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第44話
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和彦は、絶句するしかなかった。そんな大事なことをどうしていままで教えてくれなかったのかと、膝の上で硬く手を握り締める。いままで話す機会はいくらでもあったはずだ。それが、車中での世間話のついでのように語られたのだ。
和彦の実母である紗香は、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったという。奔放ゆえに、姉の夫である俊哉と関係を持ち、そして和彦を身ごもった。両家でどのような話し合いが持たれたのか、結果、和彦は綾香から誕生したことになっており、戸籍には養子だという記載はされていない。
母親は、〈火遊び〉の末にできた子供を手放したのだと、断片的に俊哉から聞かされた話と、佐伯家内での自分の扱いから推測していた和彦だが、今この瞬間、疑念を抱く。
名しか知らない母親の実像に、ようやく触れられるかもしれないのだ。
「ぼくの将来のことを、話してたんだ、母さん。もっと早くに、そのことを知りたかった……」
「だとしても、何も変わらなかっただろう。あえて記憶に残さなくてよかったんだ。もう、この世にいない人間だ」
「そんな冷たい言い方しないでくれっ。〈あの人〉は、少なくともぼくに笑いかけてくれた。それに手も繋いで――」
感情的になって溢れた言葉に、口にした和彦自身よりも、俊哉のほうが過敏に反応した。針で刺すような一瞥を向けてきたのだ。
「覚えているのか?」
「……わからない。でも、頭に浮かんだんだ。今」
うそではなかった。覚えていると言えるほど明瞭な記憶ではない。しかし、忘れていると言えるほど明確な欠落があるわけでもない。まるで幻のようなものだ。はっきりとした輪郭を掴もうとしても、まるで靄のように手からすり抜けていく。
昔からふとした瞬間に、誰かに優しく微笑みかけられた光景や、手を握られたり、抱き締められた感触などが蘇ることがあった。家族よりも面倒を見てくれていた親戚の女性との思い出かと、さほど気に留めていなかったが、俊哉の様子で腑に落ちた。
胸の辺りがズシリと重くなる。急に気分が悪くなってきて、額にじっとり冷や汗が浮かぶ。和彦の顔色の変化に気づいたらしく、俊哉はわずかにウィンドーを下ろして冷たい空気を車内に取り込んだ。
「――お前は一度だけ、短い間だが実の母親と暮らしている。ただその頃に事故に遭ったショックで、心身に異変が起きた。事故に遭った前後の記憶がなくなっていると、お前を診察した医者は言っていた。そして――」
しばらく口がきけなくなった。
当時の自分がどのような状態だったか、和彦は覚えていない。すべて人からの伝聞で、そうだったのかと他人事のように受け止めていただけだ。今も、俊哉から聞かされて、どう反応をすればいいのか戸惑っている。
「ぼくは……、ずっと昔に、大事なものを置き去りにしてきたような感覚なんだ。今になってそんなことを父さんから聞かされて、どう反応すればいいんだ」
「何も。……ただ、心の準備はしておけ」
「それは、何に対して?」
答えるつもりはないということか、俊哉が唇を引き結ぶ。
和彦は、そっと俊哉をうかがい見る。いまだに十分人目を惹きつける端整な横顔に、ふとした瞬間に英俊の面影を見出す。兄弟揃って和泉家の血が濃く出ていると言われてきたが、年齢を重ねるうちに、英俊は少しずつ面差しが俊哉に似てきたように感じる。それとも、置かれた環境や自己研鑽の結果、俊哉に近づけているのだろうか。
では、他人からは、自分と俊哉はどんなふうに見えているのか――。
寒気を感じて身を震わせると、俊哉はウィンドーを上げる。
当然のように俊哉が無言で自分を気遣ってくれる様子に、正直和彦は、警戒していた。これまで、必要最低限の会話すらまともに交わしてこなかった父子だ。それが、和彦が尋ねれば、圧倒的に説明が足りないなりに、答えてくれるのだ。
水面に浮かぶ木の葉のように、和彦の気持ちは不安定に揺れる。何かとてつもない事実が、自分を呑み込もうとして大きく口を開けているのではないかと。俊哉は、無慈悲にそこに自分を突き落とそうとしているのではないかと。
「……気分が悪いから、ぼくだけ車で待っている」
つい弱音を洩らしたが、当然のように却下された。
車がホテルの地下駐車場へと入り、エンジンが切られると、仕方なく和彦はコートを抱えて降りた。
エレベーターで二十階へと上がると、おとなしく俊哉のあとをついて歩く。アフタヌーンティーを楽しむ客たちでにぎわっているラウンジに入ると、軽く辺りを見回した俊哉が軽く片手を挙げた。
窓際のテーブルに着いた女性が呼応するように立ち上がり、こちらに向かって丁寧に頭を下げた。
和彦の実母である紗香は、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったという。奔放ゆえに、姉の夫である俊哉と関係を持ち、そして和彦を身ごもった。両家でどのような話し合いが持たれたのか、結果、和彦は綾香から誕生したことになっており、戸籍には養子だという記載はされていない。
母親は、〈火遊び〉の末にできた子供を手放したのだと、断片的に俊哉から聞かされた話と、佐伯家内での自分の扱いから推測していた和彦だが、今この瞬間、疑念を抱く。
名しか知らない母親の実像に、ようやく触れられるかもしれないのだ。
「ぼくの将来のことを、話してたんだ、母さん。もっと早くに、そのことを知りたかった……」
「だとしても、何も変わらなかっただろう。あえて記憶に残さなくてよかったんだ。もう、この世にいない人間だ」
「そんな冷たい言い方しないでくれっ。〈あの人〉は、少なくともぼくに笑いかけてくれた。それに手も繋いで――」
感情的になって溢れた言葉に、口にした和彦自身よりも、俊哉のほうが過敏に反応した。針で刺すような一瞥を向けてきたのだ。
「覚えているのか?」
「……わからない。でも、頭に浮かんだんだ。今」
うそではなかった。覚えていると言えるほど明瞭な記憶ではない。しかし、忘れていると言えるほど明確な欠落があるわけでもない。まるで幻のようなものだ。はっきりとした輪郭を掴もうとしても、まるで靄のように手からすり抜けていく。
昔からふとした瞬間に、誰かに優しく微笑みかけられた光景や、手を握られたり、抱き締められた感触などが蘇ることがあった。家族よりも面倒を見てくれていた親戚の女性との思い出かと、さほど気に留めていなかったが、俊哉の様子で腑に落ちた。
胸の辺りがズシリと重くなる。急に気分が悪くなってきて、額にじっとり冷や汗が浮かぶ。和彦の顔色の変化に気づいたらしく、俊哉はわずかにウィンドーを下ろして冷たい空気を車内に取り込んだ。
「――お前は一度だけ、短い間だが実の母親と暮らしている。ただその頃に事故に遭ったショックで、心身に異変が起きた。事故に遭った前後の記憶がなくなっていると、お前を診察した医者は言っていた。そして――」
しばらく口がきけなくなった。
当時の自分がどのような状態だったか、和彦は覚えていない。すべて人からの伝聞で、そうだったのかと他人事のように受け止めていただけだ。今も、俊哉から聞かされて、どう反応をすればいいのか戸惑っている。
「ぼくは……、ずっと昔に、大事なものを置き去りにしてきたような感覚なんだ。今になってそんなことを父さんから聞かされて、どう反応すればいいんだ」
「何も。……ただ、心の準備はしておけ」
「それは、何に対して?」
答えるつもりはないということか、俊哉が唇を引き結ぶ。
和彦は、そっと俊哉をうかがい見る。いまだに十分人目を惹きつける端整な横顔に、ふとした瞬間に英俊の面影を見出す。兄弟揃って和泉家の血が濃く出ていると言われてきたが、年齢を重ねるうちに、英俊は少しずつ面差しが俊哉に似てきたように感じる。それとも、置かれた環境や自己研鑽の結果、俊哉に近づけているのだろうか。
では、他人からは、自分と俊哉はどんなふうに見えているのか――。
寒気を感じて身を震わせると、俊哉はウィンドーを上げる。
当然のように俊哉が無言で自分を気遣ってくれる様子に、正直和彦は、警戒していた。これまで、必要最低限の会話すらまともに交わしてこなかった父子だ。それが、和彦が尋ねれば、圧倒的に説明が足りないなりに、答えてくれるのだ。
水面に浮かぶ木の葉のように、和彦の気持ちは不安定に揺れる。何かとてつもない事実が、自分を呑み込もうとして大きく口を開けているのではないかと。俊哉は、無慈悲にそこに自分を突き落とそうとしているのではないかと。
「……気分が悪いから、ぼくだけ車で待っている」
つい弱音を洩らしたが、当然のように却下された。
車がホテルの地下駐車場へと入り、エンジンが切られると、仕方なく和彦はコートを抱えて降りた。
エレベーターで二十階へと上がると、おとなしく俊哉のあとをついて歩く。アフタヌーンティーを楽しむ客たちでにぎわっているラウンジに入ると、軽く辺りを見回した俊哉が軽く片手を挙げた。
窓際のテーブルに着いた女性が呼応するように立ち上がり、こちらに向かって丁寧に頭を下げた。
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