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第44話
(32)
しおりを挟む英俊とは、いまだに一言も言葉を交わせていない。
和彦が里見の部屋を飛び出したあと、二人の間で何があったか、当然わからない。里見との連絡用の携帯電話の電源は切ったままにしてあり、むしろ和彦のほうが、情報を遮断しているともいえる。
英俊から詰られるのなら、甘んじて受け入れるつもりだったのだ。しかし英俊は何も言わない。それどころか、和彦とまともに目を合わせることすらしない。怒っているのか悲しんでいるかすら、推し測ることができないのだ。
この家にいると、感情が波立つことすら抑制されるのだろうか――。
年を越し、元日を迎え、午前中から出入りする親戚たちの接待に務めているうちに、和彦は次第に、自分の中が空っぽになっていくのを感じていた。感情が磨滅していく、という表現が近いかもしれない。
一階に下りる途中の階段で腰掛けた和彦は、ゆっくりと手を握ったり開いたりしてみる。指先がいつもより冷たく感じる。それだけではなく、酸素が上手く体内に取り込めていないような息苦しさにまとわりつかれていた。
早く帰りたい、と心の中で呟いてみる。声に出すのは、そうした時点で家を飛び出してしまいそうで、できなかった。
きちんと会話をしたかった。自分の言葉にきちんと耳を傾けてくれる相手に、心に溜まったものを吐露したかった。一方で、それが今は難しいことも知っている。年末年始は、長嶺の本宅も多忙をきわめているため、こちらから電話はかけられないのだ。
遠慮するなと、長嶺の男たちは言ってくれるだろうが。
玄関のほうから、また客が訪れた気配がする。和彦は立ち上がろうとして、失敗した。気力が萎えかけていて、足に力が入らない。
出奔後、おめおめと実家に戻ってきたことになっている和彦は、父方の親戚たちの間で、ちょっとした見世物状態だ。叱責され、励まされ、あれこれと詮索され、午前中だけで疲労困憊となっていた。一方の母方の親戚は――というと、誰一人として訪ねてこない。また、佐伯家の人間が出向いていくこともない。
かつては、和彦を除いた皆で、母親の実家である和泉家を訪問することもあったが、いつの間にかその習慣はなくなっていた。両家の間で何かしら取り決めが交わされたのか、問題が起こったのか、その理由を和彦が知らされることはない。
いつでも、和彦はこんな立場なのだ。
視線を伏せかけたとき、足音がしてハッとする。一階の廊下から俊哉が姿を見せた。俊哉も、階段に座り込んでいる和彦を見て、軽く目を見開く。
「――……そんなところで何をしている」
「気疲れして、休んでた」
「何年もサボっていたんだ。久しぶりだと疲れもするだろう」
「この家は、ぼくがいなくても同じことを繰り返していたんだよね。だったら、いまさらぼくがいなくても、いいんじゃないかな」
皮肉でもなんでもなく、率直な気持ちだった。意外なことに、俊哉はふっと笑みをこぼす。自嘲気味、ともいえる表情だ。
「そうだな。同じことの繰り返しだ。わたしが物心ついたときから、ずっと、な」
「……父さん?」
和彦は反射的に呼びかける。このときには、俊哉は顔から一切の表情を消してしまう。いつもの父の姿だ。
「今来た客に挨拶をしたら、昼食をとれ。あとで部屋に運ばせておく。――お前も英俊も、年を越す前から揃って顔色が悪い。何かあったのか」
「ぼくが、兄さんを怒らせた。昔からよくあることだよ」
「だったら、他人に悟られないようにしろ。明日は家族揃って出かけるからな」
「上手くやるよ。慣れてるから」
和彦は小さく掛け声をかけて立ち上がると、自分がこの家で課せられた務めを果たすため、階段を下りた。
ベッドに横になって文庫本を開いていた和彦は、デスクの上の時計にちらりと目を遣る。実家に戻って気を張り続けているうえに、親戚たちの応対をして、神経を限界まですり減らした。
さすがに今夜は泥のように眠れるだろうと思っていたが、疲れすぎてかえって目が冴えている状態だ。明日も用事があるということで、眠りが深くなりすぎるのが怖くて、安定剤には手が出せない。結局和彦は、一度は消した部屋の電気をまたつけて、文庫本の文字を目で追っている。
とはいっても、内容はほとんど頭に入っていない。読書がしたかったわけではないのだ。
ページを捲るたびに挟み直している栞を、そっと指先で撫でる。繊細なデザインが施された金属製のもので、三田村がクリスマスプレゼントとして贈ってくれたものだ。
しきりに賢吾が、三田村のプレゼントの中身を気にしていたが、里帰りを終えたら教えてやろうと、密かに和彦は楽しみにしていた。おそらく、余裕たっぷりに笑いながら、趣味がいい奴だなと洩らすはずだ。
実際、和彦はこの栞を気に入っている。実用性というより、三田村の存在を側に感じられるお守りとして。
ただ栞を指先で撫で続けていたが、温かい飲み物が欲しくなり、もそもそとベッドから出る。お茶でも淹れてこようと、カーディガンを羽織って一階に下りた。
おやっ、と思ったのは、誰か起きている気配がないのに、リビングの電気がついていたことだ。和彦は一旦はキッチンに向かったが、やはり気になり、お茶を淹れたあと、部屋に戻るついでにそっと覗いてみる。
リビングには誰もいなかった。
しかし、庭に面したテラス窓越しに、英俊の後ろ姿が見えた。細く煙が立ち上っており、どうやら煙草を吸っているようだ。
一瞬、その場を離れようとした和彦だが、ふっと息を吐き出す。今度は逃げないと、意外なほどあっさりと覚悟が決まった。
リビングのテーブルにカップを置いてからテラス窓を開けると、驚いた顔で英俊が振り返った。
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