血と束縛と

北川とも

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第43話

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 今日買ってきた目覚まし時計を箱から取り出したものの、ついぼんやりとしてしまう。
 ふと和彦は、自分の頬が火照っていることに気づき、てのひらを押し当てた。入浴してからもうしばらく経っているし、体調が悪いというわけでもない。
 体の内で得体の知れない感情がのたうち回り、興奮に近い状態なのかもしれない。そう無理やり、自分を納得させておく。
 起床時間をセットしておこうと、もたつきながら操作をしていると、こちらに近づいてくる足音が耳に入る。大きな歩幅で、荒々しい足取りだ。初めて聞く足音ではあったが、誰であるかはすぐにわかった。
「――入るぞ」
 和彦が応じる間もなく障子が開き、賢吾が姿を現す。帰宅したばかりらしく、ワイシャツ姿だ。
 忙しいのだなと思ったあと、なぜ忙しいのかと考えて、ゾクリとした。吾川から言われた言葉が耳元に蘇る。
 後ろ手に障子を閉めた賢吾はじっとこちらを見つめたあと、和彦の手元に視線を向けた。
「今日買ってきたのか」
「……ああ」
「スマホも興味津々で眺めていたと聞いたぞ」
 やはり、しっかり観察されていたらしい。和彦は苦笑いで返すと、目覚まし時計を置く。
「宮森さんの甥っ子から、買ったらどうだと勧められているんだ」
「欲しいなら、いつでも準備してやる」
 和彦は首を横に振ってから、賢吾に問いかけた。
「ぼくに何か用か?」
「もう寝ているかと思ってな」
「それなのに、あんな、あんたらしくない足音を立ててやって来たのか」
 賢吾は一瞬、決まり悪そうな顔をしたあと、すでに延べられている布団に目を遣る。
「まだ寝ないのか?」
「もう、布団に入るつもりだった。目覚ましをセットしたら……」
「そうか。暖かくして寝ろ」
 ここで不自然な沈黙が訪れる。珍しく、賢吾が何か言い淀んでいるのだ。その理由には、薄々見当がついていた。
 和彦は、吾川から電話があったことを、誰にも知らせていない。帰りの車で一緒だった組員たちは、電話をきっかけに和彦の様子が一変したことを、当然賢吾に報告はしているだろう。おそらく賢吾は、電話の相手を知りたがっているはずだ。
 いつもであれば、余裕たっぷりの笑みを浮かべ、言葉で和彦を翻弄しながら、たやすく聞き出すのだろうが、今夜の賢吾は違う。
 二人はしばらく、欲しい答えを探り合うように見つめ合っていたが、先に目を逸らしたのは賢吾だった。
「……悪かったな。押し掛けて」
 賢吾が部屋を出て行こうとする気配を感じ、和彦は反射的に立ち上がる。勢いのまま、賢吾の腕にすがりついていた。
「賢吾っ……」
 すぐに後ろ髪を強く掴まれ、顔を上げさせられる。間近で見て、今の賢吾の目に潜むのは大蛇ではなく、ただの激情だと知る。
「どうした、和彦?」
 官能的なバリトンの響きに胸が疼く。
「……なんでも、ない……」
「だったら、俺が恋しくなったか」
 喉を鳴らして笑った賢吾の息遣いが、唇に触れる。それだけで和彦は小さく喘いでいた。賢吾は軽く目を瞠ってから、囁くように言った。
「可愛いオンナだ。――……大事で可愛い、俺のオンナ」
 後ろ髪を掴んでいた手が離れる。両腕でしっかりと抱き締められると、和彦もおずおずと賢吾の背に腕を回す。煙草を吸ったばかりなのか、いつもより強く匂いがする。そんなことを頭の片隅で思いながら、ゆっくりと唇を重ねた。
「キスだけ、な」
 優しく唇を啄まれながら賢吾に言われ、和彦は頷く。自ら求めて賢吾の唇に舌先を這わせると、あっさりと口腔に招き入れられた。きつく舌を吸われて足元が震える。賢吾にしがみついて体をすり寄せると、痛いほどに抱き締められた。
 唇と舌を貪り合いながら、賢吾の髪に指を差し込む。するとうなじを撫で上げられ、後ろ髪を今度は丁寧に梳かれる。和彦が洩らした声はすべて唇で吸い取られた。
 蛇のように残酷で執念深いが、一方で、溺れそうになるほどの情愛を注いでくれる、優しいひと
 和彦は、賢吾との濃厚な口づけを堪能しながら、ある覚悟をしっかりと胸に刻み付ける。
 自分のせいで、賢吾には何も失ってほしくはなかった。かつての満たされた生活を賢吾に奪われはしたが、そのことはもう、和彦にはどうでもいい。
 今、大事なのは――。




 クリニックのスタッフとの忘年会を兼ねた食事会は、ホテルのレストランでのディナービュッフェだった。
 早いうちからスタッフの一人が、評判のいいプランが今ならまだ予約が取れると話していたため、一任していたのだが、間違いなかったようだ。
 皿の上のローストビーフを眺めながら、素直に和彦は感心する。女性の多い職場なので、美味しい食事とデザートが食べ放題というのは何より魅力的だったのだろう。もちろん、中にはすでに、アルコールを飲んでほんのりと頬を上気させているスタッフもいる。
 ここはカクテルも女性好みのものが揃っているらしい。明日は土曜日でクリニックが休みということもあり、多少ハメを外しても心配ないようだ。
 一方の和彦は、ノンアルコールビールで口を湿らせていた。あまり食欲がないと思いながらも、スタッフたちの手前、何も手をつけないわけにはいかない。
 ローストビーフを一口食べると、なんとなく食欲が湧いてきた気がして、せっかくだからとラム肉も味わう。魚料理や自家製パンも美味しくて、結局、ノンアルコールビールでは物足りなくなり、シャンパンを頼んでしまう。
 イチゴの小さなショートケーキも一つ食べたところで、時間切れだった。二次会はどこに行くかと皆が盛り上がっている中、和彦は現金を入れた封筒を隣のスタッフにそっと差し出す。
「申し訳ないけど、ぼくはこれから用があるから、あとはスタッフだけで楽しんで。これは、二次会の支払いに使って」
 和彦は慌ただしくレストランを出ると、クロークに預けていたコートとアタッシェケースを受け取る。その足で、別館へと繋がる連絡口へと向かった。
 別館の正面玄関から外に出たとき、寒さも感じないほど緊張していた。
 少し歩道を歩いたところで、車のクラクションが短く鳴らされる。
 一台の車がスッと車道脇に停まり、それが、迎えを頼んでおいた〈総和会〉の車であることを視認した和彦は小走りで近づく。ドアを開け、車に乗り込もうとしたところで、硬直した。
 誰も乗っていないと思っていた後部座席に、すでに人の姿があったからだ。しかも――。
「……どうして……」
 ようやく和彦が声を絞り出すと、悠然とシートに身を預けたまま、守光が薄く笑んだ。

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