血と束縛と

北川とも

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第44話

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 こう告げた瞬間の英俊の反応は、到底里見との関係を割り切っているようには見えなかった。
 確信を深めた和彦には、だからこそ伝えておかなければいけないことがある。
「もう、知っているかもしれないけど、ぼくは昔、里見さんとつき合っていた」
「つまり、自分のお下がりの男だと言いたいのか?」
「その言い方は……、自分を傷つけるだけだよ。兄さん」
「わたしに対して諭すような言い方をするなっ」
 声を荒らげた勢いのまま英俊に左頬を打たれた。衝撃に目が眩み、すぐに顔の左半分が熱くなる。
「最初からっ……、気づいてた。里見さんにとっても、お前が〈特別〉だってことは。父さんからお前の子守りを命じられて、嫌々従ってるという感じじゃなかったからな。ただの上司の子供を、どうして弟みたいに面倒を見てやれるのか、心底不思議だった。里見さんの人のよさを、愚かだとか、出世のための計算尽くだとか思いながら、腹立たしくて仕方なかった」
「……里見さんは優しい人だ」
「知っている。だけど同じぐらい、残酷なひとだ」
 痛む頬がじわりと熱を帯びてくる。和彦は強張った息を吐き出すと、心の中で応じた。多分、自分もだ、と。
「里見さんとの関係を、どうするつもり? ぼくには口を出す権利はないけど、結婚するんなら……」
「お前が倫理観を持ち出すのか。世の中、不倫してる奴なんていくらでもいる。父さんだって咎めはしないだろう。そもそも、すべての原因は父さんだ」
「その父さんの生き方を、兄さんはずっと追いかけてきてた。佐伯家の跡取りとして、官僚として」
 英俊の顔が歪む。和彦とのやり取りで、目を逸らし続けていたものを眼前に突き付けられたかのように。
「何が、言いたい……。わたしに、父さんを批判させたいのか? そうやって、家の中を引っ掻き回したいのか?」
「そうじゃない。ただ、兄さんが心配でっ……」
「ウソをつくなっ。内心、嘲笑っているんだろ。自分を痛めつけてきた兄が、無様に苦しんでいる様を」
 襟元を掴み寄せられ、再び頬を打たれた。この瞬間、和彦の頭の中で何かが弾けた。それが理性の箍だとわかったのは、低い声で英俊にこう問いかけたあとだった。
「――……苦しいんだ?」
 ハッとしたように英俊が目を見開く。和彦は打たれたばかりの頬に触れながら、痺れているせいで口が動かしにくいなと他人事のように思う。ただ、言葉を発するのは止めなかった。
「その苦しみの大部分は、ぼくのせいじゃないだろ」
「お前……」
「ずっと努力してきたのはすごいよ。だからといって、ぼくに八つ当たりしていい理由にはならない。いい加減、そのことをわかってほしい」
 重石のように胸につかえていた感情は、言葉にすればたったこれだけなのだ。同時に、恐れの対象であった兄を、自分と大差ない人間なのだと認識できていた。子供の頃は、年齢差のある英俊を大人だと感じていたが、今となっては体格差はほぼなく、おそらく力は和彦のほうが強い。
 裏の世界で、物騒な男たちに囲まれて過ごしてきた結果、否応なく精神的にも逞しくなった。
 自分はもう、痛みを与えられながら、唇を噛んで耐えていた子供ではない。
 和彦はてのひらにぐっと爪を立てる。
「……どんな理由があったにせよ、兄さんが昔ぼくにしたことは許さない」
「お前の許しなんて――」
「許さないけど、もう終わったことだと思ってる。……兄さんのこと、怖くはあったけど、嫌いじゃないんだ。ときどき優しくしてくれたことを覚えてるから。だから、今の兄さんの立場を悪くするというなら、父さんたちがなんと言おうが、もうこの家に戻ってこないこともできる。ぼくを利用したいなんて、きっと兄さんの本心じゃないんだろう? ぼくが側にいたら、苦しい思いをするとわかってるはずだ」
 英俊は小さく声を洩らしたあと、何かを訴えかけてくるような眼差しを向けてくる。しかしすぐに顔を背け、忌々しげに吐き捨てた。
「自分が満たされているから、わたしに対して優しくもなれるし、寛容にもなれるということか……。生憎だったな。わたしは、お前という弟ができてからずっと、お前が嫌いだ」
 和彦は、兄弟間のわだかまりが簡単に消えるとは考えていなかった。英俊の頑なさは知っているつもりだし、拒絶も覚悟はしていた。いつかはわずかな歩み寄りが可能かもしれないが、今は無理だ。
 言葉を交わしてそのことを確認できただけでも、自分は一歩を踏み出せた。
 さらに一歩を――。
「――兄さん」
 呼びかけると、英俊がこちらを見る。和彦は躊躇なく、英俊の左頬を平手で打った。
 何事が起こったのか理解できない様子で、英俊が呆然とする。かまわず和彦は、もう一度手を振り上げ、鋭い音を響かせた。
「今のぼくは、痛めつけられるだけの人形じゃない。憎まれ口も叩くし、殴られたら殴り返す。それだけはわかってほしかった」
 英俊は、掴みかかってはこなかった。自分がされた行為が信じられないように、ただ立ち尽くしている。その様子にズキリと胸が痛んだ。
 英俊の姿が、与えられた痛みをどう処理していいかわからず、なんの反応もできなかったかつての自分と重なる。
 ごめん、と言い置いて、和彦はその場を逃げ出していた。
 二階の自室に戻ると、途端に両足から力が抜け、その場に崩れ込む。心臓の鼓動が狂ったように早打ち、頭がガンガンと痛む。自分の行動に激しく動揺していた。
 英俊に打たれて怒ったのではなく、本当にわかってほしかっただけなのだ。和彦という人間を。
 大きく深く呼吸を繰り返し、なんとか気を静めようとする。
 鼓動は次第に落ち着いてきて、頭痛もゆっくりと引いていくが、いざ動けるようになると、今度はある衝動が抑えられなくなった。
 和彦は携帯電話を手にすると、震える指で操作する。呼出し音が留守電の応答メッセージに切り替わって諦めたものの、五分も経たないうちに、今度は電話がかかってくる。
 勢いよく電話に出た和彦の耳に、ゾクリとするほど魅力的なバリトンが注ぎ込まれた。
『――明けましておめでとう、と言っていいか?』
 胸が詰まり、咄嗟に声が出なかった。
 上擦り、震えを帯びた声を聞かせてしまっては、泣いていると思われる。和彦は慎重に呼吸を整え、できる限り感情を抑制する。
「ああ……。明けましておめでとう」
 元日ということで、今日一日で何度となく口にした挨拶なのに、とても新鮮に感じた。
「……今、電話をかけてきて、大丈夫なのか?」
『お前との電話は、何を置いても優先する。――なんだ。気をつかって、昨日、一昨日と電話をくれなかったのか。こっちも気をつかったんだが、こんなことなら、慣れない我慢なんてするんじゃなかったな』
 賢吾の声が笑いを含み、柔らかく鼓膜に沁み込む。瞬く間に賢吾という存在が全身へと行き渡っていた。

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