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第44話
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微かに震えている自分の手を、和彦はきつく握り締める。
「完全に忘れたままならそれでよかったが、そうじゃない。話していてわかったが、お前の中には確かに記憶が残っている。中途半端に、忌々しいほど優しい形でな」
「本当の、母さんのこと……」
「お前を和泉の家から遠ざけたかったのは、そのことがあるからだ。お前が子供の頃は、また口が聞けなくなるような精神状態にはしたくないと理由をつけて、向こうの家に連れていかなかった。成長してからは、勉強が忙しいところに余計な負担はかけたくないと。大人になってからは、仕事に夢中で実家に寄りつきもしないとも言ったな。とにかく時間を稼ぎたかった」
不穏な影がぴったりと背に張り付いたような、嫌な感覚が生まれた。少し息苦しさを覚え、和彦は大きく深呼吸をする。
「わたしなりの人生設計があった。概ね予定通りだったが、狂いが生じた。……きっかけは、長嶺の男と出会ったことだろうな」
「……ぼくが? それとも、父さんが?」
俊哉は答えなかった。
車を走らせている途中、無機質な着信音が鳴り始める。俊哉のジャケットのポケットから聞こえてくるが、車を停める気配も見せない。
「おそらく、英俊だろう。車がついてきていないことに気づいたんだな」
「それじゃあ、兄さんと母さんにも、何も言わず?」
「あの二人には関係のないことだ」
関わらせたくない、という気持ちからなのだろうが、どうしてこういう物言いしかできないのかと、詰りたくなる。
「――ぼくと父さんにとって大事なことが、和泉の家にはあるんだね」
「杞憂で済めばいいが、わたしの悪い予感は、だいたい当たる」
車が向かった先は、ターミナル駅だった。周辺にある駐車場に車を停めた俊哉は、自身のブリーフケースから取り出した封筒を和彦に渡してきた。
「中に、新幹線の切符が入っている。それと地図も。財布は持ってきているか?」
「う、ん……」
「一応、いくらか入れてある。着替えは適当に買い揃えて持って行け。今から出発だと泊まりになる」
俊哉は素早く周辺を見回してから、携帯電話について問うてくる。客先でまで連絡を気にする相手はいないため、持ってきていないと答えると、こう釘を刺された。
「わかっていると思うが、自分の居場所について誰にも話すな。面倒が増えるだけだ」
そこで和彦は、ああ、と声を洩らしていた。
「父さん、尾行を気にしてる?」
「ヤクザ者と関わると、どうしても神経質になる」
「……尾行はついてないよ。何度か確認していたけど、同じ車がついてくることはなかった」
俊哉の微妙な表情の変化を目の当たりにして、和彦は自分の失言を知る。普通の人間は、後続車の存在などいちいち確認しないのだ。
封筒をコートのポケットに仕舞って車を降りようとする。すると俊哉がいくらか沈んだ声で言った。
「――……和泉の家から戻ってきたとき、お前はもう、いままでのような目でわたしを見てくれないかもしれないな」
「どういう目?」
振り返ると、前を見据えたまま俊哉はわずかに眉をひそめていた。苦しげに。
「子供の頃から変わらない、物言いたげな、訴えかけてくるような目だ」
「たぶん、何があってもぼくは変わらないよ。まだ父さんには聞きたいことがあるんだ。うるさいと言われても、教えてもらうまでしつこく話しかけるよ」
車を出る瞬間、強い不安に駆られたが、和彦は思い切って地面に降り立つ。あとは振り返ることなく、急ぎ足で駅に向かった。
「完全に忘れたままならそれでよかったが、そうじゃない。話していてわかったが、お前の中には確かに記憶が残っている。中途半端に、忌々しいほど優しい形でな」
「本当の、母さんのこと……」
「お前を和泉の家から遠ざけたかったのは、そのことがあるからだ。お前が子供の頃は、また口が聞けなくなるような精神状態にはしたくないと理由をつけて、向こうの家に連れていかなかった。成長してからは、勉強が忙しいところに余計な負担はかけたくないと。大人になってからは、仕事に夢中で実家に寄りつきもしないとも言ったな。とにかく時間を稼ぎたかった」
不穏な影がぴったりと背に張り付いたような、嫌な感覚が生まれた。少し息苦しさを覚え、和彦は大きく深呼吸をする。
「わたしなりの人生設計があった。概ね予定通りだったが、狂いが生じた。……きっかけは、長嶺の男と出会ったことだろうな」
「……ぼくが? それとも、父さんが?」
俊哉は答えなかった。
車を走らせている途中、無機質な着信音が鳴り始める。俊哉のジャケットのポケットから聞こえてくるが、車を停める気配も見せない。
「おそらく、英俊だろう。車がついてきていないことに気づいたんだな」
「それじゃあ、兄さんと母さんにも、何も言わず?」
「あの二人には関係のないことだ」
関わらせたくない、という気持ちからなのだろうが、どうしてこういう物言いしかできないのかと、詰りたくなる。
「――ぼくと父さんにとって大事なことが、和泉の家にはあるんだね」
「杞憂で済めばいいが、わたしの悪い予感は、だいたい当たる」
車が向かった先は、ターミナル駅だった。周辺にある駐車場に車を停めた俊哉は、自身のブリーフケースから取り出した封筒を和彦に渡してきた。
「中に、新幹線の切符が入っている。それと地図も。財布は持ってきているか?」
「う、ん……」
「一応、いくらか入れてある。着替えは適当に買い揃えて持って行け。今から出発だと泊まりになる」
俊哉は素早く周辺を見回してから、携帯電話について問うてくる。客先でまで連絡を気にする相手はいないため、持ってきていないと答えると、こう釘を刺された。
「わかっていると思うが、自分の居場所について誰にも話すな。面倒が増えるだけだ」
そこで和彦は、ああ、と声を洩らしていた。
「父さん、尾行を気にしてる?」
「ヤクザ者と関わると、どうしても神経質になる」
「……尾行はついてないよ。何度か確認していたけど、同じ車がついてくることはなかった」
俊哉の微妙な表情の変化を目の当たりにして、和彦は自分の失言を知る。普通の人間は、後続車の存在などいちいち確認しないのだ。
封筒をコートのポケットに仕舞って車を降りようとする。すると俊哉がいくらか沈んだ声で言った。
「――……和泉の家から戻ってきたとき、お前はもう、いままでのような目でわたしを見てくれないかもしれないな」
「どういう目?」
振り返ると、前を見据えたまま俊哉はわずかに眉をひそめていた。苦しげに。
「子供の頃から変わらない、物言いたげな、訴えかけてくるような目だ」
「たぶん、何があってもぼくは変わらないよ。まだ父さんには聞きたいことがあるんだ。うるさいと言われても、教えてもらうまでしつこく話しかけるよ」
車を出る瞬間、強い不安に駆られたが、和彦は思い切って地面に降り立つ。あとは振り返ることなく、急ぎ足で駅に向かった。
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