1,186 / 1,268
第45話
(6)
しおりを挟む
「小屋に泊まっている間、紗香はあなたに水も食料も与えてなかったようです。悪意があってのことではなく、頭になかったと思いたいですが、結果として、あなたを殺しかけたことは事実です。自分の子をやっと手元に置いて、笑いかけて、言葉をかけて、抱き締めて……。それで母親に戻れると、あのときの紗香は信じたのでしょう」
ふいに、体に巻き付く生あたたかな感触があった。総毛立った和彦は、誰もいないとわかっているはずなのに、背後を振り返る。
本能的に、子供の頃、紗香に抱き締められたときの記憶だと思った。ムッとするような熱気と、室内のカビ臭さ、窓から見えた鬱蒼と生い茂った雑草と木々。堰を切ったように次々と蘇る記憶に、和彦は動揺する。
「和彦さん?」
我に返り、勢い込んで総子に尋ねる。
「……母さ……、紗香さんは、ぼくが保護されたあと、どうしたんですか?」
「俊哉さんからの知らせを受けて、家の者たちが行ったときには……。あなたをまた奪われたと思って、それでなくても脆くなっていた精神がもたなかったのでしょう。自ら命を絶っていました」
深いため息をついた総子は、湯呑みの縁を指先でなぞりながら呟いた。
「……紗香の人生の大きな岐路には、俊哉さんが立ち会う運命だったのでしょうね」
それは言い換えれば、俊哉の人生の大きな岐路に、紗香が立ち会う運命だったともいえる。
「ぼくは、佐伯家から疎まれている存在なのだとばかり思っていました。父はぼくに興味がなく、母はぼくを忌々しく感じていて……。だから正直、家を出たあとは、姿を消してしまおうと考えてもいました。でも、久しぶりに家族と関わってみて、そうすることがいいのか迷っています。おばあ様の話を聞いて、まだ考えるべきことはあるんじゃないかと」
和彦はようやくこう切り出す。
「――ぼくも、人生の大きな岐路に立っている最中なんです」
「話は聞いていますし、悪いとは思いましたが、調べもしました」
目を見開いた和彦に、安心させるように総子が笑いかけてくる。
「知ったうえで、あなたを呼び寄せました。わたしたちが今のうちにできるのは、知っていることすべてをあなたに話して、代々受け継いできた和泉家の財産のいくつかを、あなたに譲渡することだと思っています」
「ぼくは――」
「自分にはその権利がないなんて、言わないでください。あなたは紗香が産んで、綾香が育てた、和泉の血を引いた子なんです」
「受け継いだものをぼくがどう使うか、不安に感じないんですかっ?」
語気が荒くなったのは、総子が、孫に対して盲目的になっているからではないかと疑ったからだ。自分の置かれた複雑な状況を思えば、本来ではあれば遠ざけられるべき存在だ。血の繋がりがあるというだけで、何もかもを受け入れてもらえるはずがない。
総子や正時には迷惑をかけたくないし、失望もされたくなかった。和彦が今願うのは、その一点だ。
顔を強張らせる和彦に対して、総子は相変わらず笑みを向けてくる。
「この先を生き抜くための武器を、あなたに与えると言っているのです。どう使うかは、あなた自身が決めなさい。あなたの負担にならないよう、いろいろと手立ては講じてあります。心配しなくても大丈夫ですよ」
目の前にいるのは、一見穏やかな高齢の女性なのだが、伴侶と共にずっと、和泉家を切り盛りしてきた人物でもある。ここまで話を聞いただけでも、平穏とは言い難い人生を送ってきたとわかる。
女傑、という言葉が、ふっと和彦の脳裏を過った。
「少し話しすぎましたね。続きはまた明日にしましょう」
頭を整理したいと思っていた和彦に異論はない。頷くと、夕食をとるよう勧められる。
こんなときでも腹は空くのだなと、ちらりと苦笑いをした和彦は、総子とともに食堂に向かった。
食事の味はよくわからなかった。ただ、自分のために準備してくれたのだなとわかる献立は、素直に嬉しかった。
和彦は総子と二人で夕食をとったあと、一気に押し寄せた疲労感を堪えつつ入浴を済ませた。新幹線に乗る前に買っておいたスウェットスーツを着込んだ上から、わざわざ用意してくれた半纏にありがたく袖を通す。大きい家だけあって、人がいる部屋以外は暖房が効いておらず、廊下などは冷え込むのだ。
和彦が使うよう言われた部屋は、庭に面していた。ただ日が落ちてからしっかりと雨戸が閉められたため、外の景色を見ることは叶わない。長い廊下に人影は見えないが、家のどこかで誰かが移動している気配がして、微かに話し声も聞こえてくる。
なんとなく長嶺の本宅の様子を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。
部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。ヒーターも入れてもらっており、室内は十分に暖まっている。スーツもしっかりハンガーにかけられているのを見て、和彦は口元を緩める。
ずいぶん気をつかってもらっているなと思いながら、ボストンバッグに近づこうとして、声を上げる。室内に自分以外のものの気配を感じたのだ。見ると、ほっそりとした体つきの黒猫が、悠々とした足取りでヒーターの側に歩み寄っている。
ずっとこの部屋にいたのか、和彦が入浴から戻ってきたタイミングで、一緒に部屋に入ってきたのか。なんにしても、物怖じしない態度だ。
和彦はボストンバッグからメモ帳とペンを取り出し、総子から聞いた話をまとめておこうと考える。横目でそっとうかがうと、黒猫は温風がちょうどよく当たる位置を見つけたのか、さっそく体を丸めるところだった。
しばらく、人間一人と猫一匹、適度に距離を取って静かに過ごしていたが、閉めた板戸の向こうから猫の鳴き声がする。ちらりとこちらを一瞥した黒猫が、何かを指示するように尻尾を動かす。猫の鳴き声を無視できず、和彦が板戸をわずかに開けると、隙間からするりと猫が入り込んできた。玄関で見かけたトラ猫だ。
二匹の猫が仲良くヒーターの前に陣取る姿に、和彦はいくらか気持ちが和らぐ気がした。
ふいに、体に巻き付く生あたたかな感触があった。総毛立った和彦は、誰もいないとわかっているはずなのに、背後を振り返る。
本能的に、子供の頃、紗香に抱き締められたときの記憶だと思った。ムッとするような熱気と、室内のカビ臭さ、窓から見えた鬱蒼と生い茂った雑草と木々。堰を切ったように次々と蘇る記憶に、和彦は動揺する。
「和彦さん?」
我に返り、勢い込んで総子に尋ねる。
「……母さ……、紗香さんは、ぼくが保護されたあと、どうしたんですか?」
「俊哉さんからの知らせを受けて、家の者たちが行ったときには……。あなたをまた奪われたと思って、それでなくても脆くなっていた精神がもたなかったのでしょう。自ら命を絶っていました」
深いため息をついた総子は、湯呑みの縁を指先でなぞりながら呟いた。
「……紗香の人生の大きな岐路には、俊哉さんが立ち会う運命だったのでしょうね」
それは言い換えれば、俊哉の人生の大きな岐路に、紗香が立ち会う運命だったともいえる。
「ぼくは、佐伯家から疎まれている存在なのだとばかり思っていました。父はぼくに興味がなく、母はぼくを忌々しく感じていて……。だから正直、家を出たあとは、姿を消してしまおうと考えてもいました。でも、久しぶりに家族と関わってみて、そうすることがいいのか迷っています。おばあ様の話を聞いて、まだ考えるべきことはあるんじゃないかと」
和彦はようやくこう切り出す。
「――ぼくも、人生の大きな岐路に立っている最中なんです」
「話は聞いていますし、悪いとは思いましたが、調べもしました」
目を見開いた和彦に、安心させるように総子が笑いかけてくる。
「知ったうえで、あなたを呼び寄せました。わたしたちが今のうちにできるのは、知っていることすべてをあなたに話して、代々受け継いできた和泉家の財産のいくつかを、あなたに譲渡することだと思っています」
「ぼくは――」
「自分にはその権利がないなんて、言わないでください。あなたは紗香が産んで、綾香が育てた、和泉の血を引いた子なんです」
「受け継いだものをぼくがどう使うか、不安に感じないんですかっ?」
語気が荒くなったのは、総子が、孫に対して盲目的になっているからではないかと疑ったからだ。自分の置かれた複雑な状況を思えば、本来ではあれば遠ざけられるべき存在だ。血の繋がりがあるというだけで、何もかもを受け入れてもらえるはずがない。
総子や正時には迷惑をかけたくないし、失望もされたくなかった。和彦が今願うのは、その一点だ。
顔を強張らせる和彦に対して、総子は相変わらず笑みを向けてくる。
「この先を生き抜くための武器を、あなたに与えると言っているのです。どう使うかは、あなた自身が決めなさい。あなたの負担にならないよう、いろいろと手立ては講じてあります。心配しなくても大丈夫ですよ」
目の前にいるのは、一見穏やかな高齢の女性なのだが、伴侶と共にずっと、和泉家を切り盛りしてきた人物でもある。ここまで話を聞いただけでも、平穏とは言い難い人生を送ってきたとわかる。
女傑、という言葉が、ふっと和彦の脳裏を過った。
「少し話しすぎましたね。続きはまた明日にしましょう」
頭を整理したいと思っていた和彦に異論はない。頷くと、夕食をとるよう勧められる。
こんなときでも腹は空くのだなと、ちらりと苦笑いをした和彦は、総子とともに食堂に向かった。
食事の味はよくわからなかった。ただ、自分のために準備してくれたのだなとわかる献立は、素直に嬉しかった。
和彦は総子と二人で夕食をとったあと、一気に押し寄せた疲労感を堪えつつ入浴を済ませた。新幹線に乗る前に買っておいたスウェットスーツを着込んだ上から、わざわざ用意してくれた半纏にありがたく袖を通す。大きい家だけあって、人がいる部屋以外は暖房が効いておらず、廊下などは冷え込むのだ。
和彦が使うよう言われた部屋は、庭に面していた。ただ日が落ちてからしっかりと雨戸が閉められたため、外の景色を見ることは叶わない。長い廊下に人影は見えないが、家のどこかで誰かが移動している気配がして、微かに話し声も聞こえてくる。
なんとなく長嶺の本宅の様子を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。
部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。ヒーターも入れてもらっており、室内は十分に暖まっている。スーツもしっかりハンガーにかけられているのを見て、和彦は口元を緩める。
ずいぶん気をつかってもらっているなと思いながら、ボストンバッグに近づこうとして、声を上げる。室内に自分以外のものの気配を感じたのだ。見ると、ほっそりとした体つきの黒猫が、悠々とした足取りでヒーターの側に歩み寄っている。
ずっとこの部屋にいたのか、和彦が入浴から戻ってきたタイミングで、一緒に部屋に入ってきたのか。なんにしても、物怖じしない態度だ。
和彦はボストンバッグからメモ帳とペンを取り出し、総子から聞いた話をまとめておこうと考える。横目でそっとうかがうと、黒猫は温風がちょうどよく当たる位置を見つけたのか、さっそく体を丸めるところだった。
しばらく、人間一人と猫一匹、適度に距離を取って静かに過ごしていたが、閉めた板戸の向こうから猫の鳴き声がする。ちらりとこちらを一瞥した黒猫が、何かを指示するように尻尾を動かす。猫の鳴き声を無視できず、和彦が板戸をわずかに開けると、隙間からするりと猫が入り込んできた。玄関で見かけたトラ猫だ。
二匹の猫が仲良くヒーターの前に陣取る姿に、和彦はいくらか気持ちが和らぐ気がした。
26
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…



塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる