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第44話
(19)
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「鷹津が、総和会を引っ掻き回すために、憎まれ役をやるつもりだと教えてくれたのは、父さんだよ。……あの男はさらに何かやるつもりなんだろ?」
「さあ。わたしは何も聞いていない。お前が心配したところで、簡単に野垂れ死ぬ男でもなかろう」
そう、と応じて部屋を出た和彦は、ドアを閉める寸前に一瞬だけ、俊哉の表情を盗み見た。非常に険しい顔をしていた。
廊下を歩きながら、俊哉の表情の意味を考える。昔一度だけ、あの表情を間近で見た記憶があった。常に冷静な父親がこんな顔をするのかと、幼心に強く記憶に刻み込まれたのだ。
それなのに、いつ、どんな状況であったのかが思い出せない。
胸の奥がざわざわと落ち着かなくなり、急き立てられるように足早に玄関ホールに出たところで、ある人物と遭遇した。
和彦は大きく見開いたあと、反射的に半歩だけ後退ってしまう。まだ、心の準備ができていなかった。
「――帰っていたの」
針を潜ませた冷ややかな声に、妙なことだが、実家に戻ってきたのだと実感していた。
和彦はぎこちなく笑いかける。
「ただいま、母さん」
綾香は、久しぶりに顔を合わせた〈息子〉を容赦なく観察してきた。頭の先からつま先までじっくりと見つめられながら、和彦もまた、母親を控えめに観察する。
昔から、スカートを穿いた姿をあまり見せない人だった。今もパンツスーツ姿で、髪もきれいにまとめている。異様な若々しさを保っている俊哉ほどではないが、六十代前半には見えない容色だ。かつては省庁で有望な女性官僚として勤めていたが、和彦が美容外科医に転科して慌ただしくしていた頃にいつの間にか退職し、その後は大学で教鞭をとっている。
非常に整った顔立ちをしているのだが、表情は女性的な柔らかさが乏しく、近寄りがたい雰囲気がある。このあたりは俊哉とよく似た夫婦といえる。
もっとも綾香の場合、頑なな殻をまとっていなければ、己を保てなかったのではないか。そう気づいたときから和彦は、どれだけ冷たく接されようが、笑いかけることができるようになった。
「さんざん迷惑かけたのに申し訳ないけど、年末年始の間、ここに滞在させてもらうから」
「……本当は、ホテルを取ってほしかった」
「うん、わかってる」
「あなた絡みで何か問題が起これば、お父さんが何を言おうが、ここから出て行ってちょうだい」
突き放すような綾香の物言いを聞いていると、高校を卒業するまでの生活が昨日のことのように蘇る。しかし今の綾香の忠告は、むしろ当然なのだ。厄介な事情と人間関係を抱えた和彦など、本来であればこの家の敷居を跨ぐ資格はない。
年末に自分を呼び戻すために、両親の間でどんなやり取りがあったのか――。
見たわけでもないのに、寒々としたものが胸を駆け抜ける。居たたまれなくなった和彦は、視線を伏せてその場を立ち去る。実家に到着してさほど時間が経ったわけでもないのに、もうこの状況に怯んでしまいそうだった。
耐えられるのか。耐えなければ。耐えるべきだ。
自分の部屋に向かいながら、まるで呪文のように和彦は心の中で呟いていた。
夕食は、俊哉と二人でとった。
ダイニングの広いテーブルで俊哉と向き合うのはなかなかの緊張を強いられたが、これも団らんの一つの形かと考えると、少なくとも苦痛ではなかった。綾香は、あとで一人でとるつもりらしい。
入浴後、自分の部屋に戻った和彦は、ベッドに倒れ込む。患者を診たわけでもないのに、一日中働いたあとのような疲労感があった。実家で過ごすのが久しぶりすぎて、気疲れしたようだ。
まだ夜も早い時間だが、このまま眠ってしまいたかった。そうやって時間を進めていけば、自分がいるべき場所にあっという間に帰れるはずだ――。
一度は目を閉じた和彦だが、すぐにソワソワして起き上がる。
デスクの上に置いた携帯電話を手に取ると、数分ほど逡巡したあと、賢吾に連絡していた。
『――今日はもうかかってこないかと思った』
柔らかな声音で言われ、和彦の頬は瞬く間に熱くなる。
「心配、しているかと思って……」
『よくわかったな』
賢吾と話しているだけでほっとする。心身の強張りがじわじわと解けていくようで、和彦はやっと肩から力を抜くことができる。
『久しぶりの実家はどうだ』
「うん……。相変わらず、かな。さんざん迷惑かけたから、温かく迎え入れてもらおうなんて考えもしてなかったし、むしろ、よく家に入れてもらえたと思う」
「さあ。わたしは何も聞いていない。お前が心配したところで、簡単に野垂れ死ぬ男でもなかろう」
そう、と応じて部屋を出た和彦は、ドアを閉める寸前に一瞬だけ、俊哉の表情を盗み見た。非常に険しい顔をしていた。
廊下を歩きながら、俊哉の表情の意味を考える。昔一度だけ、あの表情を間近で見た記憶があった。常に冷静な父親がこんな顔をするのかと、幼心に強く記憶に刻み込まれたのだ。
それなのに、いつ、どんな状況であったのかが思い出せない。
胸の奥がざわざわと落ち着かなくなり、急き立てられるように足早に玄関ホールに出たところで、ある人物と遭遇した。
和彦は大きく見開いたあと、反射的に半歩だけ後退ってしまう。まだ、心の準備ができていなかった。
「――帰っていたの」
針を潜ませた冷ややかな声に、妙なことだが、実家に戻ってきたのだと実感していた。
和彦はぎこちなく笑いかける。
「ただいま、母さん」
綾香は、久しぶりに顔を合わせた〈息子〉を容赦なく観察してきた。頭の先からつま先までじっくりと見つめられながら、和彦もまた、母親を控えめに観察する。
昔から、スカートを穿いた姿をあまり見せない人だった。今もパンツスーツ姿で、髪もきれいにまとめている。異様な若々しさを保っている俊哉ほどではないが、六十代前半には見えない容色だ。かつては省庁で有望な女性官僚として勤めていたが、和彦が美容外科医に転科して慌ただしくしていた頃にいつの間にか退職し、その後は大学で教鞭をとっている。
非常に整った顔立ちをしているのだが、表情は女性的な柔らかさが乏しく、近寄りがたい雰囲気がある。このあたりは俊哉とよく似た夫婦といえる。
もっとも綾香の場合、頑なな殻をまとっていなければ、己を保てなかったのではないか。そう気づいたときから和彦は、どれだけ冷たく接されようが、笑いかけることができるようになった。
「さんざん迷惑かけたのに申し訳ないけど、年末年始の間、ここに滞在させてもらうから」
「……本当は、ホテルを取ってほしかった」
「うん、わかってる」
「あなた絡みで何か問題が起これば、お父さんが何を言おうが、ここから出て行ってちょうだい」
突き放すような綾香の物言いを聞いていると、高校を卒業するまでの生活が昨日のことのように蘇る。しかし今の綾香の忠告は、むしろ当然なのだ。厄介な事情と人間関係を抱えた和彦など、本来であればこの家の敷居を跨ぐ資格はない。
年末に自分を呼び戻すために、両親の間でどんなやり取りがあったのか――。
見たわけでもないのに、寒々としたものが胸を駆け抜ける。居たたまれなくなった和彦は、視線を伏せてその場を立ち去る。実家に到着してさほど時間が経ったわけでもないのに、もうこの状況に怯んでしまいそうだった。
耐えられるのか。耐えなければ。耐えるべきだ。
自分の部屋に向かいながら、まるで呪文のように和彦は心の中で呟いていた。
夕食は、俊哉と二人でとった。
ダイニングの広いテーブルで俊哉と向き合うのはなかなかの緊張を強いられたが、これも団らんの一つの形かと考えると、少なくとも苦痛ではなかった。綾香は、あとで一人でとるつもりらしい。
入浴後、自分の部屋に戻った和彦は、ベッドに倒れ込む。患者を診たわけでもないのに、一日中働いたあとのような疲労感があった。実家で過ごすのが久しぶりすぎて、気疲れしたようだ。
まだ夜も早い時間だが、このまま眠ってしまいたかった。そうやって時間を進めていけば、自分がいるべき場所にあっという間に帰れるはずだ――。
一度は目を閉じた和彦だが、すぐにソワソワして起き上がる。
デスクの上に置いた携帯電話を手に取ると、数分ほど逡巡したあと、賢吾に連絡していた。
『――今日はもうかかってこないかと思った』
柔らかな声音で言われ、和彦の頬は瞬く間に熱くなる。
「心配、しているかと思って……」
『よくわかったな』
賢吾と話しているだけでほっとする。心身の強張りがじわじわと解けていくようで、和彦はやっと肩から力を抜くことができる。
『久しぶりの実家はどうだ』
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