血と束縛と

北川とも

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第41話

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 十二月になるのを待ちかねていたように、クリニックのあちこちにはクリスマスに向けた準備が行われていた。十一月のうちにスタッフたちが自主的に企画していたもので、和彦は許可を出すと同時に、買い出し用の経費も渡しておいたのだ。
 受付カウンターやテーブルの上に置かれていた小物はクリスマス仕様のものに置き換えられ、今朝はとうとう、クリスマスツリーが待合室に設置された。スタッフが、実家に仕舞い込まれていたというものを持ってきてくれたのだ。
 遅めの昼食から戻ってきた和彦は、手袋をコートのポケットに入れながら待合室を通り抜けようとして、ふと気が変わった。
 パーツを組み立てただけのまだ味気ないクリスマスツリーの前に立つ。きらびやかなオーナメントや電飾はまだないが、それでもなかなかの存在感だ。これから数日ほどかけて飾り付けを行うということで、自分でも意外なほど楽しみにしていた。
「あっ」
 和彦は思わず声を洩らす。自宅マンションに仕舞ってある、昨年購入したクリスマスツリーを思い出した。
 一人いそいそと飾り付けをしている最中に賢吾がやってきて、その後、自分たちがどんな行為に耽ったのか、艶めかしい記憶も蘇り、わずかに頬が熱くなる。
 今年は、クリスマスで浮かれている場合ではないだろう。年末が近づくにつれ、ひどい憂鬱に苛まれる自身の姿が想像できた。いや、そもそも昨年も、今ぐらいの時期に和彦は塞ぎ込んでいた。しかも理由は、やはり実家絡みだった。
 仮眠室に入ると、コートをハンガーに掛けてからベッドに腰掛ける。週末の数々の出来事があまりに強烈すぎて、かえって現実感を奪っていく。本当に、夢でも見ていたような感覚なのだ。
 いつものように長嶺の本宅で、長嶺の男たちに過保護にされていることだけが現実で、それ以外のことは〈悪い〉夢で――。
 和彦はハッとして、慌てて立ち上がる。アタッシェケースに入れたままの携帯電話を取り出した。本来は、里見との連絡用として渡されたものだが、今では実家との連絡用となっている携帯電話だ。
 本宅で過ごしている今は、長嶺父子に対する遠慮のような気持ちがあり、電源を切ったままにしていた。
 決して里見の存在を忘れていたわけではない。ただ心のどこかで、今の生活を掻き乱す者として、考えることを避けていたかもしれない。
 携帯電話の電源を入れると、案の定、里見から何通ものメールが届いていた。和彦を気遣う文面からは、昔からよく知る里見の優しさが滲み出ている。
 その優しさが、怖くもあった。和彦に優しい情愛を注ぎ続けてくれるひとは、一方で、ひどく残酷な行為にも及んでいるのだ。よりにもよって、和彦とよく似た面立ちの、兄の英俊に対して。
 最新のメールは、今朝届いたものだった。目を通した和彦は激しく動揺し、後先考えないまま里見に電話をかける。すぐに呼出し音が途切れ、柔らかな声が応じた。
『――やっと連絡をくれた』
 咄嗟に言葉が出なかった。自分でも信じがたかったが、一瞬和彦の鼓膜を撫でたのは、紛うことなき嫌悪感だった。反射的に携帯電話を自分の耳から引き剥がすと、電話の向こうから和彦を呼ぶ微かな声がする。慌てて携帯電話を耳に当て直した。
「ごめん、里見さん……。今、仕事中だよね」
『かまわないよ。だけどちょっと待って。場所を移動するから』
 数十秒の間を置いてから、会話を再開する。
『今朝のメールを見て、連絡をくれたんだよね』
「ごめん……。金曜日からずっとバタバタしていて、今やっと携帯の電源を入れたんだ。そうしたら……。本気、なの?」
『本気だよ。今晩、君のクリニックまで迎えに行くから、一緒に夕食をとろう』
「ダメだよっ。ここに近づくなんて、何考えてるんだっ」
 反射的に声を荒らげた和彦に対して、ゾッとするほど穏やかな口調で里見が問いかけてくる。
『君がそんなに怒るのは、〈おれ〉の身を心配してくれているからかな。それとも、自分の生活を掻き乱されることを恐れているから?』
 自分の中でそのどちらに比重が傾いているか、見透かされた気がした。
「……里見さん、怖い人になったみたいだ」
『先週、おれが言ったことは本気だ。君をこちら側に連れ戻すために、おれはできることをする。必要とあれば君の今の生活にも介入していくよ。なんといってもおれは、君のお父さんの代理人だ。職場を見てみたいという希望を、そちら側は否とは言えないだろう』
 クリニックが終わった頃に迎えに行くと里見に念を押され、電話を終える。呆然としたのはわずかな間だった。今の自分にはそんな余裕すらないことに気づき、動揺しつつ懸命に思考を巡らせる。
 夕方、もしこのクリニックに里見が訪れ、和彦を食事に誘い出したとして、外には長嶺組の組員が待機している。賢吾の命令を忠実に守り、和彦の護衛を務めている男たちが、里見を見逃すはずがなかった。里見は、和彦が囚われの身だと認識しており、衝突しないはずがない。

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