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第43話
(35)
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「……何が言いたいんですか?」
ようやくこちらを一瞥した南郷が、唇の端を動かす。
「そう怖い顔をするな、先生。きれいな顔立ちの人間がそういう表情をすると、なかなか凄みがある」
「もしかして賢吾さんを――」
「恩義ある〈親〉の一人息子を食らおうと思うほど、俺は外道じゃないし、思い上がってない。――この機会だ、あんたに提案がある」
南郷がいくぶん声を潜めたところで、再び強い風が吹き付けてくる。ふらりと和彦の体が揺れ、素早くポケットから手を出した南郷が支えてくる。間近で目が合うと、こう言われた。
「長嶺の本宅を出て、俺の家で暮らさないか、先生」
体を洗っていた手をふと止めていた。髪先から垂れた水滴が肩に落ち、その冷たさに和彦は我に返る。
さきほどの出来事にまだ動揺しているのだと、嫌でも認めざるをえなかった。
湖で、南郷から思いがけない提案をされたとき、まず頭に浮かんだのは、この男は何を企んでいるのだろうかということだった。ただ、意外すぎる提案だったことは確かで、慌てて南郷から離れようとした拍子に、和彦は凍った雪に足を取られ、その場で転んでしまった。
泥と雪に塗れ、すぐには動けなかったところを、南郷に腕を掴まれて引っ張り起こされたのだ。おかげで話を続けるどころではなくなり、足を引きずるようにして別荘に引き返し、風呂場に放り込まれたというわけだ。
なぜ南郷が、長嶺の本宅を出て、自分の家で暮らさないかと言い出したのか、和彦には目的が見当もつかなかった。甘い理由などではないことは、はっきりしている。そもそも、和彦が承諾するはずがないと、南郷自身よくわかっているはずだ。
和彦を動揺させるための冗談か、もしくは、和彦の口から賢吾に伝わることを前提にした、露骨な挑発か――。
和彦はブルッと身を震わせる。さっさと体を洗って出るつもりだったが、水辺での立ち話のせいもあって、すっかり冷え切っている。風邪を引いては堪らないと、手早く泡を洗い流してから湯舟に入る。
「疲れた……」
じんわりと体が温まってきたところでそう呟いた和彦は、頭の先まで湯に浸かる。再び湯から顔を出したとき、自分は別の場所にいないだろうかと、子供じみた妄想をする。もちろん、そんなことが起こるはずもなかった。
和彦は濡れた髪を掻き上げて、石造りの浴槽の縁に腕をかける。こうしていると、長嶺の男たち――賢吾と千尋とここで〈戯れた〉光景が蘇る。
楽しかった思い出にすがりつくのは、心細いからに他ならない。
早く帰りたいと、顔を伏せかけたそのとき、風呂場の戸が開く音がした。和彦は反射的に大きな水音を立てて立ち上がる。今、ここに入ってくる人物は、たった一人しか思い浮かばなかった。
案の定、全裸の南郷が悠然と浴場に入ってくる。
筋骨隆々とした浅黒い体を目の当りにするのは初めてではないが、それでも圧倒されるのは、迸らんばかりに漲る生気と凶暴性のせいだ。しかし、一糸まとわぬ姿で南郷が見せつけてくるのは、己の体というより、引き締まった右脇腹から下腹部にかけて影のよう張り付いている、生々しい百足だろう。
すぐには言葉が出てこず、立ち尽くしていた和彦だが、南郷が風呂桶を取り上げたところでハッとする。
「……どうして、入ってきたんですか」
呟くように洩らすと、南郷は大仰に眉を動かす。
「これだけ広い風呂だ。いくら俺がでかいとは言っても、二人で入れる余裕はある」
「そういうことじゃなくて――……」
「泥だらけになったあんたを引っ張って帰ってくるのに、俺も少々汚れたんだ。午後になったらこの別荘から引き揚げるから、身ぎれいにしておきたい」
話しながら屈んだ南郷が、勢いよく浴槽の湯を頭から被る。転んだ和彦とは違い、南郷はただ着替えればいいだけではないかと思ったが、指摘すべきはそんなことではない。
「引き揚げるって……、帰る、ということですよね」
濡れた顔で南郷がニヤリと笑いかけてくる。
「軟禁されるわけじゃないと知って、ほっとしたか、先生?」
和彦は少しずつ南郷から距離を取りつつ、浴槽から出るタイミングを計る。その間も南郷はかけ湯をしている。こちらを見てはいないが、和彦は努めて自然に振る舞おうとする。
しかし、浴槽内の階段に足をかけようとしたところで、絶妙のタイミングで南郷が切り出した。
「――あんたがひっくり返ったおかげで話すどころじゃなくなったが、さっき俺が言ったこと、真剣に考えてくれ」
なんのことかと問い返す度胸はなかった。和彦は眉をひそめて、吐き出すように告げる。
「あなたと暮らすなんて、ぼくが受け入れるはずがないでしょうっ……」
「総和会と長嶺組の融和のためだとしたら?」
ようやくこちらを一瞥した南郷が、唇の端を動かす。
「そう怖い顔をするな、先生。きれいな顔立ちの人間がそういう表情をすると、なかなか凄みがある」
「もしかして賢吾さんを――」
「恩義ある〈親〉の一人息子を食らおうと思うほど、俺は外道じゃないし、思い上がってない。――この機会だ、あんたに提案がある」
南郷がいくぶん声を潜めたところで、再び強い風が吹き付けてくる。ふらりと和彦の体が揺れ、素早くポケットから手を出した南郷が支えてくる。間近で目が合うと、こう言われた。
「長嶺の本宅を出て、俺の家で暮らさないか、先生」
体を洗っていた手をふと止めていた。髪先から垂れた水滴が肩に落ち、その冷たさに和彦は我に返る。
さきほどの出来事にまだ動揺しているのだと、嫌でも認めざるをえなかった。
湖で、南郷から思いがけない提案をされたとき、まず頭に浮かんだのは、この男は何を企んでいるのだろうかということだった。ただ、意外すぎる提案だったことは確かで、慌てて南郷から離れようとした拍子に、和彦は凍った雪に足を取られ、その場で転んでしまった。
泥と雪に塗れ、すぐには動けなかったところを、南郷に腕を掴まれて引っ張り起こされたのだ。おかげで話を続けるどころではなくなり、足を引きずるようにして別荘に引き返し、風呂場に放り込まれたというわけだ。
なぜ南郷が、長嶺の本宅を出て、自分の家で暮らさないかと言い出したのか、和彦には目的が見当もつかなかった。甘い理由などではないことは、はっきりしている。そもそも、和彦が承諾するはずがないと、南郷自身よくわかっているはずだ。
和彦を動揺させるための冗談か、もしくは、和彦の口から賢吾に伝わることを前提にした、露骨な挑発か――。
和彦はブルッと身を震わせる。さっさと体を洗って出るつもりだったが、水辺での立ち話のせいもあって、すっかり冷え切っている。風邪を引いては堪らないと、手早く泡を洗い流してから湯舟に入る。
「疲れた……」
じんわりと体が温まってきたところでそう呟いた和彦は、頭の先まで湯に浸かる。再び湯から顔を出したとき、自分は別の場所にいないだろうかと、子供じみた妄想をする。もちろん、そんなことが起こるはずもなかった。
和彦は濡れた髪を掻き上げて、石造りの浴槽の縁に腕をかける。こうしていると、長嶺の男たち――賢吾と千尋とここで〈戯れた〉光景が蘇る。
楽しかった思い出にすがりつくのは、心細いからに他ならない。
早く帰りたいと、顔を伏せかけたそのとき、風呂場の戸が開く音がした。和彦は反射的に大きな水音を立てて立ち上がる。今、ここに入ってくる人物は、たった一人しか思い浮かばなかった。
案の定、全裸の南郷が悠然と浴場に入ってくる。
筋骨隆々とした浅黒い体を目の当りにするのは初めてではないが、それでも圧倒されるのは、迸らんばかりに漲る生気と凶暴性のせいだ。しかし、一糸まとわぬ姿で南郷が見せつけてくるのは、己の体というより、引き締まった右脇腹から下腹部にかけて影のよう張り付いている、生々しい百足だろう。
すぐには言葉が出てこず、立ち尽くしていた和彦だが、南郷が風呂桶を取り上げたところでハッとする。
「……どうして、入ってきたんですか」
呟くように洩らすと、南郷は大仰に眉を動かす。
「これだけ広い風呂だ。いくら俺がでかいとは言っても、二人で入れる余裕はある」
「そういうことじゃなくて――……」
「泥だらけになったあんたを引っ張って帰ってくるのに、俺も少々汚れたんだ。午後になったらこの別荘から引き揚げるから、身ぎれいにしておきたい」
話しながら屈んだ南郷が、勢いよく浴槽の湯を頭から被る。転んだ和彦とは違い、南郷はただ着替えればいいだけではないかと思ったが、指摘すべきはそんなことではない。
「引き揚げるって……、帰る、ということですよね」
濡れた顔で南郷がニヤリと笑いかけてくる。
「軟禁されるわけじゃないと知って、ほっとしたか、先生?」
和彦は少しずつ南郷から距離を取りつつ、浴槽から出るタイミングを計る。その間も南郷はかけ湯をしている。こちらを見てはいないが、和彦は努めて自然に振る舞おうとする。
しかし、浴槽内の階段に足をかけようとしたところで、絶妙のタイミングで南郷が切り出した。
「――あんたがひっくり返ったおかげで話すどころじゃなくなったが、さっき俺が言ったこと、真剣に考えてくれ」
なんのことかと問い返す度胸はなかった。和彦は眉をひそめて、吐き出すように告げる。
「あなたと暮らすなんて、ぼくが受け入れるはずがないでしょうっ……」
「総和会と長嶺組の融和のためだとしたら?」
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