血と束縛と

北川とも

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第43話

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「――……何を設置したんですか?」
「電気柵。見たことなくても、言葉から想像はできるだろう。張った電線に電気が通ってる。本来は獣を驚かせて追い払うものだが、ちょっと弄って、人間が怪我するレベルの電圧にしてあるから、迂闊に近づくなよ、先生」
 脅しだと疑うには、目の前にいる男はあまりに物騒だ。ただ皮肉なことに、そんな男の話を聞いていくうちに、和彦が把握しているある一つの情報が、今のこの状況と結びついていく。
 情報とは、一週間ほど前に中嶋からもたらされたものだ。南郷が隊員たちに行き先も告げず、何日か姿を見せていないと聞かされたとき、和彦は必然的に、守光から指示を受けて動いているのだろうと思った。それがまさか、自分に関わるものだとまでは、思い至らなかったが。
「今はここに、余計なものは近づけたくないし、騒ぎを起こしたくない。そのための準備だ。……久しぶりに泥に塗れる仕事をして、なかなか楽しかった」
「そう、ですか……」
 応じた和彦の声は微かに震えを帯びていた。それを南郷に知られまいと、低く抑えた口調で続ける。
「寒いので、中に戻ります」
 足早に南郷の傍らを通り過ぎようとして、腕を掴まれた。和彦は咄嗟に怯えた表情を向け、南郷は意味ありげに目を眇める。
 数十秒もの間、どちらも身じろぎをせず、言葉すら発しなかった。異様な空気に和彦は瞬く間に呑まれてしまったのだが、南郷のほうは相変わらず何を考えているのかうかがわせない。
 寒さで歯が鳴る。それを恥ずかしいと思う余裕すら、もう和彦にはなかった。
「……南郷さん、離してください」
「あんたを追い立てている獣は、誰だ?」
「えっ」
「俺か、オヤジさんか。佐伯家の人間か、里見という男か。それとも、長嶺組長か」
「何を、言って……」
 和彦は腕を引こうとするが、ダウンジャケットの上からがっちりと南郷の指が食い込んでいる。
「追い立てられるあんたは、実にいい。弱々しく青ざめて、それでも精一杯に気丈に振る舞って、持って生まれた品性ってものがよく出てる。あんたの弱さは、なぜだか無様には映らない。それどころか――」
 南郷の大きな体がずいっと迫ってくる。その勢いに圧されてよろめいた和彦だが、倒れ込んだりはしなかった。南郷のもう片方の手が、無造作に首の後ろにかかったからだ。動けなくなった和彦を、南郷はせせら笑った。
「あんたを捕まえるのは容易いな」
 ダメだと頭ではわかっていながら、屈辱に耐え切れず鋭い視線を向ける。南郷を刺激するのは、それで十分だった。
「――……あんたにその顔をさせたくて、俺は意地悪をしたくなるんだ。だから俺は悪くない」
 身勝手な自分の言い分がおもしろいのか、低く笑い声を洩らしながら南郷が顔を寄せてきた。
 獲物をいたぶる暗い愉悦を湛えた目を間近に見てしまい、射竦められた和彦は瞬きもできない。喰われる、と思ったとき、熱い舌にベロリと唇を舐められた。何が起こったか悟る前に総毛立ち、短く声を発する。それが悲鳴となる前に、南郷に強引に唇を塞がれた。
 いきなり痛いほどきつく唇を吸われながら、掴まれた首に太い指が食い込む。首の骨をへし折られるのではないかという怯えが、嫌悪感を上回った。
 熱っぽく何度も吸われているうちに、引き結んでいた唇が緩んでくる。強靭な歯で上唇と下唇を交互に甘噛みされ、さらに舌を口腔に押し込まれそうになる。ここで我に返った和彦が必死に身を捩ろうとすると、おもしろがるように南郷に言われた。
「いまさら嫌がることもないだろ、先生。もう慣れたんじゃないか。俺とのキスに」
「ふざけないでくださいっ……。あなたがここにいるんなら、ぼくは帰ります」
 ふん、と鼻を鳴らした南郷が、残酷な笑みを口元に湛える。
「なら、部屋で続きを――」
「違います。タクシーを呼んで、自宅に帰るんです」
「自分で無茶を言っているとわかっているだろ、先生。この道路状況でタクシーは来てくれないし、今何時だと思ってる。そもそも、どうやってタクシーを呼ぶ?」
「……歩いて、近くの人家まで……」
「だったら、タクシーを呼ぶより、長嶺組長に助けを求めたほうが早いな」
 それはできない、と即座に心の中で答える。長嶺組の護衛を出し抜く形で、総和会本部に出向く計画を立てたのは、賢吾が知る前に話をしたかったからだ。しかしその計画は大きく狂い、和彦はこうして別荘に連れてこられた。結果として、守光とゆっくり話せる状況にはなれたが、賢吾に多大な心配をかけるのは本意ではなかった。

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