血と束縛と

北川とも

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第42話

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「よお、来たな。佐伯」
 男の羽織った白衣の胸元には、〈たちばな〉と記された名札がついている。この男が、和彦の友人であり、心療内科の担当医だった。
 さあ座れと言うように、一人掛け用のソファを示される。和彦は一応、こう提案してみた。
「……処方箋だけ出してくれたらいいんだが……」
「お前は毎回、同じことを言うなあ。それで頷く心療内科医がいると思うか?」
「他の医者には言えないから、橘さんに言ってるんだ」
「――橘先生」
 すかさず訂正され、和彦は露骨に顔をしかめて見せる。千尋に説明したとおり、橘は遠慮なくがさつな笑い声を上げた。人によっては眉をひそめるかもしれないが、和彦は違う。聞き慣れた笑い声に覚えるのは、安心感だった。
 和彦がソファに腰掛けると、橘もファイルを手に、小さなテーブルを挟んで向かいに座る。橘の傍らには、にこやかな表情の看護師が立った。
「ぼくのことは、『先生』をつけて呼んでくれたことがないくせに」
「俺は、この男前の顔をどうこうしたいとは思わないからなあ。天地がひっくり返っても、お前が担当医になることはないな」
「脱毛もやっている」
 思わず、といった様子で橘が、あごを覆うこわいひげに手をやる。ひげだけではなく、癖のある髪もぼさぼさで、ついでに言うなら眉は太く濃い。
「俺の毛を、一本もお前に抜かせる気はないからな」
「わかってるよ……」
 こんなやり取りは、いつものことだった。おそらく橘は、他の患者相手にもこんな感じなのだろう。
 見た目は、はっきりいってむさ苦しい四十男だ。顔の輪郭はごつく、大きな口が特徴的で、間違っても美男子と呼べる容貌ではないのだが、驚くほど目元が柔和で、それが人の警戒心を解いてしまう。学生時代から、子供と老人受けは抜群だった。
 橘は、こちらに質問をしてくる前に、開いたファイルにさっそく何かを書き込み始める。互いに黙り込んだところで、音量をかなり抑えた音楽が流れていることに気づく。
 ずいぶん昔に流行ったクリスマスソングで、これは橘個人の好みなのか、とりあえず世間の流れに乗ってみたのか、どちらなのだろうかと、とりとめもなく和彦は考える。いくら友人とはいえ、心療内科医と向き合うのはやはりどうしても身構えてしまい、こんなことで気を紛らわせようとするのだ。
 なんとなくソファに座り直してから、室内に目を向ける。相変わらず、無駄や彩りというものがない部屋だった。壁も天井も真っ白で、申し訳程度に小さな観葉植物の鉢があるだけ。ずらりと並んだファイルの背表紙すら白い。
「――疲れた顔をしてるな」
 ふいに橘に指摘され、和彦は目を丸くする。医者としてというより、友人として心配していると感じさせる声音だった。
「まあ……、師走だから、いろいろと忙しいんだ」
「お前がここに通い始めてから、ずっと言ってるぞ。忙しい、って。疲れすぎて、眠れないことがあるとも」
「……本当に、忙しいんだ」
「疲労の蓄積で眠れないんなら、睡眠薬を処方するんだが、お前の場合、眠れなくなるほどの不安感のほうが気がかりだ。原因は、自分でわかっているんだろう?」
 このやり取りは何度目だろうかと、和彦はふっと苦笑を洩らす。橘は辛抱強く、同じ質問を投げかけてくるのだ。しかし、自分がヤクザの組長の囲われ者となっているなどと話せるはずもなく、曖昧に誤魔化してきた。だが、今日は違う。
 現在の生活環境以上に、和彦の不安感を掻き立てる存在が現れたため、ようやく橘の質問に答えられるのだ。決して喜ばしいことではないが。
「今の生活に、ここのところ家族が介入してくるんだ。その結果、年末年始の間、実家に滞在することになった。それが気が重くて……」
 橘が目を細める。学生時代の和彦が、家族の話題をあまり口にしたがらなかったことを、年上の友人はしっかり覚えていたようだ。ああ、と意味ありげなため息を洩らすと、ボールペンの尻で頭を掻いた。
「なんだったかな。絵に描いたようなエリート一家……と、同期の誰かが言ってたんだ」
「そう。その家族だ」
「気の重い里帰りになりそうだから、いつもより多めに薬を出してほしい、というところじゃないか? 十二月末までまだ間があるぞ」
「言っただろ。忙しいって。急に予定が入るときがあるから、いつ受診に来られるか、ぼくもわからないんだ」
 ふむ、と声を洩らした橘が、さらさらとファイルに書き込む。

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