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第42話
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今夜のような出来事があると、暇なときに、などと悠長なことは言っていられない。明日にでも予約を入れておこうと、たぐり寄せたメモに書き留めておく。
ふと、客間の前に誰かやってきた気配を感じた。
障子越しにぼんやりとした影が動き、一瞬、また千尋がやってきたのかと思ったが、そうではない。そもそも足音からして違う。
「――和彦」
夜気を震わせるバリトンの響きに、和彦は小さく肩を揺らす。ざわりと全身の感覚がざわついた。
部屋に入ってきた賢吾は一目見て湯上がりだとわかる姿で、濡れ髪のうえに、浴衣の合わせから覗く肌には汗が伝い落ちている。和彦は苦い顔をする。
「そんな姿でうろうろしてたら、風邪をひくぞ」
賢吾は、剣呑とした空気を隠そうともしない。いきなり畳の上に胡坐をかくと、短く切り出した。
「何があった」
やはり、和彦の家族が本宅に押し掛けてきた事態に怒っているらしい。当然かと、反射的に顔を伏せた和彦だが、これ以上賢吾に不愉快な思いをさせられないと、なんとか口を開く。
「……兄さんは感情的になってた。抑え切れないものがあって、本宅に押し掛けてくるなんて行動に出たみたいだ」
「エリート官僚が、ヤクザの組長の家に押し掛けてくるなんざ、子供でも危険だとわかる。そこまでするぐらい感情的になるなら、やっぱり相応の理由があるだろう」
里見が関係あるとは、さすがに言えなかった。上手い言い訳も思いつかず口ごもる和彦を、賢吾はまっすぐ見つめてくる。大蛇が潜む物騒な目を、どうしても見つめ返すことはできなかった。
「すまなかった……。兄さんだけじゃなく、あんたにとって――組にとっても危険なことなのに。ぼくのせいで……」
「行動を起こしたのは、お前の兄貴だ。離れた場所にいる人間の行動にまで、お前が責任を負う必要はないだろ」
「でも、ぼくのせいだ。ぼくの存在が、兄さんを苛立たせて、怒らせる」
「だから何をされても仕方ないと?」
賢吾の声音が凄みを帯びる。
「向こうにとってお前がどんな存在だろうが関係ない。俺にとってお前は、大事で可愛いオンナだ。それをキズモノにされたら、腹も立つ」
そう言って賢吾が片手を差し出してくる。意味がわからず戸惑う和彦に向けて、今度は軽く手招きをしてきた。おずおずと這い寄ると、腕を掴まれ引っ張られた。
あごを掴み上げられ、賢吾が顔を近づけてくる。このとき本気で、首筋に喰らいつかれるのではないかと危惧したが、もちろんそんなことをされるはずもなく、首筋を食い入るように見つめられた。
「――……赤くなってるな」
賢吾は、英俊の取った行動について、しっかり報告を受けているようだ。和彦はつい賢吾から視線を逸らしていた。
「手当てはしたのか」
「大したことはない。一応冷やしたけど、水膨れはできてないし……」
「ひでーことをしやがる。コーヒーをぶっかけるなんざ」
荒事に慣れているはずの男の口から出た言葉に、つい微苦笑を浮かべる。
「熱かっただけで、痛くはなかった。……引っぱたかれたりするより、マシだ」
「お前に痛みを与え続けてきた人間が、な。そこまで取り乱していたということか」
ここで首筋に熱が触れ、和彦は身を震わせる。一瞬、さきほどかけられたコーヒーの熱さが蘇ったが、さほど高温ではなく、じわりと肌に溶け込み、心地よさを生む。賢吾の指先の熱だった。和彦は小さく喘ぐ。
「……兄さんに、ぼくのことをいろいろと吹き込んだ人がいるみたいだ。それで動揺して――」
「その、吹き込んだ人間ってのは、俺が知っている奴か?」
耳に直接注ぎ込まれる低い声に、和彦は甘い眩暈を覚える。聞かれるままなんでも答えてしまいたくなる誘惑に、なんとか抗ったが、その代わり返事ができない。ふうっ、と賢吾が息を吐き出した。
「お前の父親と兄貴の間で、情報共有が完璧には行われてないということか。そうでなかったら、今夜みたいなことにはならなかったはずだ。そして、お前の実家を引っ掻き回そうとしている奴がいる。気のせいか。俺の昔からの知り合いに、そんな悪趣味なことが好きそうな奴がいる。今はどこで何をしているのか知らねーが」
とうとう首筋に賢吾の唇が押し当てられる。和彦は声を上げると、咄嗟に身を引こうとしたが、力強い腕にしっかりと抱き込まれて動けなくなる。
「賢吾っ……」
「じっとしてろ。ひどいことはしない」
熱く濡れた舌にじっとりと首筋を舐め上げられて、鳥肌が立つ。不快さからではなく、快感を予期しての反応だが、肌に触れる息遣いに、どうしても和彦は物騒なものを感じずにはいられない。
ふと、客間の前に誰かやってきた気配を感じた。
障子越しにぼんやりとした影が動き、一瞬、また千尋がやってきたのかと思ったが、そうではない。そもそも足音からして違う。
「――和彦」
夜気を震わせるバリトンの響きに、和彦は小さく肩を揺らす。ざわりと全身の感覚がざわついた。
部屋に入ってきた賢吾は一目見て湯上がりだとわかる姿で、濡れ髪のうえに、浴衣の合わせから覗く肌には汗が伝い落ちている。和彦は苦い顔をする。
「そんな姿でうろうろしてたら、風邪をひくぞ」
賢吾は、剣呑とした空気を隠そうともしない。いきなり畳の上に胡坐をかくと、短く切り出した。
「何があった」
やはり、和彦の家族が本宅に押し掛けてきた事態に怒っているらしい。当然かと、反射的に顔を伏せた和彦だが、これ以上賢吾に不愉快な思いをさせられないと、なんとか口を開く。
「……兄さんは感情的になってた。抑え切れないものがあって、本宅に押し掛けてくるなんて行動に出たみたいだ」
「エリート官僚が、ヤクザの組長の家に押し掛けてくるなんざ、子供でも危険だとわかる。そこまでするぐらい感情的になるなら、やっぱり相応の理由があるだろう」
里見が関係あるとは、さすがに言えなかった。上手い言い訳も思いつかず口ごもる和彦を、賢吾はまっすぐ見つめてくる。大蛇が潜む物騒な目を、どうしても見つめ返すことはできなかった。
「すまなかった……。兄さんだけじゃなく、あんたにとって――組にとっても危険なことなのに。ぼくのせいで……」
「行動を起こしたのは、お前の兄貴だ。離れた場所にいる人間の行動にまで、お前が責任を負う必要はないだろ」
「でも、ぼくのせいだ。ぼくの存在が、兄さんを苛立たせて、怒らせる」
「だから何をされても仕方ないと?」
賢吾の声音が凄みを帯びる。
「向こうにとってお前がどんな存在だろうが関係ない。俺にとってお前は、大事で可愛いオンナだ。それをキズモノにされたら、腹も立つ」
そう言って賢吾が片手を差し出してくる。意味がわからず戸惑う和彦に向けて、今度は軽く手招きをしてきた。おずおずと這い寄ると、腕を掴まれ引っ張られた。
あごを掴み上げられ、賢吾が顔を近づけてくる。このとき本気で、首筋に喰らいつかれるのではないかと危惧したが、もちろんそんなことをされるはずもなく、首筋を食い入るように見つめられた。
「――……赤くなってるな」
賢吾は、英俊の取った行動について、しっかり報告を受けているようだ。和彦はつい賢吾から視線を逸らしていた。
「手当てはしたのか」
「大したことはない。一応冷やしたけど、水膨れはできてないし……」
「ひでーことをしやがる。コーヒーをぶっかけるなんざ」
荒事に慣れているはずの男の口から出た言葉に、つい微苦笑を浮かべる。
「熱かっただけで、痛くはなかった。……引っぱたかれたりするより、マシだ」
「お前に痛みを与え続けてきた人間が、な。そこまで取り乱していたということか」
ここで首筋に熱が触れ、和彦は身を震わせる。一瞬、さきほどかけられたコーヒーの熱さが蘇ったが、さほど高温ではなく、じわりと肌に溶け込み、心地よさを生む。賢吾の指先の熱だった。和彦は小さく喘ぐ。
「……兄さんに、ぼくのことをいろいろと吹き込んだ人がいるみたいだ。それで動揺して――」
「その、吹き込んだ人間ってのは、俺が知っている奴か?」
耳に直接注ぎ込まれる低い声に、和彦は甘い眩暈を覚える。聞かれるままなんでも答えてしまいたくなる誘惑に、なんとか抗ったが、その代わり返事ができない。ふうっ、と賢吾が息を吐き出した。
「お前の父親と兄貴の間で、情報共有が完璧には行われてないということか。そうでなかったら、今夜みたいなことにはならなかったはずだ。そして、お前の実家を引っ掻き回そうとしている奴がいる。気のせいか。俺の昔からの知り合いに、そんな悪趣味なことが好きそうな奴がいる。今はどこで何をしているのか知らねーが」
とうとう首筋に賢吾の唇が押し当てられる。和彦は声を上げると、咄嗟に身を引こうとしたが、力強い腕にしっかりと抱き込まれて動けなくなる。
「賢吾っ……」
「じっとしてろ。ひどいことはしない」
熱く濡れた舌にじっとりと首筋を舐め上げられて、鳥肌が立つ。不快さからではなく、快感を予期しての反応だが、肌に触れる息遣いに、どうしても和彦は物騒なものを感じずにはいられない。
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