血と束縛と

北川とも

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第44話

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 和彦は意識しないまま、口元に手をやる。急に吐き気が込み上げてきた。
 俊哉は抑えた声音で言った。
「わたしとお前にとっての因果が巡ってきたというところだな。よりによってこの時期に、〈向こう〉が動き出したというのも」
「父さんと、ぼく……?」
 こちらを探るように俊哉が一瞬目を眇める。そして、ああ、と声を洩らした。
「……本当に、覚えてないんだな。わたしがずっと遠ざけてきた甲斐はあったということか。お前にとってよくない場所だったからな。この先も縁遠いままであればよかったが、そうもいかないようだ。事情があるらしく、相手はひどく急いでいる。ここで断ると、お前に会いに押し掛けてきても不思議ではないと判断した。今は、これ以上の揉め事は困る」
 ここで深く息を吐き出した俊哉が、指で目頭を押さえる。どうやら疲労が溜まっている様子だ。
 守光とのやり取りで神経をすり減らしたのか、仕事が多忙だったせいなのかと考えるが、本人には聞けない。息子の勘として、俊哉のプライドを傷つけるだろうと思ったからだ。
 数十秒ほどの静寂のあと、姿勢を戻した俊哉が口調を変えないまま言った。
「――英俊が、今になって迷い始めている」
 何を、と和彦は視線で問いかける。このとき、口元にやっていた手をやっと下ろした。
「国政への出馬と、婚約について。まだお前にはきちんと話してなかったが、どうせヤクザ共が調べて、その報告を受けているんだろう。英俊からも聞いているんじゃないのか」
「出馬のことは聞いていたけど、婚約については……。前に会って話を聞いたときは、兄さん、張り切っているようだった。父さんたちも協力してくれているって言ってたし。何が――」
 和彦はハッとして顔を強張らせる。佐伯家にとって自分の存在が一番の障害になっていると、当然のことを思い出していた。
「ぼくのせいで……」
「そうとは言い切れない。〈あれ〉は、この家とわたしに依存して生きてきた。そこから切り離されて生きていくことに、いまさら不安を覚えたんだろう」
 和彦はそっと眉をひそめる。さきほどからずっと、俊哉は迂遠な言い回しを続けている。不肖の次男に対して、佐伯家の現状を伝えたくないのではないかと勘繰りたくなってくる。
 ゴクリと喉を鳴らしてから、和彦は勇気を振り絞って告げた。
「父さん、ぼくを利用したいなら、必要なことは教えてほしい。年末年始の間、親兄弟に心配をかけ続けた次男が、やっと心を入れ替えて戻ってきた――という役は、きちんと演じる。そのために、この家で何が起こっているのかを知りたい。ダメだというなら、何も協力しない。〈向こう〉がどこなのか知らないけど、そこにも行かない」
「わたし相手に駆け引きか」
 俊哉の声が極寒の冷たさを帯びる。和彦は一心に見つめ返し、怯まなかった。
 次の瞬間、俊哉が薄い笑みを浮かべた。
「――婿に欲しい、と言われている」
 和彦は即座に理解できなかった。俊哉はデスクの上で指を組み、言い直した。
「英俊が、佐伯の姓を捨てるということだ」
 英俊との婚約話が出ている相手が、ある企業の創業者の孫娘であることは、かつて鷹津から聞かされた。俊哉の説明もその通りで、あの男の調査能力の高さを改めて実感するのだが、今はそれどころではない。
 孫娘には姉がおり、彼女の夫もまた婿養子で、ゆくゆくは会社を継ぐことになっていると聞いて、和彦は首を傾げる。
「だったら、兄さんがわざわざ婿養子に入る必要はないんじゃ……。政治家になるつもりなら、経営に携わることもないだろうし」
 そう、英俊は国政に打って出ようと考えているのだ。知名度や人脈のために婚約者の家に入るのだとしても、佐伯家も同程度のものは持っているはずだ。あえて婿養子に入る利点が見当たらない。
「……兄さんは、その形での婚約に納得してないのかもしれない。父さんに言われたら、兄さんは嫌とは言わない人だ。でも、佐伯家から出るとなると――」
「この家から出ても、地位や名誉が手に入る道は示してやった。佐伯という姓に束縛される必要はないだろう。あれは、人並み以上の能力はある。どこでだろうが成功できるはずだ。政治家になれなかったというのなら、いつでも見切りをつけて、婿らしく経営の補佐に回ればいい。官僚生活で培った人脈やノウハウが役に立つ」
 なんともうわべだけの言葉だと、率直に和彦は感じた。血を分けた息子というより、手持ちの駒について語っているようだ。

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