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第44話
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賢吾が隣に腰を下ろした途端、反射的に立ち上がっていた。濡れたバスタオルを部屋の隅のカゴに入れたあと、所在なく立ち尽くしていると、賢吾がこちらに手招きをしてくる。しかし、足が動かなかった。
「今日のお前は、怯えた小動物みたいだな。大蛇に丸呑みされるとでも心配してるのか?」
いつもなら軽口で応じるところだが、和彦は顔を強張らせたまま答えられない。
「――和彦」
名を呼ばれた途端、体の中を衝撃が駆け抜けた。賢吾がもう一度手招きをする。
「座れ」
「……話なら、ここからでもできる」
賢吾は軽く息を吐き出して立ち上がる。思わず後退ってしまったが、その様子を見た賢吾が澄ました顔で言った。
「コートを脱ぐだけだ。ついでに手を洗わせてくれ」
和彦は、一連の賢吾の行動を慎重に観察する。一方の賢吾はキッチンで手を洗ったあと、じっくりと室内を見回した。
「ここが、お前を〈飼う〉ために、オヤジが用意した部屋か」
痛烈な言葉だった。心を切りつけられ、そこから血が流れ出していくようだ。
「そんな、言い方……」
「居心地はいいか?」
「いいわけないだろっ。でも、ここを飛び出して、ぼくはどこに行けばよかったっ? ……あんたや千尋に電話しても、繋がらなかった。三田村もだ。他の組員に聞いても、何も教えてくれない。言われるまま、ここで過ごすしかないだろ。この世界では、ぼくは誰かの庇護の下じゃないと生活できない」
ケンカ腰に話をしたかったわけではないのだ。しかし、平然としている賢吾を見ていると、動揺していたのは自分だけだったのだと嫌でも思い知らされる。オンナの処遇すらも男たちの間では決定しており、長嶺組にはもう必要のない存在だと見限られたのかもしれないという想像が、現実感を伴い始める。
和彦は、賢吾を前にしても、不安で怖くて堪らなかった。
「――お前には明かせない準備があったんだ。いろいろと。うちの組の連中は、お前に甘い。特に甘いのが、俺たち父子と、三田村だ。電話越しとはいえ、お前に哀願されたら……、無茶したくなるだろう。それこそ、本部に乗り込んで、オヤジや南郷相手に大立ち回りだってやりかねない。この俺が」
「そんな誤魔化しを言うなんて、あんたらしくない」
和彦が弱々しく詰ると、賢吾が片方の眉を跳ね上げる。この瞬間確かに、彫像のように整った顔に激情が駆け抜けたのを見た。
「……あんたの携帯に電話をしても出ないことに焦っていた。だけど、同じぐらい安堵もしてたんだ。聞きたくない言葉を、あんたから言われなくて済んだって。もう、知ってるんだろ。ぼくに、何が起こったのか」
「ああ。お前の行方が知れなくなった時点で予測はついた」
「オンナごときのことで、あんたに惨めな思いはしてほしくないし、長嶺組を危うい立場に追いやりたくない――って、ぼくが言うまでもないな。自分でも、呆れているんだ。本当に、面倒で厄介な存在になったと……。前にあんたに言ったときより、まだ自分が、ひどい存在になるなんて」
自分の口で話しているという意識もないのに、勝手に言葉が溢れ出てくる。賢吾から言われる前に、佐伯和彦という存在を貶めておかないと、心が持たないと思った。
パンッと乾いた音が室内に響く。賢吾が両手を打ち合わせた音だった。驚いた和彦が言葉を止めると、苦笑いを浮かべてこう言われた。
「――あまりそう、貶してくれるな。俺の、大事で可愛いオンナのことなんだから」
「まだ、そんなこと言うのか。……あんた、長嶺組の組長だろ。ぼくなんかのせいで、総和会との関係が悪くなったら、どうするんだ……」
「心配しなくても、もとから良好じゃなかった」
「でも、総和会での活動を休止する考えがあると言い出すほどじゃなかっただろ。それに――」
「総和会を分裂させるぞと、俺がオヤジを脅したことか。あの化け狐は、困りゃしねーよ。むしろ、俺がやっと甲斐性を見せ始めたかと、内心喜んでるんじゃないか。つまり、今の総和会の運営に自信があるんだ。俺の反乱程度では、せいぜいが大樹の枝を揺らす程度だってな」
和彦がじっと見つめると、賢吾が乱暴に髪に指を差し込む。
「長嶺組には、積み上げてきた歴史の重みがある。たかがヤクザの集まりだろうと思うかもしれないが、それでも、長嶺の姓を持つ男たちが、脈々と組をここまで繋いできた。そのために、泥水だって啜ってきただろうし、権力者におもねることだってやってきたという話だ。今は、何かあれば組事務所だって取り上げられかねないご時世だ。総和会とやり合うより、盾にして組を守るほうが賢い」
「……ああ」
「今日のお前は、怯えた小動物みたいだな。大蛇に丸呑みされるとでも心配してるのか?」
いつもなら軽口で応じるところだが、和彦は顔を強張らせたまま答えられない。
「――和彦」
名を呼ばれた途端、体の中を衝撃が駆け抜けた。賢吾がもう一度手招きをする。
「座れ」
「……話なら、ここからでもできる」
賢吾は軽く息を吐き出して立ち上がる。思わず後退ってしまったが、その様子を見た賢吾が澄ました顔で言った。
「コートを脱ぐだけだ。ついでに手を洗わせてくれ」
和彦は、一連の賢吾の行動を慎重に観察する。一方の賢吾はキッチンで手を洗ったあと、じっくりと室内を見回した。
「ここが、お前を〈飼う〉ために、オヤジが用意した部屋か」
痛烈な言葉だった。心を切りつけられ、そこから血が流れ出していくようだ。
「そんな、言い方……」
「居心地はいいか?」
「いいわけないだろっ。でも、ここを飛び出して、ぼくはどこに行けばよかったっ? ……あんたや千尋に電話しても、繋がらなかった。三田村もだ。他の組員に聞いても、何も教えてくれない。言われるまま、ここで過ごすしかないだろ。この世界では、ぼくは誰かの庇護の下じゃないと生活できない」
ケンカ腰に話をしたかったわけではないのだ。しかし、平然としている賢吾を見ていると、動揺していたのは自分だけだったのだと嫌でも思い知らされる。オンナの処遇すらも男たちの間では決定しており、長嶺組にはもう必要のない存在だと見限られたのかもしれないという想像が、現実感を伴い始める。
和彦は、賢吾を前にしても、不安で怖くて堪らなかった。
「――お前には明かせない準備があったんだ。いろいろと。うちの組の連中は、お前に甘い。特に甘いのが、俺たち父子と、三田村だ。電話越しとはいえ、お前に哀願されたら……、無茶したくなるだろう。それこそ、本部に乗り込んで、オヤジや南郷相手に大立ち回りだってやりかねない。この俺が」
「そんな誤魔化しを言うなんて、あんたらしくない」
和彦が弱々しく詰ると、賢吾が片方の眉を跳ね上げる。この瞬間確かに、彫像のように整った顔に激情が駆け抜けたのを見た。
「……あんたの携帯に電話をしても出ないことに焦っていた。だけど、同じぐらい安堵もしてたんだ。聞きたくない言葉を、あんたから言われなくて済んだって。もう、知ってるんだろ。ぼくに、何が起こったのか」
「ああ。お前の行方が知れなくなった時点で予測はついた」
「オンナごときのことで、あんたに惨めな思いはしてほしくないし、長嶺組を危うい立場に追いやりたくない――って、ぼくが言うまでもないな。自分でも、呆れているんだ。本当に、面倒で厄介な存在になったと……。前にあんたに言ったときより、まだ自分が、ひどい存在になるなんて」
自分の口で話しているという意識もないのに、勝手に言葉が溢れ出てくる。賢吾から言われる前に、佐伯和彦という存在を貶めておかないと、心が持たないと思った。
パンッと乾いた音が室内に響く。賢吾が両手を打ち合わせた音だった。驚いた和彦が言葉を止めると、苦笑いを浮かべてこう言われた。
「――あまりそう、貶してくれるな。俺の、大事で可愛いオンナのことなんだから」
「まだ、そんなこと言うのか。……あんた、長嶺組の組長だろ。ぼくなんかのせいで、総和会との関係が悪くなったら、どうするんだ……」
「心配しなくても、もとから良好じゃなかった」
「でも、総和会での活動を休止する考えがあると言い出すほどじゃなかっただろ。それに――」
「総和会を分裂させるぞと、俺がオヤジを脅したことか。あの化け狐は、困りゃしねーよ。むしろ、俺がやっと甲斐性を見せ始めたかと、内心喜んでるんじゃないか。つまり、今の総和会の運営に自信があるんだ。俺の反乱程度では、せいぜいが大樹の枝を揺らす程度だってな」
和彦がじっと見つめると、賢吾が乱暴に髪に指を差し込む。
「長嶺組には、積み上げてきた歴史の重みがある。たかがヤクザの集まりだろうと思うかもしれないが、それでも、長嶺の姓を持つ男たちが、脈々と組をここまで繋いできた。そのために、泥水だって啜ってきただろうし、権力者におもねることだってやってきたという話だ。今は、何かあれば組事務所だって取り上げられかねないご時世だ。総和会とやり合うより、盾にして組を守るほうが賢い」
「……ああ」
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