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第44話
(1)
しおりを挟むクリニックを出て少し歩いたところで、走ってきた車が和彦の数メートル先でぴたりと停まる。この瞬間、少しだけ期待したのだが、すぐに失望する。迎えの車は、総和会のものだった。
別荘から戻った日から、和彦は総和会本部に滞在している――正確には、滞在させられている。当然、クリニックでの勤務中、外で待機していたのは総和会からつけられた護衛だ。二つの組織の間でどんなやり取りが交わされたのか、今に至るまで、長嶺組の人間は影すら見せない。
総和会が遠ざけているのか、長嶺組が身を引いたのか、和彦には知りようがなかった。それというのも、誰も教えてくれないからだ。
知る限りの長嶺組の組員たちの携帯電話に連絡し、総和会とはどういう状態になっているのか尋ねてはいるが、言葉を濁される。本当に何も知らされていないのか、隠しているのか、問い詰める術を和彦は持たない。
肝心の賢吾はというと――。
つい立ち止まってしまうと、急かすように短くクラクションを鳴らされる。和彦は憂鬱なため息をつき、仕方なく車に乗り込んだ。
ハンドルを握る人物に気づき、あっ、と声を洩らす。
「先生、ドアを閉めてください」
中嶋から澄ました声をかけられ、機械的に従ったあとで、和彦は顔をしかめた。シートベルトを締めると同時に車が発進し、ひとまず座席に体を預ける。仕事で疲れているところに、不快な感触で神経を撫で上げられたようだ。
そう、本部に滞在し始めてから、ずっと和彦は不快なのだ。
「……南郷さんに言われたのか?」
低い声音で問いかけると、中嶋は軽く肩を竦める。
「違うと言ったところで、信用しないでしょう」
「ぼくが塞ぎ込んでいるから、手っ取り早く機嫌を取りたいと考えたんだろう」
「塞ぎ込んでいるんですか?」
バックミラーに映る中嶋の目元が、柔らかな笑みを滲ませる。それを見た和彦は、八つ当たりしたいところを寸前で踏みとどまったものの、内心では怒りと苛立ちが込み上げてくる。
クリニックで忙しく立ち働いている間は、余計なことを考えなくて済むのだ。しかし、こうして総和会の車に乗り込んで、自分にとってのもう一つの現実に身を置くと、あらゆる難事が何も片付いていないという事実に、窒息しそうになる。
「気分転換をしたいなら、言ってもらえればどこにでも向かいますよ。そういえば、もうしばらく、ジムにも行けてないでしょう。明日にでも――」
「いいんだ。外の空気に触れたい気分じゃない。……ありがとう。気をつかってくれたのに」
「礼なんていいんですよ。いつも言ってる気がしますが、先生にはお世話になっているんだし」
「……どちらかと言うと、ぼくが君に世話になりっぱなしだ」
ここで思い出したことがあり、和彦は小さく声を洩らす。
「そういえば、御堂さんとの忘年会の件では、君に悪いことをしたな……」
実は日曜日に、御堂や中嶋との忘年会は予定されていたのだ。しかし和彦は別荘から戻ったばかりで疲労困憊となっており、主催者となるはずだった御堂も、和彦に付き添ったあと急用ができたということで、結局、忘年会は中止となった。
では日を改めて、とならなかったのは、和彦の立場を慮った御堂からの提案があったからだ。
南郷の後見人宣言で、和彦はある意味、〈危険物〉になったと、御堂は苦々しい口調で語っていた。一方で、会話の合間に与えられる口づけは甘く、優しかった。
無意識に自分の口元に手をやっていた和彦は、慌てて淫靡な光景を頭から振り払う。
御堂とは、口づけを交わし、首筋に残った噛み跡を唇と舌で慰撫されただけだ。それだけなのに、まるで媚薬でも嗅がされたように和彦の意識は心地よく浮遊し続けた。自己嫌悪に潰れてもおかしくない状態だったが、かろうじて踏みとどまったのは、御堂のおかげだ。
そんな御堂を――ひいては第一遊撃隊を、自分のせいでさらに微妙な立場に追い込む事態を、和彦は望んでいない。
「忘年会が中止になったことを君に知らせようとしたけど、電話に出なかったから、一応メールは送っておいたんだ。……そういえば、珍しく君から折り返しの連絡がこなかった。いや、君だけじゃないんだけど――」
知らず知らず声が小さくなり、独り言のようになってしまう。
賢吾とはいまだに、連絡が取れていない。そのうえ、千尋とも。
いよいよ自分は、長嶺父子に見捨てられたのではないかと考えるたびに、和彦の胸は締め付けられたように苦しくなる。
このまま中嶋に、長嶺の本宅に向かってもらえないかと提案しかけたとき、苦い口調で中嶋が言った。
「先生も大変だったでしょうが、俺も、多少なりと大変な思いをしていたんですよ」
和彦は目を瞬かせてから身じろぐ。
「何かあったのか?」
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