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第43話
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しっかりダウンジャケットを着込んだ和彦は、静かに部屋のドアを開け、廊下の様子をうかがう。もともと騒々しさとは無縁の場所ではあるのだが、深夜ともなり、二階に人の気配は感じられなかった。足音を殺して廊下に出てしまうと、あとは開き直るだけだ。
素早く一階に下りると、非常灯だけが点るエントランスホールを駆け抜けて、玄関から自分の靴を取ってくる。この別荘の造りはほぼ頭に入っており、最短距離で庭に出るためダイニングへと移動した。誰かが使っていた形跡がテーブルの上などに残っているが、人はいない。和彦はこの隙にと、キッチン脇にある裏口から庭へと出ていた。
慎重な足取りで歩きながら、ダウンジャケットの前を掻き合わせる。雪を踏みしめるサクッ、サクッという微かな音すら聞こえるほど、静かだった。まだ起きている者もいるだろうが、別荘から聞こえてくる物音はなく、皆が息を潜めているようだ。
この瞬間、強烈な孤独感に襲われた和彦は、臆病な小動物のような動きで庭を見回していた。ここから表の通りに出られないかと考えたのだ。
いや、出ること自体は不可能ではない。ただし、何重もの鉄条網を潜り抜け、明かりもない暗く細い道を通っていかなければならない。しかも今は雪が積もっており、足を取られるのは必至だ。深夜にやるべき冒険ではないだろう。
頭では理解しているが、未練がましく広い庭に足跡を残していく。そうしているうちに、また雪が落ち始める。立ち止まると、感覚を奪う寒さが爪先から這い上がってきた。かまわず和彦は空を仰ぎ、落ちてくる雪を顔で受ける。
「――こんな時間に雪遊びか、先生」
前触れもなく揶揄するような声をかけられ、一瞬呼吸を止める。次の瞬間、弾かれたように声がしたほうを見ると、いつからそこにいたのか、マウンテンパーカーを着込んだ南郷が立っていた。
なぜ、という言葉がまっさきに頭に浮かぶ。別荘に到着したとき、南郷の姿はなかった。移動の車列にも加わっていなかったため、少なくとも今夜は、南郷はここにはいないと思ったのだ。しかし現実は――。
いつだって南郷は、いてほしくない場面で登場する。まるで、和彦の驚きを楽しむかのように。
声もなく警戒する和彦に、南郷は大仰に肩を竦めて見せる。
「これから降りが強くなりそうだ。もう中に戻ってくれ。こんな天気でも、一応侵入者の警戒をしなきゃいけないんだ。センサーのスイッチを入れるから、うろうろしていると、アラームが鳴り響くぞ」
「……南郷さんが、どうしてここに……」
「オヤジさんがここに滞在するなら、警備も俺の仕事だからな。寝る前に最後の見回りだ」
「でも、さっきは――」
激しくうろたえる和彦の反応に満足したのか、歯を剥き出すようにして南郷が笑う。寒さ以外のもので、和彦はゾッとした。
粗野さや下劣さを仮面のように身につけるこの男の脇腹に、どれほどおぞましい生き物が棲みついているか、思い出す。その生き物こそが南郷の本質を表していると思うと、ひたすら不気味だった。南郷はとにかく得体が知れない。
「簡単な話だ。俺は先乗りして、別館に待機していた。あんたの世話を、他の奴に任せるわけにはいかない。知ってるだろ? 俺が見かけによらず、世話好きだと」
空々しい台詞に対して、和彦は露骨に嫌悪感を示す。つれないな、と小さくぼやいた南郷が、ふと視線を地面に落とした。そして皮肉っぽく唇を歪める。
「雪に残るあんたの足跡……、まるで、追い立てられて逃げ惑うウサギの足跡だ」
「そんな光景、ぼくは見たことありません……」
「俺はある。前にあんたに、俺が田舎暮らしだったことは話しただろ。そこは、雪深い場所だったんだ。俺を引き取ったジジイが狩猟をやっていて、猟犬を飼ってた。獲物を追うためだけに育てられた可愛げのない犬で、俺には尻尾も振らなかった。そいつが、ウサギを見つけ出すのが上手かったんだ。追われたウサギは、こんな足跡を残してた」
南郷が一歩を踏み出し、和彦の残した足跡の上に立つ。触れられたわけでもないのに、ひどく不快な感覚に襲われた。
何がおもしろいのか南郷は、そうやって和彦の足跡を消しながら、代わりに己の大きな足跡を残していく。どこか児戯めいた行動から、和彦は目が離せなかった。
「冬になると、この庭に獣が入り込んでくる。餌がなくて、庭に残っている球根やら、落ちている木の実を狙っているんだ。いままでは鉄条網で防いでいたんだが、それも限界で、つい何日か前、あるものを設置した。獣が入れるなら、人間も入れるってことだからな。守りは厳重にしておかないと」
南郷が、建物からの明かりも届かない庭の奥へと目を向ける。まさにたった今、抜け出せるのではないかと和彦が考えていた場所だ。
素早く一階に下りると、非常灯だけが点るエントランスホールを駆け抜けて、玄関から自分の靴を取ってくる。この別荘の造りはほぼ頭に入っており、最短距離で庭に出るためダイニングへと移動した。誰かが使っていた形跡がテーブルの上などに残っているが、人はいない。和彦はこの隙にと、キッチン脇にある裏口から庭へと出ていた。
慎重な足取りで歩きながら、ダウンジャケットの前を掻き合わせる。雪を踏みしめるサクッ、サクッという微かな音すら聞こえるほど、静かだった。まだ起きている者もいるだろうが、別荘から聞こえてくる物音はなく、皆が息を潜めているようだ。
この瞬間、強烈な孤独感に襲われた和彦は、臆病な小動物のような動きで庭を見回していた。ここから表の通りに出られないかと考えたのだ。
いや、出ること自体は不可能ではない。ただし、何重もの鉄条網を潜り抜け、明かりもない暗く細い道を通っていかなければならない。しかも今は雪が積もっており、足を取られるのは必至だ。深夜にやるべき冒険ではないだろう。
頭では理解しているが、未練がましく広い庭に足跡を残していく。そうしているうちに、また雪が落ち始める。立ち止まると、感覚を奪う寒さが爪先から這い上がってきた。かまわず和彦は空を仰ぎ、落ちてくる雪を顔で受ける。
「――こんな時間に雪遊びか、先生」
前触れもなく揶揄するような声をかけられ、一瞬呼吸を止める。次の瞬間、弾かれたように声がしたほうを見ると、いつからそこにいたのか、マウンテンパーカーを着込んだ南郷が立っていた。
なぜ、という言葉がまっさきに頭に浮かぶ。別荘に到着したとき、南郷の姿はなかった。移動の車列にも加わっていなかったため、少なくとも今夜は、南郷はここにはいないと思ったのだ。しかし現実は――。
いつだって南郷は、いてほしくない場面で登場する。まるで、和彦の驚きを楽しむかのように。
声もなく警戒する和彦に、南郷は大仰に肩を竦めて見せる。
「これから降りが強くなりそうだ。もう中に戻ってくれ。こんな天気でも、一応侵入者の警戒をしなきゃいけないんだ。センサーのスイッチを入れるから、うろうろしていると、アラームが鳴り響くぞ」
「……南郷さんが、どうしてここに……」
「オヤジさんがここに滞在するなら、警備も俺の仕事だからな。寝る前に最後の見回りだ」
「でも、さっきは――」
激しくうろたえる和彦の反応に満足したのか、歯を剥き出すようにして南郷が笑う。寒さ以外のもので、和彦はゾッとした。
粗野さや下劣さを仮面のように身につけるこの男の脇腹に、どれほどおぞましい生き物が棲みついているか、思い出す。その生き物こそが南郷の本質を表していると思うと、ひたすら不気味だった。南郷はとにかく得体が知れない。
「簡単な話だ。俺は先乗りして、別館に待機していた。あんたの世話を、他の奴に任せるわけにはいかない。知ってるだろ? 俺が見かけによらず、世話好きだと」
空々しい台詞に対して、和彦は露骨に嫌悪感を示す。つれないな、と小さくぼやいた南郷が、ふと視線を地面に落とした。そして皮肉っぽく唇を歪める。
「雪に残るあんたの足跡……、まるで、追い立てられて逃げ惑うウサギの足跡だ」
「そんな光景、ぼくは見たことありません……」
「俺はある。前にあんたに、俺が田舎暮らしだったことは話しただろ。そこは、雪深い場所だったんだ。俺を引き取ったジジイが狩猟をやっていて、猟犬を飼ってた。獲物を追うためだけに育てられた可愛げのない犬で、俺には尻尾も振らなかった。そいつが、ウサギを見つけ出すのが上手かったんだ。追われたウサギは、こんな足跡を残してた」
南郷が一歩を踏み出し、和彦の残した足跡の上に立つ。触れられたわけでもないのに、ひどく不快な感覚に襲われた。
何がおもしろいのか南郷は、そうやって和彦の足跡を消しながら、代わりに己の大きな足跡を残していく。どこか児戯めいた行動から、和彦は目が離せなかった。
「冬になると、この庭に獣が入り込んでくる。餌がなくて、庭に残っている球根やら、落ちている木の実を狙っているんだ。いままでは鉄条網で防いでいたんだが、それも限界で、つい何日か前、あるものを設置した。獣が入れるなら、人間も入れるってことだからな。守りは厳重にしておかないと」
南郷が、建物からの明かりも届かない庭の奥へと目を向ける。まさにたった今、抜け出せるのではないかと和彦が考えていた場所だ。
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