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第45話
(7)
しおりを挟む廊下からのガタガタという物音で目が覚めた。
室内の暗さに少しの間戸惑った和彦だが、ここは和泉家の一室だと思い出し、安堵の息を吐いた。昨夜は肉体的にも精神的にも疲労困憊しており、早々に床に就いたのだ。
夢も見なかったと、和彦はもそりと寝返りをうつ。祖母の総子から聞かされた話はあまりに衝撃的で、夢見の悪さを覚悟していたのだが、眠りの深さが勝ったようだ。
再び眠気が押し寄せてきて、素直に目を閉じる。物音が、雨戸を開ける音だとわかってしまえば、耳に障るものではない。夜が明けたようだが、今何時なのかわかるものは手近にない。テレビをつければいいのだろうが、わざわざリモコンを取るために起き上がる気にはなれなかった。
掛け布団と毛布に包まっていても、室内に冷気が流れ込んでくるのがわかる。なぜかといえば、猫たちが出入りするのに困るだろうと、板戸をわずかに開けて休んだからだ。
自分たちの寝床にきちんと戻ったのだろうかと、ぼんやりと考える。夜、ヒーターを消してしまうと、ぬくもりを求めるように和彦に身を寄せてきて、ひとときの幸福感を味わわせてくれたのだ。
二匹の猫の警戒心のなさは、ここで大事にされていることの表れだ。祖父母は、何も覚えていない和彦に対しても親愛の情を示してくれた。わが子たちに対してはどうだったのだろうかと、ふと気になった。
和泉家のために娘に婿を取らせようとした結果が、悲劇を生んだ――とは言いすぎかもしれない。すべて巡り合わせだと、和彦は思う。和彦自身、巡り合わせから、裏の世界に引きずり込まれ、怖い男たちと関係を持っている。
強い力に流されただけだと、他人は言うかもしれない。それでも、するべき選択はしてきたと、今の和彦なら主張できる。
紗香が生きていれば、和彦の現状をどう受け止めていただろうかと想像して、次の瞬間、不思議な感覚に襲われた。実母にこんなふうに思いを巡らせるなど、初めてだったからだ。
母親の実家に滞在し、過去の話を聞いたせいだろう。今日はおそらく写真を見せてもらえるはずだ。そして、できることなら――。
すっかり眠気がどこかにいってしまい、二度寝を諦めて和彦は体を起こす。枕元に置いてあった半纏を羽織ってから、ヒーターを入れた。部屋が暖まるのを待つ間、廊下に出てみる。昨夜は叶わなかった外の景色を見ることができた。
艶やかな赤い花が咲いており、一瞬椿だろうかと思ったが、地面に花弁が散り落ちているのを見て、山茶花だと見当をつけた。
ふいに、山茶花の木が揺れる。枝の合間からひょっこりと姿を現したのは、全身灰色の猫だった。朝の散歩なのか悠然とした足取りで歩いており、和彦は無意識に息を潜める。朝の陽射しを受ける毛並みは上等な毛皮のようで、改めて、ここの猫たちは大事にされているのだなと実感する。
灰色猫は、窓一枚を隔てた和彦に気づくことなく目の前を通り過ぎるかと思われたが、何かを感じ取ったようにこちらを見上げてきた。琥珀色の瞳に見入っていると、灰色猫は尻尾を揺らして素っ気なく行ってしまう。あとでまた会えるだろうかと考えながら和彦は部屋に戻った。
ひとまず着替えを済ませて布団を畳み、洗面所で顔を洗った帰りに君代に出くわす。ちょうど和彦を呼びに来たところだったという。
朝食の準備ができているということで食堂に向かうと、着物姿の聡子がすでに席についていた。和彦を待ってくれていたらしく、二人分の朝食がテーブルに並んでいる。
おはようございますと挨拶すると、柔らかな微笑みが返ってきた。
「ゆっくり休めましたか?」
「はい。――ここは、とても静かですね」
「昨日話しましたが、昔はたくさんの人が出入りして、朝早くから夜遅くまで騒々しかったのですよ。そうでなくなった今も、年末年始ぐらいはにぎわっていましたが、うちの人があの調子ですから……。本当は、年末に餅つきをして、あなたにもそのお餅を食べてもらいたかった」
君代がご飯をよそった茶碗を二人の前に置き、朝食を食べ始める。
味噌汁と卵焼きの味に感動しつつ、和彦はこの家にいる猫たちのことを話題にした。
「ここの猫は人懐こいですね。ぼく相手にも威嚇しないどころか、側に寄ってきてくれて」
「あなたをこの家に呼んでおきながら、猫は平気なのか確認するのを忘れていて、ハラハラしていました。もしダメなようなら、別棟の部屋をつかってもらおうと思っていたのですよ。あそこは、猫たちは入れないようにしてありますから」
「猫は好きですけど、いままでずっと飼える環境になかったんです。ですから、同じ部屋に猫がいるなんて初めてのことで、喜んでいます」
「――……紗香も、猫が好きでした」
箸をとめた和彦は、まじまじと総子を見つめる。
「一方の綾香は猫が……というより、動物全般が苦手で。猫をかまう紗香に、よく綾香が怒っていました。その声がにぎやかで……。女の子の声って、華やかでしょう? 怒っていたかと思うと、あっという間に笑い声が聞こえてきて。それだけで家中が明るくなっていました」
ここまで話してから総子が、口元に手をやった。
「ダメですね……。和彦さん相手だと、昔話がとまらなくなってしまって」
「知らないことばかりなので、ぼくはありがたいです」
和彦の言葉に総子はほっとしたようで、ゆっくりと朝食をとる間に、さらに昔の話を聞かせてくれた。
君代が食器を片付けてから、和彦はコーヒーを、総子は紅茶を飲みながら、今日の予定について話す。
和彦は少し逡巡してから、控えめに切り出した。
「母の――、お墓に行きたいです。手を合わせたいんです」
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