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第43話
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「ぼくに、長嶺の男たちの側にいてほしいと言いながら、どうして、南郷さんと……」
「あんたが、その長嶺の男たちにとって、大事で可愛いかけがえのないオンナだからだ」
会話が堂々巡りに陥りそうになっているのを察し、和彦は強い苛立ちを表に出す。守光は肝心なことを誤魔化そうとしているのではないかとすら考え始めていた。
「――賢吾の大事なものが欲しかったそうだ」
和彦は数秒息を詰めたあと、ゆっくりと目を見開く。ぽんっと投げて寄越された守光の言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
「自分とは何もかもが違う特別な男と、同じものを手にしてみたいと……、そう、南郷は言っていた。わしが、何か欲しいものはないかと聞いたときに」
「それが、ぼくだと……?」
「ああ。あんたをわしのオンナにした時点で、南郷の希望を叶えることはできたが、それではあまりに情緒がない。だから少し無茶もしたが、あんたを南郷という男に慣らしていった。あんたの持つ性質なら、情を抱いて南郷を受け入れてくれるかもしれないと期待をしていたが、南郷のほうがよくわかっていたよ。あんたはそうはならないだろうと。ただ、だからこそ、互いに溺れることはないだろうと言われて、なるほどと納得した」
穏やかな口調で、この人は一体何を言っているのだろうかと、和彦は瞬きも忘れて守光を凝視する。自覚はなかったが、足が小刻みに震えていた。もちろん、寒さからではない。
自分の隣に座っているのは人の皮を被った怪物だと実感していた。
「できることならもっと時間をかけて様子を見たかったが、あんたが佐伯家に里帰りすることになって、予定が変わった。あんたには、何があっても年明けにはこちらに戻ってきてもらわねばならん」
和彦は自分の膝をぐっと押さえつけてから、頭に浮かんだ疑問を口にした。
「あんなことをされて……、ぼくが戻ってくると考えているんですか?」
「仮にあんたが戻らないとして、どんな事態が起こり得るか、想像を働かせてみるといい。佐伯俊哉という男が、わざわざわしと連絡を取り合っていたのは、相応の理由がある。わし相手なら、穏当に取引ができると理解しているからだ。互いに、情に流されることのない生き物だと踏まえたうえでな」
逃げることはできないと暗に仄めかされ、そこが和彦の気持ちの限界だった。すべてを知らなければならないという義務感すらも上回る、怪物に対する恐れから、反射的に立ち上がる。このとき、手元にあった毛布を掴んでいた。
「ここにはもう、居たくありませんっ……」
「では、どうするのかね」
穏やかに問われ、和彦は言葉に詰まる。だが、行動には移した。毛布を小脇に抱えたまま足早に玄関に向かうと、たまたま置いてあったサンダルを履いて外に飛び出す。
切りつけてくるような寒風に一瞬息が詰まった。スウェットの上下だけを着た体は無防備で、あっという間に手足の先まで凍りそうになる。和彦は歩きながら、抱えた毛布を体に巻き付ける。
無謀なことをしているとわかってはいるが、あの場を逃げ出さずにはいられなかった。このままでは守光の野心に食らい尽くされてしまうと、本能的に悟ったからだ。
せめて、抵抗の意思だけでも示さなければ――。
そんな和彦の想いは、しかしすぐに揺らぐことになる。
午前中、南郷の運転する車で通った道は、今は真っ暗だった。遠くにぽつんと街灯の明かりが見えるが、だからこそ別荘周囲の暗さが際立つ。足元さえよく見えないのだ。
慎重に歩き出しはしたものの、まだ残っている雪に足を取られそうになる。こんな状態で人家がある場所まで行けるはずもないが、前に進むしか和彦にはなかった。
サンダル履きで剥き出しとなっている爪先はすでに感覚がなくなっている。息をするたびに冷気が肺に突き刺さり、もうすでに息苦しい。ふらついた拍子に、道の脇に転がり落ちそうになり、咄嗟に木にすがりつく。地面に落ちた毛布を拾い上げる気力もなくなっていた。
このままではすぐに凍死するのではないかと、ふとそんなことが脳裏を掠める。思考まで凍り付きそうになっており、それもいいではないかと和彦が投げ遣りになった瞬間、まるで戒めるように、賢吾の顔が思い浮かんだ。
賢吾だけではない。自分に情を注いでくれた男たちの顔が次々と。
「ふっ……」
嗚咽を一つこぼし、和彦はその場に立ち尽くす。もう、前にも進めなくなっていた。
耳元で聞こえる風の音に交じって、背後から近づいてくる音があった。半ば確信して振り返ると、懐中電灯らしき明かりがちらちらと揺れながら、こちらに近づいていた。しかも複数。
明かりに目を射抜かれて顔を背けていると、足音が側までやってくる。
「そんな格好でいると、風邪をひきますよ」
声をかけてきたのは吾川だった。その後ろに二人の男たちがついているが、南郷はいない。
男の一人からダウンジャケットを受け取った吾川が、和彦の肩にかけてくれる。
「さあ、別荘に戻りましょう。すぐに、温かい飲み物を準備しますね。落ち着いたら、部屋で休みましょう。やっぱりリビングだと、ストーブをつけていても寒いですから。ああ、飲み物と一緒に、鎮痛剤も出しておきますから、飲んでください」
子供に対するような優しい声音で話しかけてきながら、吾川が肩を抱いてくる。促されるまま和彦は来た道を引き返していた。この状況で逃げ出すことは不可能で、気持ちも折れてしまった。
「……会長は、怒っていましたか……?」
ゆっくりと歩きながら和彦が尋ねると、吾川は首を横に振る。
「まさか。あなたが怪我でもするのではないかと、心配されてました。だからわたしたちに、追いかけるよう言われたんです」
その言葉はきっとウソではないだろう。和彦は、守光にとって必要な存在であり、目的のために失うわけにはいかないのだ。
「目的……」
和彦は小さな声で呟くと、さきほどの守光との会話を頭の中で反芻する。
もう一度、守光に話を聞かなくては――。
そう思いはするのだが、足を引きずるようにして別荘まで戻ってきたときには、和彦の意識は朦朧としていた。
男たちに抱えられてリビングを通ったとき、うっすらと開いた目で確認したが、そこにはすでに守光の姿はなかった。
「あんたが、その長嶺の男たちにとって、大事で可愛いかけがえのないオンナだからだ」
会話が堂々巡りに陥りそうになっているのを察し、和彦は強い苛立ちを表に出す。守光は肝心なことを誤魔化そうとしているのではないかとすら考え始めていた。
「――賢吾の大事なものが欲しかったそうだ」
和彦は数秒息を詰めたあと、ゆっくりと目を見開く。ぽんっと投げて寄越された守光の言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
「自分とは何もかもが違う特別な男と、同じものを手にしてみたいと……、そう、南郷は言っていた。わしが、何か欲しいものはないかと聞いたときに」
「それが、ぼくだと……?」
「ああ。あんたをわしのオンナにした時点で、南郷の希望を叶えることはできたが、それではあまりに情緒がない。だから少し無茶もしたが、あんたを南郷という男に慣らしていった。あんたの持つ性質なら、情を抱いて南郷を受け入れてくれるかもしれないと期待をしていたが、南郷のほうがよくわかっていたよ。あんたはそうはならないだろうと。ただ、だからこそ、互いに溺れることはないだろうと言われて、なるほどと納得した」
穏やかな口調で、この人は一体何を言っているのだろうかと、和彦は瞬きも忘れて守光を凝視する。自覚はなかったが、足が小刻みに震えていた。もちろん、寒さからではない。
自分の隣に座っているのは人の皮を被った怪物だと実感していた。
「できることならもっと時間をかけて様子を見たかったが、あんたが佐伯家に里帰りすることになって、予定が変わった。あんたには、何があっても年明けにはこちらに戻ってきてもらわねばならん」
和彦は自分の膝をぐっと押さえつけてから、頭に浮かんだ疑問を口にした。
「あんなことをされて……、ぼくが戻ってくると考えているんですか?」
「仮にあんたが戻らないとして、どんな事態が起こり得るか、想像を働かせてみるといい。佐伯俊哉という男が、わざわざわしと連絡を取り合っていたのは、相応の理由がある。わし相手なら、穏当に取引ができると理解しているからだ。互いに、情に流されることのない生き物だと踏まえたうえでな」
逃げることはできないと暗に仄めかされ、そこが和彦の気持ちの限界だった。すべてを知らなければならないという義務感すらも上回る、怪物に対する恐れから、反射的に立ち上がる。このとき、手元にあった毛布を掴んでいた。
「ここにはもう、居たくありませんっ……」
「では、どうするのかね」
穏やかに問われ、和彦は言葉に詰まる。だが、行動には移した。毛布を小脇に抱えたまま足早に玄関に向かうと、たまたま置いてあったサンダルを履いて外に飛び出す。
切りつけてくるような寒風に一瞬息が詰まった。スウェットの上下だけを着た体は無防備で、あっという間に手足の先まで凍りそうになる。和彦は歩きながら、抱えた毛布を体に巻き付ける。
無謀なことをしているとわかってはいるが、あの場を逃げ出さずにはいられなかった。このままでは守光の野心に食らい尽くされてしまうと、本能的に悟ったからだ。
せめて、抵抗の意思だけでも示さなければ――。
そんな和彦の想いは、しかしすぐに揺らぐことになる。
午前中、南郷の運転する車で通った道は、今は真っ暗だった。遠くにぽつんと街灯の明かりが見えるが、だからこそ別荘周囲の暗さが際立つ。足元さえよく見えないのだ。
慎重に歩き出しはしたものの、まだ残っている雪に足を取られそうになる。こんな状態で人家がある場所まで行けるはずもないが、前に進むしか和彦にはなかった。
サンダル履きで剥き出しとなっている爪先はすでに感覚がなくなっている。息をするたびに冷気が肺に突き刺さり、もうすでに息苦しい。ふらついた拍子に、道の脇に転がり落ちそうになり、咄嗟に木にすがりつく。地面に落ちた毛布を拾い上げる気力もなくなっていた。
このままではすぐに凍死するのではないかと、ふとそんなことが脳裏を掠める。思考まで凍り付きそうになっており、それもいいではないかと和彦が投げ遣りになった瞬間、まるで戒めるように、賢吾の顔が思い浮かんだ。
賢吾だけではない。自分に情を注いでくれた男たちの顔が次々と。
「ふっ……」
嗚咽を一つこぼし、和彦はその場に立ち尽くす。もう、前にも進めなくなっていた。
耳元で聞こえる風の音に交じって、背後から近づいてくる音があった。半ば確信して振り返ると、懐中電灯らしき明かりがちらちらと揺れながら、こちらに近づいていた。しかも複数。
明かりに目を射抜かれて顔を背けていると、足音が側までやってくる。
「そんな格好でいると、風邪をひきますよ」
声をかけてきたのは吾川だった。その後ろに二人の男たちがついているが、南郷はいない。
男の一人からダウンジャケットを受け取った吾川が、和彦の肩にかけてくれる。
「さあ、別荘に戻りましょう。すぐに、温かい飲み物を準備しますね。落ち着いたら、部屋で休みましょう。やっぱりリビングだと、ストーブをつけていても寒いですから。ああ、飲み物と一緒に、鎮痛剤も出しておきますから、飲んでください」
子供に対するような優しい声音で話しかけてきながら、吾川が肩を抱いてくる。促されるまま和彦は来た道を引き返していた。この状況で逃げ出すことは不可能で、気持ちも折れてしまった。
「……会長は、怒っていましたか……?」
ゆっくりと歩きながら和彦が尋ねると、吾川は首を横に振る。
「まさか。あなたが怪我でもするのではないかと、心配されてました。だからわたしたちに、追いかけるよう言われたんです」
その言葉はきっとウソではないだろう。和彦は、守光にとって必要な存在であり、目的のために失うわけにはいかないのだ。
「目的……」
和彦は小さな声で呟くと、さきほどの守光との会話を頭の中で反芻する。
もう一度、守光に話を聞かなくては――。
そう思いはするのだが、足を引きずるようにして別荘まで戻ってきたときには、和彦の意識は朦朧としていた。
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