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第42話
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やはり、と心の中で呟いて、和彦は頷く。
「父さんに言われて……。ぼくがいつまでも行方知れずのままだと、都合が悪いみたいだから。それに兄さんのほうも、何か事情があるんだろう? 兄弟で同席する場が設けられそうで、断れないって……」
「兄弟、か」
毒を含んだ英俊の呟きに、和彦は反射的に身を竦めながら、ぼそぼそと応じる。
「兄さんが嫌なら、ぼくは別に――」
「いや、父さんが作ったせっかくの機会だ。利用させてもらおう。〈彼女〉が、お前に一度会ってみたいとせがんでくるんだ」
たった一つの単語から、かつて鷹津から聞かされた話を思い出した。
俊哉が、ある企業の創業者と頻繁に会っており、その人物には花嫁修業中の年頃の孫娘がいるということを。政界進出の準備を進めているらしい英俊にとって、家柄に申し分のない伴侶は必要だろうと、和彦は自然にそう考えたのだ。
切り出すことにためらいを覚えたが、質問しないほうが不自然だろう。和彦はわずかに上擦った声で問いかける。
「兄さんが今、つき合っている人?」
「まあ、そんな感じだ。父親同士が親しいと、話も早い。来年の春か夏には婚約ということになるだろう。その前に、こちら側の家族全員と会っておきたいんだそうだ」
「……焦っただろう。そんな話になって」
「いっそのこと、お前の居場所がわからないままでいてくれたほうが、ありがたかった。状況は最悪だ。ヤクザが絡んでいるうえに、お前がどうやって生活しているかわかったら、腸が煮えくり返るなんてものじゃなかった。和彦は出奔したままだと、そう言い続けていればいいじゃないかと思ったんだ。だけど――」
俊哉はそんな曖昧な状態を許さなかった。英俊の口ぶりから強い苛立ちを感じるが、和彦にはどうしようもできない。佐伯家のすべての事柄に決定権を持っているのは俊哉なのだ。
「父さんには、父さんの考えがあるんだろう。わたしの知らないことを、あの人は知っている。……そう、納得はしていた。お前の処理は、父さんに任せておけばいいと……」
ひどい言われようだと、ひっそりと苦笑を洩らした和彦だが、神経を針で一刺しされたように、何かが気になった。
よくも悪くも、父親のやり方を知っている英俊がなぜ、長嶺の本宅に押し掛けるようなまねをしたのか。無謀な行動に出た本当の理由があるはずだ。それを和彦は知りたかった。より正確に言うなら、確かめたかった。
「――この際だからはっきり言うけど、父さんはぼくの今の生活について、詳しいことを兄さんに話すつもりはないように思えた。大事なことは全部自分で仕切って、思う通りに進めるつもりだと。だから……、驚いたんだ。兄さんが、長嶺の本宅に来たことを。それ以前に、ぼくの事情を全部知っていることに」
俊哉ではないとしたら、選択肢は非常に限られる。
「……ぼくのことを、兄さんは誰から聞いたんだ。本宅の住所も、その人から? それとも、わざわざ調べた?」
和彦の問いかけが聞こえなかったのか、英俊はカップに視線を落としていた。兄さん、と呼びかけると、ハッとして顔を上げ、次の瞬間には憎々しげに睨まれた。
「ヤクザの組長の居宅なんて、わたしが調べるはずがないだろう。教えてきたのは、無礼で下品な刑事――いや、元刑事だな」
鷹津だ。この瞬間、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような苦しさに襲われ、和彦は息を詰める。その苦しさが治まってすぐに、鷹津が今どうしているか、知りたいと思った。
その気持ちが顔に出たらしい。英俊はレンズの奥の目を軽く見開いたあと、うっすらと笑みを浮かべた。
「あの元刑事、お前に懸想しているのか? たまに顔を合わせると、妙に熱っぽい目で、わたしの顔を見てくるんだ。嫌になるほど、わたしとお前はよく似てるからな」
「鷹津は、兄さんたちの近くにいるのか……」
気になるか? と囁くように問われ、和彦は唇を引き結ぶ。
鷹津という男がいまだに、自分の中に強烈な存在感を残していることを、身をもって知る。名が出るだけ、存在を匂わされるだけで、この有り様だ。そして、そんな和彦の様子を、英俊が見逃すはずもない。
「もしかしてお前、あの男とも寝ていたのか? ……聞くまでもないな。その様子だと。呆れたもんだ。――汚らわしい」
屈辱感と怒りから、カッと顔が熱くなった。
自分は、英俊に侮辱されるためだけに、こうして座っているのだろうかと自虐的な想いに囚われ、すぐに否定する。取り乱した様子で本宅にやってきたのは、英俊なのだ。そこまでしても、和彦に会う必要があった。
胸の奥からドロリとどす黒い感情が湧き出る。冷たい兄を、言葉で傷つけてやりたいという衝動に抗えなかった。
「父さんに言われて……。ぼくがいつまでも行方知れずのままだと、都合が悪いみたいだから。それに兄さんのほうも、何か事情があるんだろう? 兄弟で同席する場が設けられそうで、断れないって……」
「兄弟、か」
毒を含んだ英俊の呟きに、和彦は反射的に身を竦めながら、ぼそぼそと応じる。
「兄さんが嫌なら、ぼくは別に――」
「いや、父さんが作ったせっかくの機会だ。利用させてもらおう。〈彼女〉が、お前に一度会ってみたいとせがんでくるんだ」
たった一つの単語から、かつて鷹津から聞かされた話を思い出した。
俊哉が、ある企業の創業者と頻繁に会っており、その人物には花嫁修業中の年頃の孫娘がいるということを。政界進出の準備を進めているらしい英俊にとって、家柄に申し分のない伴侶は必要だろうと、和彦は自然にそう考えたのだ。
切り出すことにためらいを覚えたが、質問しないほうが不自然だろう。和彦はわずかに上擦った声で問いかける。
「兄さんが今、つき合っている人?」
「まあ、そんな感じだ。父親同士が親しいと、話も早い。来年の春か夏には婚約ということになるだろう。その前に、こちら側の家族全員と会っておきたいんだそうだ」
「……焦っただろう。そんな話になって」
「いっそのこと、お前の居場所がわからないままでいてくれたほうが、ありがたかった。状況は最悪だ。ヤクザが絡んでいるうえに、お前がどうやって生活しているかわかったら、腸が煮えくり返るなんてものじゃなかった。和彦は出奔したままだと、そう言い続けていればいいじゃないかと思ったんだ。だけど――」
俊哉はそんな曖昧な状態を許さなかった。英俊の口ぶりから強い苛立ちを感じるが、和彦にはどうしようもできない。佐伯家のすべての事柄に決定権を持っているのは俊哉なのだ。
「父さんには、父さんの考えがあるんだろう。わたしの知らないことを、あの人は知っている。……そう、納得はしていた。お前の処理は、父さんに任せておけばいいと……」
ひどい言われようだと、ひっそりと苦笑を洩らした和彦だが、神経を針で一刺しされたように、何かが気になった。
よくも悪くも、父親のやり方を知っている英俊がなぜ、長嶺の本宅に押し掛けるようなまねをしたのか。無謀な行動に出た本当の理由があるはずだ。それを和彦は知りたかった。より正確に言うなら、確かめたかった。
「――この際だからはっきり言うけど、父さんはぼくの今の生活について、詳しいことを兄さんに話すつもりはないように思えた。大事なことは全部自分で仕切って、思う通りに進めるつもりだと。だから……、驚いたんだ。兄さんが、長嶺の本宅に来たことを。それ以前に、ぼくの事情を全部知っていることに」
俊哉ではないとしたら、選択肢は非常に限られる。
「……ぼくのことを、兄さんは誰から聞いたんだ。本宅の住所も、その人から? それとも、わざわざ調べた?」
和彦の問いかけが聞こえなかったのか、英俊はカップに視線を落としていた。兄さん、と呼びかけると、ハッとして顔を上げ、次の瞬間には憎々しげに睨まれた。
「ヤクザの組長の居宅なんて、わたしが調べるはずがないだろう。教えてきたのは、無礼で下品な刑事――いや、元刑事だな」
鷹津だ。この瞬間、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような苦しさに襲われ、和彦は息を詰める。その苦しさが治まってすぐに、鷹津が今どうしているか、知りたいと思った。
その気持ちが顔に出たらしい。英俊はレンズの奥の目を軽く見開いたあと、うっすらと笑みを浮かべた。
「あの元刑事、お前に懸想しているのか? たまに顔を合わせると、妙に熱っぽい目で、わたしの顔を見てくるんだ。嫌になるほど、わたしとお前はよく似てるからな」
「鷹津は、兄さんたちの近くにいるのか……」
気になるか? と囁くように問われ、和彦は唇を引き結ぶ。
鷹津という男がいまだに、自分の中に強烈な存在感を残していることを、身をもって知る。名が出るだけ、存在を匂わされるだけで、この有り様だ。そして、そんな和彦の様子を、英俊が見逃すはずもない。
「もしかしてお前、あの男とも寝ていたのか? ……聞くまでもないな。その様子だと。呆れたもんだ。――汚らわしい」
屈辱感と怒りから、カッと顔が熱くなった。
自分は、英俊に侮辱されるためだけに、こうして座っているのだろうかと自虐的な想いに囚われ、すぐに否定する。取り乱した様子で本宅にやってきたのは、英俊なのだ。そこまでしても、和彦に会う必要があった。
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