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第43話
(9)
しおりを挟む今日買ってきた目覚まし時計を箱から取り出したものの、ついぼんやりとしてしまう。
ふと和彦は、自分の頬が火照っていることに気づき、てのひらを押し当てた。入浴してからもうしばらく経っているし、体調が悪いというわけでもない。
体の内で得体の知れない感情がのたうち回り、興奮に近い状態なのかもしれない。そう無理やり、自分を納得させておく。
起床時間をセットしておこうと、もたつきながら操作をしていると、こちらに近づいてくる足音が耳に入る。大きな歩幅で、荒々しい足取りだ。初めて聞く足音ではあったが、誰であるかはすぐにわかった。
「――入るぞ」
和彦が応じる間もなく障子が開き、賢吾が姿を現す。帰宅したばかりらしく、ワイシャツ姿だ。
忙しいのだなと思ったあと、なぜ忙しいのかと考えて、ゾクリとした。吾川から言われた言葉が耳元に蘇る。
後ろ手に障子を閉めた賢吾はじっとこちらを見つめたあと、和彦の手元に視線を向けた。
「今日買ってきたのか」
「……ああ」
「スマホも興味津々で眺めていたと聞いたぞ」
やはり、しっかり観察されていたらしい。和彦は苦笑いで返すと、目覚まし時計を置く。
「宮森さんの甥っ子から、買ったらどうだと勧められているんだ」
「欲しいなら、いつでも準備してやる」
和彦は首を横に振ってから、賢吾に問いかけた。
「ぼくに何か用か?」
「もう寝ているかと思ってな」
「それなのに、あんな、あんたらしくない足音を立ててやって来たのか」
賢吾は一瞬、決まり悪そうな顔をしたあと、すでに延べられている布団に目を遣る。
「まだ寝ないのか?」
「もう、布団に入るつもりだった。目覚ましをセットしたら……」
「そうか。暖かくして寝ろ」
ここで不自然な沈黙が訪れる。珍しく、賢吾が何か言い淀んでいるのだ。その理由には、薄々見当がついていた。
和彦は、吾川から電話があったことを、誰にも知らせていない。帰りの車で一緒だった組員たちは、電話をきっかけに和彦の様子が一変したことを、当然賢吾に報告はしているだろう。おそらく賢吾は、電話の相手を知りたがっているはずだ。
いつもであれば、余裕たっぷりの笑みを浮かべ、言葉で和彦を翻弄しながら、たやすく聞き出すのだろうが、今夜の賢吾は違う。
二人はしばらく、欲しい答えを探り合うように見つめ合っていたが、先に目を逸らしたのは賢吾だった。
「……悪かったな。押し掛けて」
賢吾が部屋を出て行こうとする気配を感じ、和彦は反射的に立ち上がる。勢いのまま、賢吾の腕にすがりついていた。
「賢吾っ……」
すぐに後ろ髪を強く掴まれ、顔を上げさせられる。間近で見て、今の賢吾の目に潜むのは大蛇ではなく、ただの激情だと知る。
「どうした、和彦?」
官能的なバリトンの響きに胸が疼く。
「……なんでも、ない……」
「だったら、俺が恋しくなったか」
喉を鳴らして笑った賢吾の息遣いが、唇に触れる。それだけで和彦は小さく喘いでいた。賢吾は軽く目を瞠ってから、囁くように言った。
「可愛いオンナだ。――……大事で可愛い、俺のオンナ」
後ろ髪を掴んでいた手が離れる。両腕でしっかりと抱き締められると、和彦もおずおずと賢吾の背に腕を回す。煙草を吸ったばかりなのか、いつもより強く匂いがする。そんなことを頭の片隅で思いながら、ゆっくりと唇を重ねた。
「キスだけ、な」
優しく唇を啄まれながら賢吾に言われ、和彦は頷く。自ら求めて賢吾の唇に舌先を這わせると、あっさりと口腔に招き入れられた。きつく舌を吸われて足元が震える。賢吾にしがみついて体をすり寄せると、痛いほどに抱き締められた。
唇と舌を貪り合いながら、賢吾の髪に指を差し込む。するとうなじを撫で上げられ、後ろ髪を今度は丁寧に梳かれる。和彦が洩らした声はすべて唇で吸い取られた。
蛇のように残酷で執念深いが、一方で、溺れそうになるほどの情愛を注いでくれる、優しい男。
和彦は、賢吾との濃厚な口づけを堪能しながら、ある覚悟をしっかりと胸に刻み付ける。
自分のせいで、賢吾には何も失ってほしくはなかった。かつての満たされた生活を賢吾に奪われはしたが、そのことはもう、和彦にはどうでもいい。
今、大事なのは――。
クリニックのスタッフとの忘年会を兼ねた食事会は、ホテルのレストランでのディナービュッフェだった。
早いうちからスタッフの一人が、評判のいいプランが今ならまだ予約が取れると話していたため、一任していたのだが、間違いなかったようだ。
皿の上のローストビーフを眺めながら、素直に和彦は感心する。女性の多い職場なので、美味しい食事とデザートが食べ放題というのは何より魅力的だったのだろう。もちろん、中にはすでに、アルコールを飲んでほんのりと頬を上気させているスタッフもいる。
ここはカクテルも女性好みのものが揃っているらしい。明日は土曜日でクリニックが休みということもあり、多少ハメを外しても心配ないようだ。
一方の和彦は、ノンアルコールビールで口を湿らせていた。あまり食欲がないと思いながらも、スタッフたちの手前、何も手をつけないわけにはいかない。
ローストビーフを一口食べると、なんとなく食欲が湧いてきた気がして、せっかくだからとラム肉も味わう。魚料理や自家製パンも美味しくて、結局、ノンアルコールビールでは物足りなくなり、シャンパンを頼んでしまう。
イチゴの小さなショートケーキも一つ食べたところで、時間切れだった。二次会はどこに行くかと皆が盛り上がっている中、和彦は現金を入れた封筒を隣のスタッフにそっと差し出す。
「申し訳ないけど、ぼくはこれから用があるから、あとはスタッフだけで楽しんで。これは、二次会の支払いに使って」
和彦は慌ただしくレストランを出ると、クロークに預けていたコートとアタッシェケースを受け取る。その足で、別館へと繋がる連絡口へと向かった。
別館の正面玄関から外に出たとき、寒さも感じないほど緊張していた。
少し歩道を歩いたところで、車のクラクションが短く鳴らされる。
一台の車がスッと車道脇に停まり、それが、迎えを頼んでおいた〈総和会〉の車であることを視認した和彦は小走りで近づく。ドアを開け、車に乗り込もうとしたところで、硬直した。
誰も乗っていないと思っていた後部座席に、すでに人の姿があったからだ。しかも――。
「……どうして……」
ようやく和彦が声を絞り出すと、悠然とシートに身を預けたまま、守光が薄く笑んだ。
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