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第44話
(16)
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家の様子に大きな変化はなかった。そういえばこんな感じだったなと、ぼんやりと思い出をたぐり寄せながら、二階へと上がる。自分の部屋は物置きになっているのではないかと、多少危惧していなくもなかったが、ドアを開けて安堵した。最低限の家具類しか置いてはないものの、子供の頃から使っていた和彦の部屋が、確かに目の前にあったからだ。
コートを脱いで、ベッドに腰掛ける。部屋の空気は澱んでおらず、定期的に換気が行われていたのだとわかる。触れたシーツはしっかりと糊が効いており、デスクの上などには埃が見当たらない。通いの家政婦がやってくれているのだろうが、少なくともこの部屋の存在を忘れられてはいなかったということだ。
一息つく間もなく、和彦はガーメントバッグを開けてスーツを取り出すと、クローゼットにコートと一緒に掛ける。他の着替えはデスクの上に出しておいた。
ここで手持ち無沙汰となり、なんとなく携帯電話を手にしていた。必要ないとは言われているが、無事に到着したと連絡だけはしておこうかと考えていると、階下から微かな気配がした。
慌てて一階に下りると、帰宅した様子の俊哉と廊下で顔を合わせた。
咄嗟に声が出ず、顔を強張らせる和彦に対して、俊哉は驚いた様子もなく言った。
「――久しぶりの実家はどうだ。和彦」
開口一番に面罵されることを覚悟していた。そうされて当然だとも思っていた。しかし、予想に反した俊哉からの言葉に、形容しがたい感情が込み上げてくる。緊張や畏怖もあるが、それ以上の何かが。
「変わってないと、思う。ぼくの部屋は全然……」
「母さんは手を入れたがっていたがな。わたしが、そのままにしておくよう言った。いつお前が戻ってきてもいいように」
和彦はようやく、正面からしっかりと俊哉の顔を見つめ返すことができた。体面を繕うための穏やかな笑みはなかった。これが俊哉の素顔だ。
一人の人間として、自分を見てくれているのだろうかと、和彦は考えてしまう。
「ぼくは父さんにとって……、ううん、この家にとって、本当に必要なんだろうか」
「不必要だと答えたら、すぐに出ていくか?」
あまりな言いように、つい失笑が漏れる。すると俊哉が間近にやってきて、和彦のあごに手をかけた。顔を覗き込まれて息が止まりそうになる。
「父さん……」
「いつの間にか、英俊より腹の据わった顔をするようになったな。案外お前のほうが、人前に出る仕事に向いているかもしれんな」
俊哉に限って、こんな冗談を言うはずがなかった。意図を問おうとしたが、声が出ない。間近から父親の顔を見て、正直圧倒されていた。
官僚として頂点を極めたと言ってもいい地位に就きながら、両目にあるのは鋭気だ。この人はまだ何かを目指しているのだろうかと、ふいに知りたくなった。
あごから手が退いたことよりも、俊哉の視線が逸れたことにほっとする。
「今日はもうスーツでいる必要はないだろう。着替えたら、書斎に来い。話がある」
和彦はぎこちなく頷き、急いで二階に上がる。
着替えを済ませて書斎に向かうと、俊哉の姿はまだなかった。入っていいものだろうかと戸惑っていると、和彦同様、着替えた俊哉がやってくる。
書斎に足を踏み入れると、あっという間に過去の自分へと引き戻される。実家を離れていた時間の長さなど関係ないのだと、痛感せずにはいられなかった。
書斎の様子は、和彦が高校生の頃に見たときから、ほとんど変わっていないようだった。天井に届くほど高い書棚には、俊哉の専門分野だけではなく、政治や科学、宗教といった幅広い分野の専門書が並んでいる。資料の広げられたデスクの傍らにはパソコンが。仕事から帰っても、寝るときと食事以外はほぼ書斎にこもりきりだった俊哉だったが、今もその生活は変わっていないようだ。
俊哉がデスクについたため、和彦は部屋の隅に置いてあるイスを持ってくる。まるで面接でも始めるように、デスクを挟んで俊哉と向き合って座った。
「……ぼくに行ってもらう場所というのは――」
ずっと気になっていた疑問をまっさきにぶつけようとしたが、俊哉に片手をあげて制された。
「絶対に外の連中に漏らさないと約束できるか?」
「そんなに気を使う場所……相手ということ、だよね」
「そうだ。本当ならお前を行かせたくはないが、そろそろ圧力に逆らえなくなった」
「父さんが……」
「わたしも人間だ。弱みも急所もある。今回は、その両方を押さえられた」
ざわっと肌が粟立った。書斎という場所で俊哉と向き合い、こうして話している状況に、強く記憶が刺激される。覚えていないのではなく、懸命に思い出すまいとしていた事柄が、まるで水面に浮かび上がるように蘇る。
コートを脱いで、ベッドに腰掛ける。部屋の空気は澱んでおらず、定期的に換気が行われていたのだとわかる。触れたシーツはしっかりと糊が効いており、デスクの上などには埃が見当たらない。通いの家政婦がやってくれているのだろうが、少なくともこの部屋の存在を忘れられてはいなかったということだ。
一息つく間もなく、和彦はガーメントバッグを開けてスーツを取り出すと、クローゼットにコートと一緒に掛ける。他の着替えはデスクの上に出しておいた。
ここで手持ち無沙汰となり、なんとなく携帯電話を手にしていた。必要ないとは言われているが、無事に到着したと連絡だけはしておこうかと考えていると、階下から微かな気配がした。
慌てて一階に下りると、帰宅した様子の俊哉と廊下で顔を合わせた。
咄嗟に声が出ず、顔を強張らせる和彦に対して、俊哉は驚いた様子もなく言った。
「――久しぶりの実家はどうだ。和彦」
開口一番に面罵されることを覚悟していた。そうされて当然だとも思っていた。しかし、予想に反した俊哉からの言葉に、形容しがたい感情が込み上げてくる。緊張や畏怖もあるが、それ以上の何かが。
「変わってないと、思う。ぼくの部屋は全然……」
「母さんは手を入れたがっていたがな。わたしが、そのままにしておくよう言った。いつお前が戻ってきてもいいように」
和彦はようやく、正面からしっかりと俊哉の顔を見つめ返すことができた。体面を繕うための穏やかな笑みはなかった。これが俊哉の素顔だ。
一人の人間として、自分を見てくれているのだろうかと、和彦は考えてしまう。
「ぼくは父さんにとって……、ううん、この家にとって、本当に必要なんだろうか」
「不必要だと答えたら、すぐに出ていくか?」
あまりな言いように、つい失笑が漏れる。すると俊哉が間近にやってきて、和彦のあごに手をかけた。顔を覗き込まれて息が止まりそうになる。
「父さん……」
「いつの間にか、英俊より腹の据わった顔をするようになったな。案外お前のほうが、人前に出る仕事に向いているかもしれんな」
俊哉に限って、こんな冗談を言うはずがなかった。意図を問おうとしたが、声が出ない。間近から父親の顔を見て、正直圧倒されていた。
官僚として頂点を極めたと言ってもいい地位に就きながら、両目にあるのは鋭気だ。この人はまだ何かを目指しているのだろうかと、ふいに知りたくなった。
あごから手が退いたことよりも、俊哉の視線が逸れたことにほっとする。
「今日はもうスーツでいる必要はないだろう。着替えたら、書斎に来い。話がある」
和彦はぎこちなく頷き、急いで二階に上がる。
着替えを済ませて書斎に向かうと、俊哉の姿はまだなかった。入っていいものだろうかと戸惑っていると、和彦同様、着替えた俊哉がやってくる。
書斎に足を踏み入れると、あっという間に過去の自分へと引き戻される。実家を離れていた時間の長さなど関係ないのだと、痛感せずにはいられなかった。
書斎の様子は、和彦が高校生の頃に見たときから、ほとんど変わっていないようだった。天井に届くほど高い書棚には、俊哉の専門分野だけではなく、政治や科学、宗教といった幅広い分野の専門書が並んでいる。資料の広げられたデスクの傍らにはパソコンが。仕事から帰っても、寝るときと食事以外はほぼ書斎にこもりきりだった俊哉だったが、今もその生活は変わっていないようだ。
俊哉がデスクについたため、和彦は部屋の隅に置いてあるイスを持ってくる。まるで面接でも始めるように、デスクを挟んで俊哉と向き合って座った。
「……ぼくに行ってもらう場所というのは――」
ずっと気になっていた疑問をまっさきにぶつけようとしたが、俊哉に片手をあげて制された。
「絶対に外の連中に漏らさないと約束できるか?」
「そんなに気を使う場所……相手ということ、だよね」
「そうだ。本当ならお前を行かせたくはないが、そろそろ圧力に逆らえなくなった」
「父さんが……」
「わたしも人間だ。弱みも急所もある。今回は、その両方を押さえられた」
ざわっと肌が粟立った。書斎という場所で俊哉と向き合い、こうして話している状況に、強く記憶が刺激される。覚えていないのではなく、懸命に思い出すまいとしていた事柄が、まるで水面に浮かび上がるように蘇る。
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