血と束縛と

北川とも

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第45話

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 急に心臓の鼓動が痛いほど速くなったのは、昨晩の総子の話を思い出したからだ。己の意思では止めようがないほど、記憶を刺激される。もっとよく見える場所を探して和彦はふらふらと歩き出していた。
 ようやく、木々の合間から赤い屋根の一部が見えると、大きく息を吐き出した。自分は、あの赤い屋根を間近で見たことがあると、確信が持てた。それは、いままで靄にかかったようにおぼろだった記憶が、鮮明になった瞬間だ。
「あぁっ……」
 和彦を声を洩らすと、その場に屈み込んでいた。
 赤い屋根の建物は、二階建ての山小屋だった。一階には木や枝の伐採で使う道具などが並べて置いてあり、刃が危ないから近づかないようにと言い聞かされた。ずいぶん昔のことなのに、明瞭に耳元で女性の声が蘇る。
 幼稚園から戻って一人、自宅の庭に出て花を眺めていた和彦に、初めて見かけた女性は柵の向こう側から親しげに話しかけてきた。お母さんの妹だと名乗られてすぐに信じたのは、母親とよく似た顔立ちをしていたからだ。そして、母親より声音も表情も優しかった。
 それが和彦の記憶にある、紗香との初対面だった。
 なんと言われて外に誘い出されたのかまではさすがに覚えていないが、強引に連れ出されたわけではなく、和彦は自らの意思で紗香についていった。二人で電車に乗り、途中からタクシーに乗り換え、長い移動の途中にはたくさんのお菓子やジュースを買い与えられたが、すぐに眠くなり、ほとんど口にすることはなかった。
 起こされてタクシーを降りたとき、見たこともない景色が広がる場所に立っていた。
 ずっと手を繋いで、二人で山を登ったのだ。幼い和彦の足ではひどく険しい道でときおり泣きそうになったが、紗香もまた足取りが覚束なくて、弱音を吐けなかった。何度か座り込んで休憩をするたびに汗を拭ってくれ、髪を梳いてくれて、優しい手つきと眼差しに、和彦は嬉しくなった。
 ただ、それもほんの一時だった。山小屋の二階に身を落ち着けると、途端に紗香の様子は不安定になった。和彦に、自分は本当の母親だと言い、ずっと引き離されてつらかったと涙を流したかと思えば、突然、誰に対してなのか呪詛めいた恨み言を叫び、全身で怒りを表した。この頃にはすっかり和彦は怯えてしまい、部屋の隅に逃げて膝を抱えていたが、するとそんな和彦を見て紗香が悲しげな顔をする。引き寄せられるまま抱き締められていた。
 強い香水の香りと入り混じった汗の匂いが蘇り、眩暈に襲われる。
 エアコンもない暑い部屋の中で、紗香はずっと、わが子との理想の生活を語り続けた。和彦が聞いているとかいないとかは関係ないようだった。疲れて眠ったあとはとにかくお腹が空き、途中で買ってもらったお菓子とジュースでなんとか飢えを凌いだが、それも一日も経たずに尽きてしまった。
 一階の小さな台所で、水を飲もうと蛇口を捻っても肝心の水は出ず、和彦は途方に暮れるしかなかった。外に出ることも許されず、ただ窓から、鬱蒼とした木々を眺めていた。そのうち、体を起こしているのもつらくなり、畳に寝転がるようになっていた。紗香は、心配はしてくれたようだが、水を持ってきてくれることはなく、それどころか、押し入れから引っ張り出してきた毛布を和彦の体にかけてきた。
 この人は、自分とは違う世界にいるのだと、漠然とながら和彦にも理解できた。
〈本当のお母さん〉に会いたいと、あのときはただひたすら願っていたのだ。あまり笑いかけてくれなかったが、毎朝早く仕事に出かける前には、まだベッドにいる和彦のもとに来て、何度も頬を撫でてくれたし、仕事が休みの日には和彦の好物を作り、美味しいと言うと嬉しそうに笑った。子供の目から見てもわかるほど忙しい人だったが、できる限り寄り添ってくれていた。
 母親を恋しがって泣く和彦に、紗香は嬉しそうに微笑んでいた。当時は自分を虐げて喜んでいるのかと思ったが、今なら意味がわかる。自分を求めて泣いていると思い込んでいたのだ。
 精神的にも肉体的にも衰弱した和彦を助けてくれたのは、俊哉だった。血相を変えて部屋に飛び込んできたかと思うと、畳の上で毛布に包まってぐったりとした和彦を見るなり、紗香を怒鳴りつけた。約束を守れ、と言っていた気がする。
 二人の揉み合いに巻き込まれ、体を揺さぶられた和彦は嘔吐してしまう。怯んだ紗香が身を引いた瞬間に、俊哉は和彦を抱き上げた。立ち去ろうとした俊哉に、紗香は必死にすがりついていた。
 和彦は荒い息を吐き出す。今は真夏ではなく、ここは息苦しいほどの熱気が立ち込めた山小屋でもない。それなのに容易に、意識はあの頃へと引き戻される。
 紗香を振り払った俊哉が一階に下り、外に出ようとした瞬間、あとを追いかけてきた紗香が鋭い声を上げた。俊哉にしがみついた和彦が見たのは、置いてあった鎌を手にした紗香だった。
 あのとき、俊哉と紗香の間に駆け引きはなかった。紗香は強張った顔で鎌を首筋に当てたが、俊哉は止めなかった。その代わり、和彦の両目を手で覆ったのだ。次に紗香を見たとき、血を流して床に倒れ込み、弱々しい声で和彦を呼んでいた。
 手を伸ばされて、握ってと言われているのだと気づいたが、俊哉が身を引いて拒み、和彦も首を横に振った。
「……違う。ぼくは、もっとひどいことを――……」
 紗香が亡くなる瞬間を、ただ俊哉と一緒に見ていたのだ。怪我をして痛そうだとか、せめて側にいてあげようとか、そんなことは頭にも浮かばなかった。ただ、もうつらい思いをしなくていいのだという安堵感に支配されていた。
 間近に見た俊哉の横顔は、非常に険しい表情を浮かべていた。子供の目にはただ怒っているようにも見えたが、もしかするともっと複雑な感情ゆえの表情だったかもしれない。
 和彦は地面に両膝をつき、嗚咽をこぼして泣いていた。
 実の母親を見殺しにしてしまったという記憶に、打ちのめされる。俊哉とは、共犯だ。
 強烈すぎる罪悪感と、紗香が示した愛執に対する恐れに、幼かった和彦の精神は、記憶を封じるという手段を取らずにはいられなかったのだろう。俊哉が、和彦を和泉家を遠ざけたがった理由も理解できる。自己保身からというより、息子を守るためだったと信じたい。
 記憶の蓋が開いてしまうと、和彦はさらなる罪悪感に胸を抉られる。いままで、佐伯家の異物として自分は綾香から冷遇されて当然だと思っていたが、実際はそうではなかった。
 育ててくれた母親――綾香を先に拒絶したのは和彦だ。
 綾香と紗香は顔立ちのよく似た姉妹だ。助け出された和彦は、駆け付けた綾香の顔を見て怯え、抱き締めようと伸ばされた腕から逃げた。綾香は、和彦から距離を置かざるをえなかったのだ。
 荒い呼吸を繰り返しているうちに、手足の感覚がなくなってくる。気がつけば地面にうずくまって動けなくなっていた。なんとか顔を上げた視線の先で、もう一度赤い屋根を目にする。
 次の瞬間、目の前に突然幕が下りたように、和彦の意識は途切れた。

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