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第44話
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英俊は優秀で、両親どころか親族たちからの期待を一身に受け、それに見事に応えてきた。叶わないことはないとでもいうように、充実した日々を送り、順調に省内で出世し、このまま俊哉のあとを追いかけ続けると、誰もが思っていた。しかし、実際のところ、俊哉の口から一度でも英俊に対して、『官僚になれ』、『佐伯家を継げ』と言ったことがあったのだろうか。もしかすると、政治家を目指すというのも、英俊の意思がどれだけ反映されているのか。
ふと疑問が過った瞬間、寒気がした。
俊哉が望んでいるはずだと信じて邁進してきた英俊が、その俊哉から婿養子に行くよう言われたとしたら、どう感じるか。
和彦は瞬きもせず、真正面から父親の顔を凝視する。昔からほとんど衰えることのない容色と、他人を惹きつける謎めいてすらいる華やかで艶やかな雰囲気は、ある意味毒気だ。和彦はこのとき、守光の存在を思い出していた。
内心うろたえ、動揺を表に出すまいと努める。今は、俊哉と守光の関係を問う場面ではない。
「――……父さんは、兄さんに対して声を荒らげたことがある?」
俊哉にとっては意外な質問だったらしく、わずかに目を細めた。
「どうしてそんなことが聞きたい」
「兄さんは、ぼくに対してはよく声を荒らげていた。あの人は、父さんをなんでもコピーしようとしてたわけじゃない。自分を律しようと努力はしてたけど、感情的な人間だよ。もちろん、ぼくも」
話していて、自分は英俊に同情しているのだろうかと、自問したくなる。和彦の、兄に対する気持ちは複雑だ。だが決して、憎んではいないのだ。
ふふ、と俊哉は声を洩らして笑った。
「わたしも、お前たちと同じだ。どこまでも感情的で、だからこそ己を律する術を身につけた。そうしないと、自壊するとわかっていたからな」
「……ぼくは、感情的になった父さんを見てみたかったよ。いつだって落ち着いてて、遠い存在に思えた。きっと兄さんも。ずっと、父さんが何を考えているかわからなかったんだ。一番わからなかったのは、どうして、ぼくをこの家に引き取ったのか――」
そもそも、怜悧狡知な俊哉が、なぜ義妹と関係を持つという行為に至ったのか。
ずいぶん昔に理由を告げられたことはあるが、それは到底、情熱的な愛の話と呼べるものではなく、どこか動物的な、即物的ともいえるものだと、思春期だった和彦はわずかな嫌悪を覚えたのだ。
およそ俊哉らしくない生々しい告白だった。まるで、巷にあふれる下世話な噂話を脚色したかのような。
「――……里見さんの存在も関係あるのかな」
「なんのことだ?」
「兄さんが、婚約を迷い始めた理由」
まっさきに思いつくべきだったのだろうが、あの兄に限ってという気持ちが一方である。感情で動くという行為を、何よりも嫌っていそうだからこそ。ただ、自分〈たち〉が父親から受け継いだ資質だとするなら、納得もできる。
俊哉が苛立ちを表すように、指先で軽くデスクを叩いた。
「会話があちこちに飛ぶな。理路整然とまとめたらどうだ」
「ごめん……」
疑問のすべてを解決したくて、このときとばかりに気持ちが逸るのだ。
「まあ、いい。――里見のことだが、そうかもしれないし、違うかもしれない。わたしは、英俊ではないからな」
「でも、父さんならわかるんじゃないか? たった一人を選ばなければいけないけど、選べない気持ちが……」
部屋の空気が一層張り詰めた。和彦はじっと息を潜める。
俊哉に対して、こんなに踏み込んだ問いかけをするなど、かつての自分ならありえなかった。この二年近くでわが身に起こった出来事で、和彦は強く、ふてぶてしくなっていた。
「仮にそうだとして、だからどうだというんだ。決断できないなら、折り合いをつけるしかない。――英俊ができると思うか?」
「それは……」
「他人事ではなく、お前も決断することになる。この先、どんな人生を歩むか。何を切り捨てるか」
「……ぼくはもう、選んだよ」
「後悔しないと言い切れるか?」
和彦が答えようとしたとき、部屋の外から物音が聞こえた。他の家族が帰宅したようだ。
「どちらが帰ってきたんだろうな……」
俊哉の独り言に、書斎での談話はこれで終わりなのだと察する。和彦は短く息を吐いて立ち上がった。イスを元の位置に戻して部屋を出ようとしたが、動きを止める。最後にもう一つだけ、俊哉に聞いておきたいことがあった。
「――父さん、鷹津はどうしてる?」
不自然な間を置いたあと、俊哉は言った。
「まだ気にかけているのか。彼のほうは、面倒事はもう勘弁とばかりに、日本を脱出したかもしれないのに」
ふと疑問が過った瞬間、寒気がした。
俊哉が望んでいるはずだと信じて邁進してきた英俊が、その俊哉から婿養子に行くよう言われたとしたら、どう感じるか。
和彦は瞬きもせず、真正面から父親の顔を凝視する。昔からほとんど衰えることのない容色と、他人を惹きつける謎めいてすらいる華やかで艶やかな雰囲気は、ある意味毒気だ。和彦はこのとき、守光の存在を思い出していた。
内心うろたえ、動揺を表に出すまいと努める。今は、俊哉と守光の関係を問う場面ではない。
「――……父さんは、兄さんに対して声を荒らげたことがある?」
俊哉にとっては意外な質問だったらしく、わずかに目を細めた。
「どうしてそんなことが聞きたい」
「兄さんは、ぼくに対してはよく声を荒らげていた。あの人は、父さんをなんでもコピーしようとしてたわけじゃない。自分を律しようと努力はしてたけど、感情的な人間だよ。もちろん、ぼくも」
話していて、自分は英俊に同情しているのだろうかと、自問したくなる。和彦の、兄に対する気持ちは複雑だ。だが決して、憎んではいないのだ。
ふふ、と俊哉は声を洩らして笑った。
「わたしも、お前たちと同じだ。どこまでも感情的で、だからこそ己を律する術を身につけた。そうしないと、自壊するとわかっていたからな」
「……ぼくは、感情的になった父さんを見てみたかったよ。いつだって落ち着いてて、遠い存在に思えた。きっと兄さんも。ずっと、父さんが何を考えているかわからなかったんだ。一番わからなかったのは、どうして、ぼくをこの家に引き取ったのか――」
そもそも、怜悧狡知な俊哉が、なぜ義妹と関係を持つという行為に至ったのか。
ずいぶん昔に理由を告げられたことはあるが、それは到底、情熱的な愛の話と呼べるものではなく、どこか動物的な、即物的ともいえるものだと、思春期だった和彦はわずかな嫌悪を覚えたのだ。
およそ俊哉らしくない生々しい告白だった。まるで、巷にあふれる下世話な噂話を脚色したかのような。
「――……里見さんの存在も関係あるのかな」
「なんのことだ?」
「兄さんが、婚約を迷い始めた理由」
まっさきに思いつくべきだったのだろうが、あの兄に限ってという気持ちが一方である。感情で動くという行為を、何よりも嫌っていそうだからこそ。ただ、自分〈たち〉が父親から受け継いだ資質だとするなら、納得もできる。
俊哉が苛立ちを表すように、指先で軽くデスクを叩いた。
「会話があちこちに飛ぶな。理路整然とまとめたらどうだ」
「ごめん……」
疑問のすべてを解決したくて、このときとばかりに気持ちが逸るのだ。
「まあ、いい。――里見のことだが、そうかもしれないし、違うかもしれない。わたしは、英俊ではないからな」
「でも、父さんならわかるんじゃないか? たった一人を選ばなければいけないけど、選べない気持ちが……」
部屋の空気が一層張り詰めた。和彦はじっと息を潜める。
俊哉に対して、こんなに踏み込んだ問いかけをするなど、かつての自分ならありえなかった。この二年近くでわが身に起こった出来事で、和彦は強く、ふてぶてしくなっていた。
「仮にそうだとして、だからどうだというんだ。決断できないなら、折り合いをつけるしかない。――英俊ができると思うか?」
「それは……」
「他人事ではなく、お前も決断することになる。この先、どんな人生を歩むか。何を切り捨てるか」
「……ぼくはもう、選んだよ」
「後悔しないと言い切れるか?」
和彦が答えようとしたとき、部屋の外から物音が聞こえた。他の家族が帰宅したようだ。
「どちらが帰ってきたんだろうな……」
俊哉の独り言に、書斎での談話はこれで終わりなのだと察する。和彦は短く息を吐いて立ち上がった。イスを元の位置に戻して部屋を出ようとしたが、動きを止める。最後にもう一つだけ、俊哉に聞いておきたいことがあった。
「――父さん、鷹津はどうしてる?」
不自然な間を置いたあと、俊哉は言った。
「まだ気にかけているのか。彼のほうは、面倒事はもう勘弁とばかりに、日本を脱出したかもしれないのに」
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