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第41話
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今日だけは、護衛を外してもらうべきかと考え、次の瞬間には打ち消す。
和彦の中に、里見と二人きりで会うという選択肢はまったくなかった。
もう一度里見に連絡を取るのは無駄だと即座に判断を下し、和彦は迷うことなく賢吾の携帯電話を鳴らす。しかし、こんなときに限って繋がらない。そこで今度は、本宅の電話にかけてみる。電話番の組員に賢吾への取り次ぎを頼むが、今は出かけており、電話にも出られないのだという。
もどかしげな和彦の空気を感じたのか、組員がある提案をしてくる。それを聞いて自分が安堵感を抱いたことに、和彦は率直に驚いた。
頼む、と返事をすると、すぐに内線を回された。
『どうかした? せんせ――和彦から電話してくるなんて珍しいね。しかも、こんな時間に』
律儀に名を呼び直す千尋に、つい唇を緩めそうになった和彦だが、すぐに用件を切り出す。
「たった今、里見さんと電話で話したんだ」
へえ、と洩れた千尋の声は、すでに怖い響きを帯びていた。和彦は努めて冷静に、そして簡潔に、電話の内容を伝える。
「もちろん、行くつもりはないけど、組員と鉢合わせになったら大変じゃないかと思って。ぼくだけならなんとかなるけど、もし、騒ぎになって警察でも呼ばれたら……」
『本当に、和彦だけでなんとかなると思う?』
「それは……、なんとかするつもりだ」
千尋から返ってきたのはため息だった。
『里見は厄介な存在かもしれないとオヤジが言ってたけど、クリニックにまで乗り込んでくるつもりなんだったら、俺も同意見だね。和彦が押しに弱いのをいいことに、連れ出すつもりだよ。わざわざ事前に連絡してきたということは、長嶺組や総和会が出てきても引くつもりはない、って言いたいのかも』
「……お前、落ち着いてるな」
『一瞬、頭に血がのぼったけど、和彦の不安そうな声を聞いたら、俺がしっかりしないと。――大丈夫。夕方までにはオヤジと連絡が取れるだろうし、もし話せなかったとしても、こっちで最善の手を考えるよ。和彦は、自分の心配だけしてて。騒ぎになるようなことにはしないから』
まるで賢吾と話しているようで、このときばかりは千尋との十歳の年の差を忘れてしまう。だからこそ甘えたわけではないが、和彦は吐露する必要のないことまで口にしていた。
「こんなことを言えた義理じゃないけど、大事にはしないでくれ。その……、里見さんが危ない目に遭うような……」
『今言っただろ。自分の心配だけして、って。大丈夫。うちには、わかりやすい挑発に乗るような奴はいないから。とにかく和彦は、いつも通り仕事をしていればいいから』
無神経なことを言ってしまったと後悔を噛み締めながら、うん、と応じる。
和彦は電話を切ると、その場にうずくまりたい衝動に駆られたが、残念ながらもう昼休みは終わりだ。携帯電話をアタッシェケースに放り込むと、足を引きずるようにして仮眠室を出た。
スタッフたちが帰ったあと、いつも以上に念入りにクリニックを見て回ってから、のろのろと帰り仕度をしていると、インターフォンが鳴った。
和彦は応対せず、マフラーを首に巻く。すると、廊下を歩く足音が近づいてきて、待合室に里見が姿を見せた。何事もなかったような穏やかな微笑みを向けられ、なぜかゾッとしてしまう。里見が、見知らぬ男のように感じられた。
「――ここが、君の職場か」
里見がゆっくりと辺りを見回す。和彦は、ソファに置いたアタッシェケースを取り上げると、里見を待合室から押し出そうとする。
「里見さん、もう閉めるから、外に出よう」
「君以外誰もいないなら、少し中を見てみたいな」
「困るっ」
「困る? どうして、きれいなクリニックじゃないか」
「ここは……、ぼくのものじゃないから、勝手なことはできない。それに、見たこと全部父さんに報告するんだろう。里見さん」
里見は返事をせず、少し困ったような顔をした。和彦の頑なさに気づいたのかもしれない。
「……じゃあ、食事に行こうか。何か食べたいものが――」
「食事には行けない。これから帰るんだ。待ってる人がいるし」
「帰したくないな。君を〈オンナ〉にしている連中のところになんて」
さりげなく里見の手が肩にかかり、和彦は咄嗟に払い退ける。本当は告げるつもりはなかったのだが、一瞬見せた里見の傷ついたような表情に、むしょうに腹が立った。
「関わってほしくないとぼくが何回言っても、里見さんは聞いてくれないだろうね。ぼくが、悪い男たちに騙されて、脅されて、身動きが取れなくなっていると思って……、そう信じたいんだろうから」
「実際、そうだろう」
和彦の中に、里見と二人きりで会うという選択肢はまったくなかった。
もう一度里見に連絡を取るのは無駄だと即座に判断を下し、和彦は迷うことなく賢吾の携帯電話を鳴らす。しかし、こんなときに限って繋がらない。そこで今度は、本宅の電話にかけてみる。電話番の組員に賢吾への取り次ぎを頼むが、今は出かけており、電話にも出られないのだという。
もどかしげな和彦の空気を感じたのか、組員がある提案をしてくる。それを聞いて自分が安堵感を抱いたことに、和彦は率直に驚いた。
頼む、と返事をすると、すぐに内線を回された。
『どうかした? せんせ――和彦から電話してくるなんて珍しいね。しかも、こんな時間に』
律儀に名を呼び直す千尋に、つい唇を緩めそうになった和彦だが、すぐに用件を切り出す。
「たった今、里見さんと電話で話したんだ」
へえ、と洩れた千尋の声は、すでに怖い響きを帯びていた。和彦は努めて冷静に、そして簡潔に、電話の内容を伝える。
「もちろん、行くつもりはないけど、組員と鉢合わせになったら大変じゃないかと思って。ぼくだけならなんとかなるけど、もし、騒ぎになって警察でも呼ばれたら……」
『本当に、和彦だけでなんとかなると思う?』
「それは……、なんとかするつもりだ」
千尋から返ってきたのはため息だった。
『里見は厄介な存在かもしれないとオヤジが言ってたけど、クリニックにまで乗り込んでくるつもりなんだったら、俺も同意見だね。和彦が押しに弱いのをいいことに、連れ出すつもりだよ。わざわざ事前に連絡してきたということは、長嶺組や総和会が出てきても引くつもりはない、って言いたいのかも』
「……お前、落ち着いてるな」
『一瞬、頭に血がのぼったけど、和彦の不安そうな声を聞いたら、俺がしっかりしないと。――大丈夫。夕方までにはオヤジと連絡が取れるだろうし、もし話せなかったとしても、こっちで最善の手を考えるよ。和彦は、自分の心配だけしてて。騒ぎになるようなことにはしないから』
まるで賢吾と話しているようで、このときばかりは千尋との十歳の年の差を忘れてしまう。だからこそ甘えたわけではないが、和彦は吐露する必要のないことまで口にしていた。
「こんなことを言えた義理じゃないけど、大事にはしないでくれ。その……、里見さんが危ない目に遭うような……」
『今言っただろ。自分の心配だけして、って。大丈夫。うちには、わかりやすい挑発に乗るような奴はいないから。とにかく和彦は、いつも通り仕事をしていればいいから』
無神経なことを言ってしまったと後悔を噛み締めながら、うん、と応じる。
和彦は電話を切ると、その場にうずくまりたい衝動に駆られたが、残念ながらもう昼休みは終わりだ。携帯電話をアタッシェケースに放り込むと、足を引きずるようにして仮眠室を出た。
スタッフたちが帰ったあと、いつも以上に念入りにクリニックを見て回ってから、のろのろと帰り仕度をしていると、インターフォンが鳴った。
和彦は応対せず、マフラーを首に巻く。すると、廊下を歩く足音が近づいてきて、待合室に里見が姿を見せた。何事もなかったような穏やかな微笑みを向けられ、なぜかゾッとしてしまう。里見が、見知らぬ男のように感じられた。
「――ここが、君の職場か」
里見がゆっくりと辺りを見回す。和彦は、ソファに置いたアタッシェケースを取り上げると、里見を待合室から押し出そうとする。
「里見さん、もう閉めるから、外に出よう」
「君以外誰もいないなら、少し中を見てみたいな」
「困るっ」
「困る? どうして、きれいなクリニックじゃないか」
「ここは……、ぼくのものじゃないから、勝手なことはできない。それに、見たこと全部父さんに報告するんだろう。里見さん」
里見は返事をせず、少し困ったような顔をした。和彦の頑なさに気づいたのかもしれない。
「……じゃあ、食事に行こうか。何か食べたいものが――」
「食事には行けない。これから帰るんだ。待ってる人がいるし」
「帰したくないな。君を〈オンナ〉にしている連中のところになんて」
さりげなく里見の手が肩にかかり、和彦は咄嗟に払い退ける。本当は告げるつもりはなかったのだが、一瞬見せた里見の傷ついたような表情に、むしょうに腹が立った。
「関わってほしくないとぼくが何回言っても、里見さんは聞いてくれないだろうね。ぼくが、悪い男たちに騙されて、脅されて、身動きが取れなくなっていると思って……、そう信じたいんだろうから」
「実際、そうだろう」
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