1,090 / 1,267
第42話
(27)
しおりを挟む
「よお、来たな。佐伯」
男の羽織った白衣の胸元には、〈橘〉と記された名札がついている。この男が、和彦の友人であり、心療内科の担当医だった。
さあ座れと言うように、一人掛け用のソファを示される。和彦は一応、こう提案してみた。
「……処方箋だけ出してくれたらいいんだが……」
「お前は毎回、同じことを言うなあ。それで頷く心療内科医がいると思うか?」
「他の医者には言えないから、橘さんに言ってるんだ」
「――橘先生」
すかさず訂正され、和彦は露骨に顔をしかめて見せる。千尋に説明したとおり、橘は遠慮なくがさつな笑い声を上げた。人によっては眉をひそめるかもしれないが、和彦は違う。聞き慣れた笑い声に覚えるのは、安心感だった。
和彦がソファに腰掛けると、橘もファイルを手に、小さなテーブルを挟んで向かいに座る。橘の傍らには、にこやかな表情の看護師が立った。
「ぼくのことは、『先生』をつけて呼んでくれたことがないくせに」
「俺は、この男前の顔をどうこうしたいとは思わないからなあ。天地がひっくり返っても、お前が担当医になることはないな」
「脱毛もやっている」
思わず、といった様子で橘が、あごを覆う強いひげに手をやる。ひげだけではなく、癖のある髪もぼさぼさで、ついでに言うなら眉は太く濃い。
「俺の毛を、一本もお前に抜かせる気はないからな」
「わかってるよ……」
こんなやり取りは、いつものことだった。おそらく橘は、他の患者相手にもこんな感じなのだろう。
見た目は、はっきりいってむさ苦しい四十男だ。顔の輪郭はごつく、大きな口が特徴的で、間違っても美男子と呼べる容貌ではないのだが、驚くほど目元が柔和で、それが人の警戒心を解いてしまう。学生時代から、子供と老人受けは抜群だった。
橘は、こちらに質問をしてくる前に、開いたファイルにさっそく何かを書き込み始める。互いに黙り込んだところで、音量をかなり抑えた音楽が流れていることに気づく。
ずいぶん昔に流行ったクリスマスソングで、これは橘個人の好みなのか、とりあえず世間の流れに乗ってみたのか、どちらなのだろうかと、とりとめもなく和彦は考える。いくら友人とはいえ、心療内科医と向き合うのはやはりどうしても身構えてしまい、こんなことで気を紛らわせようとするのだ。
なんとなくソファに座り直してから、室内に目を向ける。相変わらず、無駄や彩りというものがない部屋だった。壁も天井も真っ白で、申し訳程度に小さな観葉植物の鉢があるだけ。ずらりと並んだファイルの背表紙すら白い。
「――疲れた顔をしてるな」
ふいに橘に指摘され、和彦は目を丸くする。医者としてというより、友人として心配していると感じさせる声音だった。
「まあ……、師走だから、いろいろと忙しいんだ」
「お前がここに通い始めてから、ずっと言ってるぞ。忙しい、って。疲れすぎて、眠れないことがあるとも」
「……本当に、忙しいんだ」
「疲労の蓄積で眠れないんなら、睡眠薬を処方するんだが、お前の場合、眠れなくなるほどの不安感のほうが気がかりだ。原因は、自分でわかっているんだろう?」
このやり取りは何度目だろうかと、和彦はふっと苦笑を洩らす。橘は辛抱強く、同じ質問を投げかけてくるのだ。しかし、自分がヤクザの組長の囲われ者となっているなどと話せるはずもなく、曖昧に誤魔化してきた。だが、今日は違う。
現在の生活環境以上に、和彦の不安感を掻き立てる存在が現れたため、ようやく橘の質問に答えられるのだ。決して喜ばしいことではないが。
「今の生活に、ここのところ家族が介入してくるんだ。その結果、年末年始の間、実家に滞在することになった。それが気が重くて……」
橘が目を細める。学生時代の和彦が、家族の話題をあまり口にしたがらなかったことを、年上の友人はしっかり覚えていたようだ。ああ、と意味ありげなため息を洩らすと、ボールペンの尻で頭を掻いた。
「なんだったかな。絵に描いたようなエリート一家……と、同期の誰かが言ってたんだ」
「そう。その家族だ」
「気の重い里帰りになりそうだから、いつもより多めに薬を出してほしい、というところじゃないか? 十二月末までまだ間があるぞ」
「言っただろ。忙しいって。急に予定が入るときがあるから、いつ受診に来られるか、ぼくもわからないんだ」
ふむ、と声を洩らした橘が、さらさらとファイルに書き込む。
男の羽織った白衣の胸元には、〈橘〉と記された名札がついている。この男が、和彦の友人であり、心療内科の担当医だった。
さあ座れと言うように、一人掛け用のソファを示される。和彦は一応、こう提案してみた。
「……処方箋だけ出してくれたらいいんだが……」
「お前は毎回、同じことを言うなあ。それで頷く心療内科医がいると思うか?」
「他の医者には言えないから、橘さんに言ってるんだ」
「――橘先生」
すかさず訂正され、和彦は露骨に顔をしかめて見せる。千尋に説明したとおり、橘は遠慮なくがさつな笑い声を上げた。人によっては眉をひそめるかもしれないが、和彦は違う。聞き慣れた笑い声に覚えるのは、安心感だった。
和彦がソファに腰掛けると、橘もファイルを手に、小さなテーブルを挟んで向かいに座る。橘の傍らには、にこやかな表情の看護師が立った。
「ぼくのことは、『先生』をつけて呼んでくれたことがないくせに」
「俺は、この男前の顔をどうこうしたいとは思わないからなあ。天地がひっくり返っても、お前が担当医になることはないな」
「脱毛もやっている」
思わず、といった様子で橘が、あごを覆う強いひげに手をやる。ひげだけではなく、癖のある髪もぼさぼさで、ついでに言うなら眉は太く濃い。
「俺の毛を、一本もお前に抜かせる気はないからな」
「わかってるよ……」
こんなやり取りは、いつものことだった。おそらく橘は、他の患者相手にもこんな感じなのだろう。
見た目は、はっきりいってむさ苦しい四十男だ。顔の輪郭はごつく、大きな口が特徴的で、間違っても美男子と呼べる容貌ではないのだが、驚くほど目元が柔和で、それが人の警戒心を解いてしまう。学生時代から、子供と老人受けは抜群だった。
橘は、こちらに質問をしてくる前に、開いたファイルにさっそく何かを書き込み始める。互いに黙り込んだところで、音量をかなり抑えた音楽が流れていることに気づく。
ずいぶん昔に流行ったクリスマスソングで、これは橘個人の好みなのか、とりあえず世間の流れに乗ってみたのか、どちらなのだろうかと、とりとめもなく和彦は考える。いくら友人とはいえ、心療内科医と向き合うのはやはりどうしても身構えてしまい、こんなことで気を紛らわせようとするのだ。
なんとなくソファに座り直してから、室内に目を向ける。相変わらず、無駄や彩りというものがない部屋だった。壁も天井も真っ白で、申し訳程度に小さな観葉植物の鉢があるだけ。ずらりと並んだファイルの背表紙すら白い。
「――疲れた顔をしてるな」
ふいに橘に指摘され、和彦は目を丸くする。医者としてというより、友人として心配していると感じさせる声音だった。
「まあ……、師走だから、いろいろと忙しいんだ」
「お前がここに通い始めてから、ずっと言ってるぞ。忙しい、って。疲れすぎて、眠れないことがあるとも」
「……本当に、忙しいんだ」
「疲労の蓄積で眠れないんなら、睡眠薬を処方するんだが、お前の場合、眠れなくなるほどの不安感のほうが気がかりだ。原因は、自分でわかっているんだろう?」
このやり取りは何度目だろうかと、和彦はふっと苦笑を洩らす。橘は辛抱強く、同じ質問を投げかけてくるのだ。しかし、自分がヤクザの組長の囲われ者となっているなどと話せるはずもなく、曖昧に誤魔化してきた。だが、今日は違う。
現在の生活環境以上に、和彦の不安感を掻き立てる存在が現れたため、ようやく橘の質問に答えられるのだ。決して喜ばしいことではないが。
「今の生活に、ここのところ家族が介入してくるんだ。その結果、年末年始の間、実家に滞在することになった。それが気が重くて……」
橘が目を細める。学生時代の和彦が、家族の話題をあまり口にしたがらなかったことを、年上の友人はしっかり覚えていたようだ。ああ、と意味ありげなため息を洩らすと、ボールペンの尻で頭を掻いた。
「なんだったかな。絵に描いたようなエリート一家……と、同期の誰かが言ってたんだ」
「そう。その家族だ」
「気の重い里帰りになりそうだから、いつもより多めに薬を出してほしい、というところじゃないか? 十二月末までまだ間があるぞ」
「言っただろ。忙しいって。急に予定が入るときがあるから、いつ受診に来られるか、ぼくもわからないんだ」
ふむ、と声を洩らした橘が、さらさらとファイルに書き込む。
35
お気に入りに追加
1,359
あなたにおすすめの小説
もう人気者とは付き合っていられません
花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。
モテるのは当然だ。でも――。
『たまには二人だけで過ごしたい』
そう願うのは、贅沢なのだろうか。
いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。
「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。
ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。
生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。
※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください
ヤクザと捨て子
幕間ささめ
BL
執着溺愛ヤクザ幹部×箱入り義理息子
ヤクザの事務所前に捨てられた子どもを自分好みに育てるヤクザ幹部とそんな保護者に育てられてる箱入り男子のお話。
ヤクザは頭の切れる爽やかな風貌の腹黒紳士。息子は細身の美男子の空回り全力少年。
目が覚めたら囲まれてました
るんぱっぱ
BL
燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。
燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。
そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。
チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。
不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で!
独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。
公爵家の五男坊はあきらめない
三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。
生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。
冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。
負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。
「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」
都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。
知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。
生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。
あきらめたら待つのは死のみ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる