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第45話
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しおりを挟む意識が戻ったとき、和彦は暖かい部屋に寝かされていた。何があったのかと軽く混乱したが、すぐにここは和泉家の屋敷で、自分が使っている部屋だとわかる。ただ、どうして今のような状況になっているのかは不明だった。
墓地にいたのだ。実母の墓参りをして、そして――。
前触れもなく、ひっと息を詰まらせた和彦は、次の瞬間には咳き込む。舌もうまく動かせないほど口中が乾ききっており、喉も痛い。身を捩った拍子に布団の傍らに目を向けると、水差しとグラスが盆に載せられ置いてあった。とりあえず水を飲もうと体を起こしたが、途端に頭がふらつき、すぐに突っ伏してしまう。このとき、布団の中の湯たんぽに気づいた。
漠然と、意識をなくしている間、周囲が騒々しかったことを思い出していた。夢だったのかもしれないが、甲斐甲斐しさがうかがえる部屋の様子を知るにつれ、少しずつ状況が把握できてきた。服も、楽なスウェットの上下に着替えさせられている。
そのうえで、まっさきに浮かんだ疑問は、誰がここまで運んでくれたのかということだ。
見知らぬ誰かが、墓地でうずくまった和彦を発見したのであれば、救急車を呼ぶ可能性が高いはずだ。昨日の午後にやってきたばかりの和彦が、和泉家の身内だと近所に周知されるはずもなく、そうなると可能性はごく限られてくる。
あとで総子に尋ねてみるしかないが、墓地で取り戻した記憶に比べれば些末なことにも思え、うつ伏せの姿勢のまま和彦はじっと考え込む。あの山小屋で何が起こったのか、正時や総子は知っているのだろうかと、それが気になった。実の娘のあんな凄惨な死に様を目の当たりにして、当時の二人が味わったであろう悲嘆ぶりを想像すると、胸が締め付けられる。
実母の死の重みが、ズシリと和彦にのしかかってくる。同時に、罪悪感も。すべて思い出した以上、逃げ出すことはできないのだ。
今すぐ俊哉に電話すべきではないかと思い至り、再び体を起こそうとしたとき、板戸の向こうで猫の鳴き声がした。まだ幼い感じのする声で、開けてくれと訴えかけてくるような鳴き声に意識を奪われ、数秒、思考が無になる。そのおかげで、かろうじて落ち着きを取り戻せた。
猫の鳴き声に重なるように、人の足音が近づいてくる。
「――入るよ」
聞き覚えのある柔らかな声がかけられる。少し間を置いてから、ゆっくりと板戸が開いた。和彦は顔だけを動かし、入ってきた人物を確認する。昨日、屋敷の門の前で出会った医者だった。
今日は白衣を羽織っていないのだなと、まず思った。それに一人だ。
板戸を閉める前に、毛玉が転がるように子猫が部屋に入り込んできたが、男性が一声かけると、まるで人の言葉がわかっているかのように、一声愛らしい声で鳴いて廊下に出る。
「ここの猫たちは聞き分けがいい」
板戸を閉めて振り返った男性は、そう言って笑った。温和な印象が一層強くなったが、和彦の気持ちは和らぐどころではない。今、一番会いたくないのと同時に、一番会う必要がある人物と二人きりになったのだ。
「もっとも、ぼくの体に染みついた消毒薬の匂いが嫌で、逃げているだけなんだろうけど」
診察鞄を置いて、男性が布団の傍らに腰を下ろす。このとき確かに、ふわりと消毒薬の匂いがした。
和彦が水を飲みたがっているとすぐに察したのか、水差しの水をコップに注いでくれる。和彦はなんとか頭を起こし、水を飲むことができた。
「――和泉家の墓の近くで、うずくまって気を失っていたと聞いたよ」
体を横向きにして和彦が枕に頭を預けたところで、男性が切り出す。
「とにかく早く来て欲しいと言われて飛んできたんだ」
「……すみ、ません……」
「体調を悪くした人が謝る必要はない。――まず血圧を測ろうか」
男性は診察鞄から血圧計を取り出して準備をすると、和彦の手を取った。ここぞとばかりに和彦は、じっと男性の顔を観察していた。
自分の、実の父親かもしれない人。ぼんやりとそんなことを考える。
血圧と熱を測り終えた男性に聞かれるまま、今の体調について答える。ふと、大事なことをまだ聞いていないことに気づいた。
「先生の、お名前を伺ってもいいですか……?」
「伺う、なんて言ってもらえるような大層なものじゃないけど、そういえばまだ名乗ってなかった。――賀谷、だよ」
「賀谷先生……」
「賀谷晴秋。賀正の賀に、渓谷の谷。そして、晴れた秋と書く。どんな日に生まれたのかわかりやすいだろう?」
そうですねと応じて、和彦は大きく深呼吸をする。聞きたいことはいくらでもあるのに、胸が詰まって上手く言葉が出ない。そんな和彦を気遣わしげに見つめていた賀谷は、いきなり正座を崩す。胡坐をかき、やや前のめりの姿勢となった。診察を終えてもすぐに帰るつもりはないと、示すように。
なんとなくだが、いくら急に呼び出されたとはいえ、今日は看護師を伴っていないことに、賀谷なりの理由があるように感じた。それに、白衣を羽織っていないことにも。
「君も医者なら、自分がどうして失神したのか、薄々察しはついているんじゃないか?」
「……PTSD、ですか」
「専門医に診てもらったことは?」
「特には。もともと不眠気味で、心療内科でカウンセリングは受けていたんですが。いままで、自分の中に〈何が〉あるのか、よくわからなかったんです。だけど、赤い屋根を見て――」
賀谷は、小さく声を洩らした。和彦に何が起こったのか、即座に解したらしい。
「十年ぐらい前までは、あの墓地から見ることができたんだ。彼女が亡くなった山小屋は。だけど、山の木々が成長して、山小屋を覆い隠してしまってから、ぼくらの視界に入らなくなっていた。つらい記憶の残る場所なら取り壊してしまえばいいという話もあったみたいだけど、そう割り切れるものでもないんだろう。この家の人たちにとっては」
「……ぼくには見えたんです。覆い隠されているはずの山小屋が」
「PTSDの症状の一つだ。フラッシュバックは。ぼくは、紗香さんの月命日にあの場所に足を運んでいるけど、もう何年も見たことはないんだ。山小屋を」
見えた、見えないと、言い争うつもりはない。それは重要ではなかった。
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