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第45話
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「あ、の……」
戸惑う和彦に対して、男性は取り繕うように笑いかけてきた。
「ああ、ごめんなさい。昔の知人によく似ていたものだから、もしかして身内の方なのかと思って」
雰囲気そのままに、口調も柔らかだった。和彦は数回目を瞬いたあと、いまさらながら、ここは〈母親〉の生まれ育った地なのだと実感する。しかも、実家の前だ。いくらなんでも誤魔化すのは無理がある。
「……この家の主の孫、です」
やっぱり、と洩らした男性は、ふっと笑みを消すと、気遣わしげな視線を門の向こうへと投げかけた。それだけで、和彦も不穏な気配を感じ取る。
病院が休みであるはずの三が日に、往診を頼むぐらいだ。誰かに、何かが起こったのだ。
本当に自分はこの地を訪れてよかったのだろうかという思いは、移動中ずっと胸を塞いでいた。そして今、和彦の中に過ったのは、自分は疫病神なのではないかという考えだ。
「ご高齢だからね。少しでも体調で気になることがあれば、いつでもお呼びくださいとお願いしているんだよ。杞憂で済めばそれでいいし、万が一にも何かあれば、すぐに大きな病院への入院の手続きができる。今回は、杞憂のほうだ」
「そう、ですか……」
「去年からずっと、お孫さんと会えるのを楽しみにされていたんだ。少し興奮したのかもしれないと、ご本人は笑っていらっしゃったよ」
ここで車のクラクションが短く鳴らされる。看護師の女性が運転席から身を乗り出して、こちらを見ている。
「ああ、いけない。これから、新年の集まりにお呼ばれしているんだ」
そう言って男性は車に駆け寄ろうとしたが、ふいに立ち止まって和彦を振り返る。さきほどまでとは一変して、真剣な顔をしていた。
「一つ、不躾な質問をしていいかな?」
「えっ」
「――君の年齢が知りたい」
なぜ、と思わなくもなかったが、男性が和泉家から出てきた医者ということもあり、和彦は素直に答える。
「来月で、三十二になります……」
「三十二……。そうか、君が――」
何事か言いかけてから、男性は唇を引き結ぶ。反射的に和彦は尋ねていた。
「もしかして、ぼくのことを知っているんですか?」
「君のお母さんを知っているんだ。……本当に、〈紗香さん〉によく似ている」
男性の言葉を頭の中で反芻してから、和彦は大きく目を見開く。呼び止めようとしたときには、男性は車に乗り込みドアを閉めていた。
「あのっ――」
和彦が石階段を駆け下りるより先に、車は走り去ってしまう。
少しの間、その場に立ち尽くしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、インターホンを鳴らす。応じたのは元気な女性の声だった。名乗ると、数秒の間のあと、慌てた口調ですぐに迎えに出ると言われる。
その言葉通り、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきて、門が開く。出迎えてくれたのは、割烹着姿の中年女性だった。
「寒い中、お待たせしましたっ。どうぞお入りください」
大きな声に面食らった和彦だが、満面の笑顔を向けられて、門を潜る。
まず驚いたのは、目を瞠る敷地の広大さだった。土塀に囲まれてはいても閉塞感が一切ないのは、露地から見渡せる景色のよさのおかげだろう。
寄棟屋根の大きな平屋が母屋で、渡り廊下で別棟が繋がっている。さらに、ざっと確認できただけでも、白壁の土蔵が三つ、納屋らしき建物もある。広々とした庭の先にはなだらかな坂道があり、そこから山へと上がれるようだ。ただ、ここからの位置では、和泉家の全容を見ることはできない。
一つの集落がすっぽりと収まっているみたいだなと、観光地を訪れたような感想を抱きつつ、和彦は玄関に入る。
廊下を歩いていた白猫といきなり目が合った。さらに、下駄箱の上にはトラ猫が。見知らぬ他人がやってきたというのに警戒する様子もなく、香箱座りで寛いでいる。
「このお家、猫が多いんですよ。あっ、猫は大丈夫ですか?」
靴を脱いだ和彦はスリッパに履き替えながら、表情を緩める。
「はい。飼ったことはありませんが、好き、です……」
「昔は、外飼いがほとんどだったんですよ。お米とか蔵に保管してあって、ネズミ駆除のために。でも今は、その必要もなくなったんですけど、不思議と猫が居ついちゃうんですよ。旦那様も奥様も、寂しくなくていいからっておっしゃって、みんな引き取られて」
肉付きも毛並みもいい猫たちは、ずいぶん可愛がられているようだ。和彦はトラ猫に触れてみたかったが、機嫌を損ねるのを恐れてやめておく。
案内されて廊下を歩いていると、夕食の準備をしているのか、いい匂いが漂ってくる。医者の往診を頼む事態が起こったにしては、張り詰めた空気のようなものは感じない。
ただ、静かだ。人の気配はあるが、にぎやかな話し声というものは聞こえてこない。今この家では、祖父母の他に誰が暮らしを共にしているのか、そんなことすら和彦は知らない。
ある部屋の前で立ち止まった女性が、板戸の向こうに声をかける。
「奥様、和彦さんが到着されましたよ」
心臓の鼓動が大きく跳ねる。和彦は息を詰めると、スッと背筋を伸ばした。
戸惑う和彦に対して、男性は取り繕うように笑いかけてきた。
「ああ、ごめんなさい。昔の知人によく似ていたものだから、もしかして身内の方なのかと思って」
雰囲気そのままに、口調も柔らかだった。和彦は数回目を瞬いたあと、いまさらながら、ここは〈母親〉の生まれ育った地なのだと実感する。しかも、実家の前だ。いくらなんでも誤魔化すのは無理がある。
「……この家の主の孫、です」
やっぱり、と洩らした男性は、ふっと笑みを消すと、気遣わしげな視線を門の向こうへと投げかけた。それだけで、和彦も不穏な気配を感じ取る。
病院が休みであるはずの三が日に、往診を頼むぐらいだ。誰かに、何かが起こったのだ。
本当に自分はこの地を訪れてよかったのだろうかという思いは、移動中ずっと胸を塞いでいた。そして今、和彦の中に過ったのは、自分は疫病神なのではないかという考えだ。
「ご高齢だからね。少しでも体調で気になることがあれば、いつでもお呼びくださいとお願いしているんだよ。杞憂で済めばそれでいいし、万が一にも何かあれば、すぐに大きな病院への入院の手続きができる。今回は、杞憂のほうだ」
「そう、ですか……」
「去年からずっと、お孫さんと会えるのを楽しみにされていたんだ。少し興奮したのかもしれないと、ご本人は笑っていらっしゃったよ」
ここで車のクラクションが短く鳴らされる。看護師の女性が運転席から身を乗り出して、こちらを見ている。
「ああ、いけない。これから、新年の集まりにお呼ばれしているんだ」
そう言って男性は車に駆け寄ろうとしたが、ふいに立ち止まって和彦を振り返る。さきほどまでとは一変して、真剣な顔をしていた。
「一つ、不躾な質問をしていいかな?」
「えっ」
「――君の年齢が知りたい」
なぜ、と思わなくもなかったが、男性が和泉家から出てきた医者ということもあり、和彦は素直に答える。
「来月で、三十二になります……」
「三十二……。そうか、君が――」
何事か言いかけてから、男性は唇を引き結ぶ。反射的に和彦は尋ねていた。
「もしかして、ぼくのことを知っているんですか?」
「君のお母さんを知っているんだ。……本当に、〈紗香さん〉によく似ている」
男性の言葉を頭の中で反芻してから、和彦は大きく目を見開く。呼び止めようとしたときには、男性は車に乗り込みドアを閉めていた。
「あのっ――」
和彦が石階段を駆け下りるより先に、車は走り去ってしまう。
少しの間、その場に立ち尽くしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、インターホンを鳴らす。応じたのは元気な女性の声だった。名乗ると、数秒の間のあと、慌てた口調ですぐに迎えに出ると言われる。
その言葉通り、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきて、門が開く。出迎えてくれたのは、割烹着姿の中年女性だった。
「寒い中、お待たせしましたっ。どうぞお入りください」
大きな声に面食らった和彦だが、満面の笑顔を向けられて、門を潜る。
まず驚いたのは、目を瞠る敷地の広大さだった。土塀に囲まれてはいても閉塞感が一切ないのは、露地から見渡せる景色のよさのおかげだろう。
寄棟屋根の大きな平屋が母屋で、渡り廊下で別棟が繋がっている。さらに、ざっと確認できただけでも、白壁の土蔵が三つ、納屋らしき建物もある。広々とした庭の先にはなだらかな坂道があり、そこから山へと上がれるようだ。ただ、ここからの位置では、和泉家の全容を見ることはできない。
一つの集落がすっぽりと収まっているみたいだなと、観光地を訪れたような感想を抱きつつ、和彦は玄関に入る。
廊下を歩いていた白猫といきなり目が合った。さらに、下駄箱の上にはトラ猫が。見知らぬ他人がやってきたというのに警戒する様子もなく、香箱座りで寛いでいる。
「このお家、猫が多いんですよ。あっ、猫は大丈夫ですか?」
靴を脱いだ和彦はスリッパに履き替えながら、表情を緩める。
「はい。飼ったことはありませんが、好き、です……」
「昔は、外飼いがほとんどだったんですよ。お米とか蔵に保管してあって、ネズミ駆除のために。でも今は、その必要もなくなったんですけど、不思議と猫が居ついちゃうんですよ。旦那様も奥様も、寂しくなくていいからっておっしゃって、みんな引き取られて」
肉付きも毛並みもいい猫たちは、ずいぶん可愛がられているようだ。和彦はトラ猫に触れてみたかったが、機嫌を損ねるのを恐れてやめておく。
案内されて廊下を歩いていると、夕食の準備をしているのか、いい匂いが漂ってくる。医者の往診を頼む事態が起こったにしては、張り詰めた空気のようなものは感じない。
ただ、静かだ。人の気配はあるが、にぎやかな話し声というものは聞こえてこない。今この家では、祖父母の他に誰が暮らしを共にしているのか、そんなことすら和彦は知らない。
ある部屋の前で立ち止まった女性が、板戸の向こうに声をかける。
「奥様、和彦さんが到着されましたよ」
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