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第43話
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粗野で暴力的な空気をまとっている南郷だが、ときには人を煙に巻くような、皮肉めいていたり、迂遠な物言いには知性が感じられるということを。
和彦がつい聞き入ってしまうのは、そのせいだ。〈言葉〉をよく知っている男なのだ。
南郷が読書家だというのは、世間話程度に賢吾から聞かされてはいるし、総和会の中でも口の端に上ることがあった。書厨と言われるような、ただ本を読むだけでなんの知識も得ない人間ではないのだと、南郷の話を聞いていれば察することができる。
いかにも筋者らしい見た目は他人を威圧する武器になるだろうが、南郷は身の内に、狂暴性とは別の、切れ味鋭い武器を持っているのかもしれない。
「……会長と、何を企んでいるんですか」
坂道の勾配は大したことはないが、水たまりを避け、泥に足を取られまいと踏ん張るうちに、息が上がる。それでも和彦は問いかけずにはいられなかった。
「ひどい言いようだ。この世界、何も企んでいない奴なんていないだろう。長嶺組長だって例外じゃない」
「答える気はないということですか……」
「まだ、な。別の質問なら、答えられるかもしれない」
ここでようやく道が開け、見覚えのある景色が目の前に広がる。千尋と訪れたとき同様、湖に氷が張っており、岸にはうっすらと雪が残っている。人が歩いた痕跡はなく、さすがにこの寒さでは、水辺で散歩をしようなどという酔狂な人間は、和彦たち以外にいなかったようだ。
湖を渡ってくる風は突き刺さるように冷たく、和彦は首を竦める。すると、肩に南郷の腕が回された。反射的に体を硬くし、睨みつける。
「触らないでください」
「誰も見てやしない。恥ずかしがらなくてもいいだろ、先生」
とぼける南郷は腕を離すどころか力を入れたため、やや強引に歩かされる。
突然のことに動揺していた和彦だが、寸前まで自分たちが何を話していたか思い出した。
「――……ぼくの役目は、なんですか」
「従順なオンナであること。俺たちの求めに逆らわず、協力してくれればいい」
「長嶺組長――賢吾さんへの嫌がらせのためですか?」
南郷は低く笑い声を洩らした。
「可愛らしい言い方だな、先生。『嫌がらせ』か……」
カッとした和彦は、南郷の腕をなんとか振り払い、数歩分距離を取る。その瞬間、ひときわ強い風が吹き、目も開けていられなかった。次に目を開けたとき、南郷が目の前に立ちはだかり、無感情な目で見下ろされていた。
無意識に後退ろうとして、腕を掴まれる。
「あんたは昨夜、俺のオンナになった」
「ぼくはっ……、そんなこと絶対に――」
「これからは、俺にも懐いてくれ」
嫌だと繰り返したところで、南郷は痛痒を感じないだろう。むしろ、ムキになる和彦の反応を楽しんでいるのだ。
和彦はギリッと奥歯を噛み締めたあと、ゆっくりと深呼吸をする。南郷に何か一撃を与えたいなどと、大それたことを考えたわけではない。ただ、わずかながらでも南郷に不愉快さを味わわせてやりたかった。
「――さっきからずっと、ぼくを口説いているつもりなんですか?」
さすがの南郷も虚をつかれたのか、驚いたように目を丸くしたあと、破顔した。
これは素の表情だなと、和彦は思った。
「あんたも大概、おもしろい人間だな。俺に対して怯えて、露骨に警戒して見せながら、そんなことを思ってたのか」
「ありえないからこそ……、聞いてみただけです。あなたが執着しているのは、賢吾さんですよね。だからぼくが気に食わない」
口にして、素手で百足に触れたようなおぞましさが全身を駆け巡る。次の瞬間には、肉食だという強靭なあごに噛まれる想像すらしていた。
和彦の肩に回していた腕を離し、南郷はマウンテンパーカーのポケットに両手を突っ込む。
「――……執着にもいろいろある。憎んでいるのか、妬んでいるのか、思慕しているのか。それとも、ただ相手に、自分の存在を認めてほしいだけなのか。先生、あんたの目からは、俺はどれに見える?」
湖を見つめる南郷の横顔は、静かな表情を湛えながらも、気圧されるほどの鋭さがあった。ここで和彦は直感する。
賢吾の存在は、南郷の精神の柔らかな部分に入り込んでいる。その柔らかな部分にあるのは、底なしの闇だ。触れてみろと示しながら、触れた途端に呑み込み、引きずり込んでくる。
南郷は今、和彦を試しているのだ。
「何も……。ぼくには、南郷さんのことは何もわかりません。知りたくも、ないですし」
「つれないな。俺のオンナになったというのに。――俺の機嫌を取っておいて損はない。総和会の中で、確かに長嶺組は発言力も存在感もあるが、個人では、長嶺組長より、俺のほうが上だ」
今のところは、と慎重に南郷は付け加える。
和彦がつい聞き入ってしまうのは、そのせいだ。〈言葉〉をよく知っている男なのだ。
南郷が読書家だというのは、世間話程度に賢吾から聞かされてはいるし、総和会の中でも口の端に上ることがあった。書厨と言われるような、ただ本を読むだけでなんの知識も得ない人間ではないのだと、南郷の話を聞いていれば察することができる。
いかにも筋者らしい見た目は他人を威圧する武器になるだろうが、南郷は身の内に、狂暴性とは別の、切れ味鋭い武器を持っているのかもしれない。
「……会長と、何を企んでいるんですか」
坂道の勾配は大したことはないが、水たまりを避け、泥に足を取られまいと踏ん張るうちに、息が上がる。それでも和彦は問いかけずにはいられなかった。
「ひどい言いようだ。この世界、何も企んでいない奴なんていないだろう。長嶺組長だって例外じゃない」
「答える気はないということですか……」
「まだ、な。別の質問なら、答えられるかもしれない」
ここでようやく道が開け、見覚えのある景色が目の前に広がる。千尋と訪れたとき同様、湖に氷が張っており、岸にはうっすらと雪が残っている。人が歩いた痕跡はなく、さすがにこの寒さでは、水辺で散歩をしようなどという酔狂な人間は、和彦たち以外にいなかったようだ。
湖を渡ってくる風は突き刺さるように冷たく、和彦は首を竦める。すると、肩に南郷の腕が回された。反射的に体を硬くし、睨みつける。
「触らないでください」
「誰も見てやしない。恥ずかしがらなくてもいいだろ、先生」
とぼける南郷は腕を離すどころか力を入れたため、やや強引に歩かされる。
突然のことに動揺していた和彦だが、寸前まで自分たちが何を話していたか思い出した。
「――……ぼくの役目は、なんですか」
「従順なオンナであること。俺たちの求めに逆らわず、協力してくれればいい」
「長嶺組長――賢吾さんへの嫌がらせのためですか?」
南郷は低く笑い声を洩らした。
「可愛らしい言い方だな、先生。『嫌がらせ』か……」
カッとした和彦は、南郷の腕をなんとか振り払い、数歩分距離を取る。その瞬間、ひときわ強い風が吹き、目も開けていられなかった。次に目を開けたとき、南郷が目の前に立ちはだかり、無感情な目で見下ろされていた。
無意識に後退ろうとして、腕を掴まれる。
「あんたは昨夜、俺のオンナになった」
「ぼくはっ……、そんなこと絶対に――」
「これからは、俺にも懐いてくれ」
嫌だと繰り返したところで、南郷は痛痒を感じないだろう。むしろ、ムキになる和彦の反応を楽しんでいるのだ。
和彦はギリッと奥歯を噛み締めたあと、ゆっくりと深呼吸をする。南郷に何か一撃を与えたいなどと、大それたことを考えたわけではない。ただ、わずかながらでも南郷に不愉快さを味わわせてやりたかった。
「――さっきからずっと、ぼくを口説いているつもりなんですか?」
さすがの南郷も虚をつかれたのか、驚いたように目を丸くしたあと、破顔した。
これは素の表情だなと、和彦は思った。
「あんたも大概、おもしろい人間だな。俺に対して怯えて、露骨に警戒して見せながら、そんなことを思ってたのか」
「ありえないからこそ……、聞いてみただけです。あなたが執着しているのは、賢吾さんですよね。だからぼくが気に食わない」
口にして、素手で百足に触れたようなおぞましさが全身を駆け巡る。次の瞬間には、肉食だという強靭なあごに噛まれる想像すらしていた。
和彦の肩に回していた腕を離し、南郷はマウンテンパーカーのポケットに両手を突っ込む。
「――……執着にもいろいろある。憎んでいるのか、妬んでいるのか、思慕しているのか。それとも、ただ相手に、自分の存在を認めてほしいだけなのか。先生、あんたの目からは、俺はどれに見える?」
湖を見つめる南郷の横顔は、静かな表情を湛えながらも、気圧されるほどの鋭さがあった。ここで和彦は直感する。
賢吾の存在は、南郷の精神の柔らかな部分に入り込んでいる。その柔らかな部分にあるのは、底なしの闇だ。触れてみろと示しながら、触れた途端に呑み込み、引きずり込んでくる。
南郷は今、和彦を試しているのだ。
「何も……。ぼくには、南郷さんのことは何もわかりません。知りたくも、ないですし」
「つれないな。俺のオンナになったというのに。――俺の機嫌を取っておいて損はない。総和会の中で、確かに長嶺組は発言力も存在感もあるが、個人では、長嶺組長より、俺のほうが上だ」
今のところは、と慎重に南郷は付け加える。
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