに眉をひそめる。
「ぼくは、総子さんや正時さんには話せない、彼女との思い出がたくさんある。話せないのは、二人がつらい思いをするとわかっているからだ。こういう感傷を持つのは、ぼくのエゴなのかもしれないけど。――君はどう思う? 自分の祖父母に会ってみて」
こう問われ、和彦の脳裏にまず浮かんだのは、なぜか父方の祖父母の存在だった。すでに二人とも他界しているが、和彦が実家で暮らしていた頃は行き来があり、顔も覚えている。特に可愛がられたわけではなく、それは英俊に対しても同様だった。いくつかの名誉職を掛け持ちしていた祖父母はとにかく多忙で、孫に目をかけている暇などなかったのだろう。
佐伯家を継ぐ男子が生まれて、それだけで満足だったのかもしれない。しかも長男の英俊は優秀だ。ある意味、無関心は、安心感の表れだったともいえる。
自分たちの祖父母とはそういうものなのだと、ずっと和彦は思っていた。
「……優しい人たちだと思います。何年も疎遠にしていたぼくと会っても、喜んでくれて……。事情があったにせよ、もっと早くに会って、話したかったです」
「ぼくも同じ気持ちだ。家族同様に扱ってくれて、紗香さんのことをいろいろ聞きたいだろうに、こちらの気持ちをずっと慮ってくれる。――父を亡くして、後ろ盾をなくしたぼくをここに呼び寄せてくれたのも、あの人たちなんだ。紗香さんが繋いでくれた縁だ」
賀谷の話に引き込まれながらも、和彦はあることが気になった。
「……〈母〉を、憎んでいないんですか?」
和彦の問いかけがよほど意外だったのか、賀谷は目を見開いたあと、口元に手をやり、あごを撫で、小さく声を洩らして視線を伏せる。医者として、大人の男性として、和彦などよりよほど経験を積み重ねているはずの人が、この瞬間だけはひどく頼りなく見えた。まるで、世間ずれしていない年若い青年のような――。
「ああ……、考えたこともなかったな。そうか。ぼくは、恋人を既婚者に奪われた挙げ句、恋人自身を死なせて失った男になるのか」
「すみません……。冷静に話されているので、気になって」
「ぼくなりに、納得したんだ。紗香さんは目的があって行動した。ぼくは、その彼女についていくことを許されなかった。……いや違うな。ぼくが彼女の手を取れなかった。自力で生活費を稼いだこともなく、学費も親頼みの自分が、駆け落ちして二人きりで生きていくという現実を怖がったんだ。紗香さんは聡い女性だったから、ぼくの心の揺れを見抜いたんだろうな」
当時の二人がどんな様子だったか、和彦には知ることができない。ただ、賀谷と紗香、それぞれが抱えたであろうやるせない気持ちは、少しだけ理解できる気がするのだ。
特に紗香が、周囲の期待を裏切るような行動を取ったことは、和彦自身にも重なる。無意識に唇を噛んでいた。
「――……紗香さんと佐伯さんの間にどんなやり取りがあったのかまでは、ぼくは知らない。はっきりしているのは、ぼくと佐伯さんは同時期に、紗香さんと関係を持っていたということだ」
昨夜総子から話を聞かされて、想像はしていたことだ。それでも、紗香と自分はどこまでそっくりなのかと思わずにはいられない。
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