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第45話
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「紗香と俊哉さん、それに先生との間で何があったのか、わたしにはわかりません。紗香は頑なに口を閉ざしたまま逝ってしまったし、俊哉さんは曲者。先生は……、何も知らされていなかったのかもしれません」
「紗香さんは、その先生が好きだったんですね。一方の父にも、妻子がいた。そんな二人が、どうして……」
「一度紗香が、まだ学生だった先生と結婚したいから、婚約をなかったことにしたいと言ってきたことがあります。わたしと主人が猛反対したら、それはもう、絶望したような顔をしていました。それからしばらくして、あなたを身籠っていると告白してきました。しかもその場に伴ってきたのは、よりによって自分の姉の夫。あのときの二人は、道ならぬ恋に浮かれているとか、過ちを犯してうろたえているとか、一切そんな素振りはなく、むしろ毅然としていましたよ」
総子は口元に淡い笑みを浮かべる。娘に激しい感情を抱く時期は過ぎて、どうしようもない空しさを噛み締めているような、そんな表情に見えた。和彦は胸苦しさに耐えきれず、温くなったお茶で口を湿らせる。
「俊哉さんは当時、ここから近い自治体に単身で出向していて、仕事と子育てに忙しい綾香に代わり、紗香がお世話に通っていました。そのときに何かあったと考えるべきなのでしょうが、それでも、紗香の目は先生だけに向いていたような気がして……。ただ先生は、紗香の妊娠について何も知らなかったようです。出産からあとのことも、すべて我が家と彼のお父様との間で進めましたが、紗香が亡くなったと知らせたときは、ずいぶん悲しまれて、こっそりお墓にも来てくれました」
これは言うべきなのだろうかと逡巡した和彦だが、医者として黙っていることはできなかった。
「……今なら簡単に、親子鑑定ができます。ぼくと父が――」
「結果がどうあれ、あなたが紗香の子であることに間違いはありません。本当に、そっくり」
両親からの説得にも関わらず、紗香は和彦を出産し、手放した。手元に置くことだけは、和泉家の総意として許さなかったのだという。何より、〈父親〉である俊哉が、赤ん坊を佐伯家で引き取ることを熱望したという話に、和彦は率直に疑問を口にした。
「どうしてですか?」
「それは、あなたが俊哉さんに直接ぶつける質問ではないでしょうか。ただ……、あなたを引き取るために、俊哉さんが必死だったことだけは確かです。危険を冒してまで、あなたを実子とするよう細工までして、わたしたちも協力しました。娘たちにとっては不本意で仕方なかったでしょうけど、得たものを守るためには仕方ないと、納得するしかなかった」
綾香は、嫁ぎ先である佐伯家の名誉と、自身と英俊のために。紗香は、おそらく――。
「あなたを和泉家に置いておけなかったのは、紗香の実子だと悟られるのを恐れてというのもありましたが、一番は、婚約を破棄した相手の家が、面子を潰されたとずいぶん怒ったからです。それなりに発言力のある家だったものですから、こちらとしても義理を立てる必要がありました。紗香を療養名目で遠くにやり、他にいろいろと誠意を見せて尽くしてきました。それでも、ずいぶん嫌がらせをされましたが。綾香も、やむをえない事情でこの家に顔を出したときなどは、嫌な思いをしていたようです。俊哉さんがあちこちに根回しをして、どうにか落ち着いたという感じで」
「今回、ぼくを呼べたということは、相手方と和解なりできたということですか?」
いいえ、と告げた総子の声と表情は、冷然としていた。その様子が、和彦の中で綾香と重なる。
「――断絶しました。事業が行き詰まってから、あっという間でしたよ。皆、見ているものですね。和泉家に対する仕打ちが広まって、誰も手を差し伸べなかったようです。失意と絶望は、簡単に人を弱らせる。その家にはもう誰も……」
何もかもが因果応報なのだと、総子は続ける。和泉家も、名を大事にした結果、本来であれば将来家を支えるはずだった紗香を失い、その紗香が生んだ和彦を手放すことになった。
「あなたを和泉家には戻さないと、俊哉さんなりの決意の表れなのですよ。〈和彦〉という名前は」
「ぼくの名前……?」
「和泉家から受けた恩と、かけてしまった迷惑を忘れない。だが、この子を和泉家に戻すことはないと。その証として、〈和〉という字を名前に入れたようです」
自分の名の由来など、和彦は告げられたことはなかった。兄である英俊には俊哉の一文字が入っており、跡取りとそうでない次男との間に、明確な線引きをされているのだと、そう感じていただけだった。
「家名と家族を守ることに必死だったわたしたちは、紗香の気持ちを顧みていませんでした。産んですぐに子から引き離されて、母親が平気でいるはずがない。そんな当然のことに気づかなかった……。いえ、気づかないふりをしていた」
紗香が精神的に不安定だったという理由は、話を聞いただけの和彦でも推測できる。俊哉や〈先生〉、家族との関係。妊娠・出産を経る間に、さまざまな軋轢にも立ち向かわなければならなかったはずだ。自業自得という言葉では済まないつらさを伴っていただろう。
「何もかもが落ち着いたと思っていたある日、紗香の療養先から、紗香の姿が見えなくなったと連絡が入りました。同じ日に、今度は綾香から、四歳のあなたが連れ去られたと半狂乱になって連絡が。すぐに紗香の仕業だとわかりましたが、警察に連絡もできず、わたしたちは心当たりを探すしかできませんでした」
「母が、半狂乱……」
「生まれたばかりの子をずっと育ててきたのですから、母性が湧いても不思議ではないでしょう。子がいなくなれば、母親は必死になります。――もちろん、紗香も」
夏の暑い盛りの出来事だったという。和彦を連れての紗香の逃避行は、たった三日で終わりを迎えた。どこかの街で宿泊施設にでも滞在しているのではないかと思われていたが、予想に反して、紗香は地元に戻ってきていた。
「昔、山林を管理する人たちのために、休憩所として建てた小屋があります。この屋敷の裏手にある山の頂上近くに。紗香たちが子供の頃、ときどき連れて行って泊まったことがあったんですけど、覚えていたんでしょうね。紗香とあなたはそこにいました。見つけたのは俊哉さんで、衰弱したあなただけを抱えて、泥だらけになって山を駆け下りてきましたよ」
自分の身に何があったのか知る瞬間が近くなり、和彦の心臓の鼓動はうるさいほど大きくなる。
「紗香さんは、その先生が好きだったんですね。一方の父にも、妻子がいた。そんな二人が、どうして……」
「一度紗香が、まだ学生だった先生と結婚したいから、婚約をなかったことにしたいと言ってきたことがあります。わたしと主人が猛反対したら、それはもう、絶望したような顔をしていました。それからしばらくして、あなたを身籠っていると告白してきました。しかもその場に伴ってきたのは、よりによって自分の姉の夫。あのときの二人は、道ならぬ恋に浮かれているとか、過ちを犯してうろたえているとか、一切そんな素振りはなく、むしろ毅然としていましたよ」
総子は口元に淡い笑みを浮かべる。娘に激しい感情を抱く時期は過ぎて、どうしようもない空しさを噛み締めているような、そんな表情に見えた。和彦は胸苦しさに耐えきれず、温くなったお茶で口を湿らせる。
「俊哉さんは当時、ここから近い自治体に単身で出向していて、仕事と子育てに忙しい綾香に代わり、紗香がお世話に通っていました。そのときに何かあったと考えるべきなのでしょうが、それでも、紗香の目は先生だけに向いていたような気がして……。ただ先生は、紗香の妊娠について何も知らなかったようです。出産からあとのことも、すべて我が家と彼のお父様との間で進めましたが、紗香が亡くなったと知らせたときは、ずいぶん悲しまれて、こっそりお墓にも来てくれました」
これは言うべきなのだろうかと逡巡した和彦だが、医者として黙っていることはできなかった。
「……今なら簡単に、親子鑑定ができます。ぼくと父が――」
「結果がどうあれ、あなたが紗香の子であることに間違いはありません。本当に、そっくり」
両親からの説得にも関わらず、紗香は和彦を出産し、手放した。手元に置くことだけは、和泉家の総意として許さなかったのだという。何より、〈父親〉である俊哉が、赤ん坊を佐伯家で引き取ることを熱望したという話に、和彦は率直に疑問を口にした。
「どうしてですか?」
「それは、あなたが俊哉さんに直接ぶつける質問ではないでしょうか。ただ……、あなたを引き取るために、俊哉さんが必死だったことだけは確かです。危険を冒してまで、あなたを実子とするよう細工までして、わたしたちも協力しました。娘たちにとっては不本意で仕方なかったでしょうけど、得たものを守るためには仕方ないと、納得するしかなかった」
綾香は、嫁ぎ先である佐伯家の名誉と、自身と英俊のために。紗香は、おそらく――。
「あなたを和泉家に置いておけなかったのは、紗香の実子だと悟られるのを恐れてというのもありましたが、一番は、婚約を破棄した相手の家が、面子を潰されたとずいぶん怒ったからです。それなりに発言力のある家だったものですから、こちらとしても義理を立てる必要がありました。紗香を療養名目で遠くにやり、他にいろいろと誠意を見せて尽くしてきました。それでも、ずいぶん嫌がらせをされましたが。綾香も、やむをえない事情でこの家に顔を出したときなどは、嫌な思いをしていたようです。俊哉さんがあちこちに根回しをして、どうにか落ち着いたという感じで」
「今回、ぼくを呼べたということは、相手方と和解なりできたということですか?」
いいえ、と告げた総子の声と表情は、冷然としていた。その様子が、和彦の中で綾香と重なる。
「――断絶しました。事業が行き詰まってから、あっという間でしたよ。皆、見ているものですね。和泉家に対する仕打ちが広まって、誰も手を差し伸べなかったようです。失意と絶望は、簡単に人を弱らせる。その家にはもう誰も……」
何もかもが因果応報なのだと、総子は続ける。和泉家も、名を大事にした結果、本来であれば将来家を支えるはずだった紗香を失い、その紗香が生んだ和彦を手放すことになった。
「あなたを和泉家には戻さないと、俊哉さんなりの決意の表れなのですよ。〈和彦〉という名前は」
「ぼくの名前……?」
「和泉家から受けた恩と、かけてしまった迷惑を忘れない。だが、この子を和泉家に戻すことはないと。その証として、〈和〉という字を名前に入れたようです」
自分の名の由来など、和彦は告げられたことはなかった。兄である英俊には俊哉の一文字が入っており、跡取りとそうでない次男との間に、明確な線引きをされているのだと、そう感じていただけだった。
「家名と家族を守ることに必死だったわたしたちは、紗香の気持ちを顧みていませんでした。産んですぐに子から引き離されて、母親が平気でいるはずがない。そんな当然のことに気づかなかった……。いえ、気づかないふりをしていた」
紗香が精神的に不安定だったという理由は、話を聞いただけの和彦でも推測できる。俊哉や〈先生〉、家族との関係。妊娠・出産を経る間に、さまざまな軋轢にも立ち向かわなければならなかったはずだ。自業自得という言葉では済まないつらさを伴っていただろう。
「何もかもが落ち着いたと思っていたある日、紗香の療養先から、紗香の姿が見えなくなったと連絡が入りました。同じ日に、今度は綾香から、四歳のあなたが連れ去られたと半狂乱になって連絡が。すぐに紗香の仕業だとわかりましたが、警察に連絡もできず、わたしたちは心当たりを探すしかできませんでした」
「母が、半狂乱……」
「生まれたばかりの子をずっと育ててきたのですから、母性が湧いても不思議ではないでしょう。子がいなくなれば、母親は必死になります。――もちろん、紗香も」
夏の暑い盛りの出来事だったという。和彦を連れての紗香の逃避行は、たった三日で終わりを迎えた。どこかの街で宿泊施設にでも滞在しているのではないかと思われていたが、予想に反して、紗香は地元に戻ってきていた。
「昔、山林を管理する人たちのために、休憩所として建てた小屋があります。この屋敷の裏手にある山の頂上近くに。紗香たちが子供の頃、ときどき連れて行って泊まったことがあったんですけど、覚えていたんでしょうね。紗香とあなたはそこにいました。見つけたのは俊哉さんで、衰弱したあなただけを抱えて、泥だらけになって山を駆け下りてきましたよ」
自分の身に何があったのか知る瞬間が近くなり、和彦の心臓の鼓動はうるさいほど大きくなる。
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