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第41話
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「これまでの経緯はあるが、総和会を信頼していると示すために、俺はお前の身を預けた。だが、結果はどうだ? 総和会の代紋を背負っている南郷は、お前が泣こうが叫ぼうが本宅に連れて来るべきだったし、そうできたはずだった。そうしなかったのは、憔悴したお前の姿に絆されたからじゃない。南郷は――」
賢吾が視線を向けた先には、和彦が畳んで置いたスウェットの上下がある。突き刺すように冷たい賢吾の一瞥は、不快さに満ちていた。
「薄汚い捨て犬のようだった男が、ずいぶん偉くなったもんだ……」
凄みを帯びたバリトンの呟きに、ざわりと肌が粟立つ。賢吾の怒りは本物だと、理屈ではなく理解させられる。
自分がまだ知らない賢吾の一面を見たくないと思いつつも、怒りの原因が自分にあるということに、和彦は困惑と戸惑いだけではなく、胸の奥からせり上がってくるむず痒いような感覚を覚える。
つい、賢吾の腕にそっと手をかけていた。賢吾にその手を掴まれそうになったが、寸前のところで躱す。反対に、賢吾の手を掴み寄せ、手の甲をまじまじと見つめる。指の付け根が真っ赤になって腫れていた。
「――……手、痛そうだ」
「痛いぜ。なんたって育ちがいいからな。他人を殴り慣れてないんだ」
本気で言っているのだろうかと、和彦は上目遣いで賢吾の表情をうかがう。すると、苦笑いで返された。
「やっぱり本調子じゃねーな、和彦。いつもなら澄ました顔で、そうだな、と返すところだ」
「そんな……。そうかも、しれない。頭の中がいっぱいで、上手く動いてない感じがする。でも、あんたに話したいことがあって……」
「言ったろう。込み入った話は後回しだと。どちらにしろ、俺はこれから出ないといけねーんだ。夕方までしっかり休んでおけ。話はそれからじっくり聞いてやる」
そこまで言われると、頷くしかなかった。賢吾は、もう一度和彦の頬を撫でると、部屋を出て行こうとする。この瞬間、さきほど賢吾に言われた言葉が唐突に蘇り、つい声を洩らしていた。賢吾が振り返り、わずかに首を傾げる。
「どうした?」
「えっ、あ……、思い出したんだ。前に、あんたに言われたことを」
他愛ないことだから気にしないでくれと言ったが、かえって賢吾の気を惹いてしまったようだ。薄笑いを浮かべて促される。
「いいから、言ってみろ」
「……前に一度だけ、ぼくがあんたを殴ったことがあっただろ。そのとき、あんたに言われた。自分を殴らせるのは、これが最初で最後だって……。今になって、あのとき殴った分が返ってきた」
「そういえば、そんなことがあったな。俺としては、仕返ししてやろうなんて微塵も思ってなかったんだが……。そうか、あのときはお前に嫌われていたはずだが、しっかり俺の言葉を覚えてくれていたんだな」
賢吾はわずかに表情を和らげたが、すぐに険しい顔つきとなる。しっかり休めと言い置いて客間を出て行ったが、入れ替わるように笠野がやってくる。どうやら廊下で控えていたらしい。
いかつい顔に穏やかな笑みを湛えて、風呂の準備ができたと言われ、ようやく和彦は肩から力を抜いた。
賢吾に言われたからではないが、あれこれと考えることを後回しにした和彦は、まさに泥のように眠った。入浴と軽い食事を済ませて客間に戻ると、しっかり布団が延べられており、強烈な眠気に抗えなかったのだ。
ようやく目を覚ましたときには夕方近くとなっており、とりあえず布団は畳んでおいたほうがいいのだろうかと、些細なことを真剣に考え込んでいる最中、障子の向こうから声をかけられた。
「――起きてる?」
千尋の声だった。応じようとして和彦は、自分の格好を見下ろす。脱衣所に用意されていた浴衣をそのまま着て休んでいたのだが、まだ日が落ちてもいないのにこの格好はだらしないように思えた。
「ああ、ちょっと待ってくれっ……。今、着替えるから」
枕元に置いてあったネルシャツとパンツを再び着込んでから、障子を開ける前に部屋の隅に視線を向ける。布団に入る前にはあった南郷のスウェットの上下が、いつの間にかなくなっていた。そのことに和彦はさほど驚いてはいない。賢吾の様子を目の当たりにすると、どう処分されたのかなんとなく想像がついた。
外出から戻ってきたばかりなのかスーツ姿の千尋が、和彦の顔を見るなり安堵したように息を吐き出す。
「ごめんね、ゆっくりしてたのに。でも、俺もオヤジも、少しでも早く話が聞きたくて」
「平気だ。もう十分休めたから」
客間を出てまずは、洗面所で顔を洗う。鏡で見た限り、起き抜けのわりにはまともな顔つきだったように見えた。それほど、数時間前はひどい状態だったのだ。
賢吾が視線を向けた先には、和彦が畳んで置いたスウェットの上下がある。突き刺すように冷たい賢吾の一瞥は、不快さに満ちていた。
「薄汚い捨て犬のようだった男が、ずいぶん偉くなったもんだ……」
凄みを帯びたバリトンの呟きに、ざわりと肌が粟立つ。賢吾の怒りは本物だと、理屈ではなく理解させられる。
自分がまだ知らない賢吾の一面を見たくないと思いつつも、怒りの原因が自分にあるということに、和彦は困惑と戸惑いだけではなく、胸の奥からせり上がってくるむず痒いような感覚を覚える。
つい、賢吾の腕にそっと手をかけていた。賢吾にその手を掴まれそうになったが、寸前のところで躱す。反対に、賢吾の手を掴み寄せ、手の甲をまじまじと見つめる。指の付け根が真っ赤になって腫れていた。
「――……手、痛そうだ」
「痛いぜ。なんたって育ちがいいからな。他人を殴り慣れてないんだ」
本気で言っているのだろうかと、和彦は上目遣いで賢吾の表情をうかがう。すると、苦笑いで返された。
「やっぱり本調子じゃねーな、和彦。いつもなら澄ました顔で、そうだな、と返すところだ」
「そんな……。そうかも、しれない。頭の中がいっぱいで、上手く動いてない感じがする。でも、あんたに話したいことがあって……」
「言ったろう。込み入った話は後回しだと。どちらにしろ、俺はこれから出ないといけねーんだ。夕方までしっかり休んでおけ。話はそれからじっくり聞いてやる」
そこまで言われると、頷くしかなかった。賢吾は、もう一度和彦の頬を撫でると、部屋を出て行こうとする。この瞬間、さきほど賢吾に言われた言葉が唐突に蘇り、つい声を洩らしていた。賢吾が振り返り、わずかに首を傾げる。
「どうした?」
「えっ、あ……、思い出したんだ。前に、あんたに言われたことを」
他愛ないことだから気にしないでくれと言ったが、かえって賢吾の気を惹いてしまったようだ。薄笑いを浮かべて促される。
「いいから、言ってみろ」
「……前に一度だけ、ぼくがあんたを殴ったことがあっただろ。そのとき、あんたに言われた。自分を殴らせるのは、これが最初で最後だって……。今になって、あのとき殴った分が返ってきた」
「そういえば、そんなことがあったな。俺としては、仕返ししてやろうなんて微塵も思ってなかったんだが……。そうか、あのときはお前に嫌われていたはずだが、しっかり俺の言葉を覚えてくれていたんだな」
賢吾はわずかに表情を和らげたが、すぐに険しい顔つきとなる。しっかり休めと言い置いて客間を出て行ったが、入れ替わるように笠野がやってくる。どうやら廊下で控えていたらしい。
いかつい顔に穏やかな笑みを湛えて、風呂の準備ができたと言われ、ようやく和彦は肩から力を抜いた。
賢吾に言われたからではないが、あれこれと考えることを後回しにした和彦は、まさに泥のように眠った。入浴と軽い食事を済ませて客間に戻ると、しっかり布団が延べられており、強烈な眠気に抗えなかったのだ。
ようやく目を覚ましたときには夕方近くとなっており、とりあえず布団は畳んでおいたほうがいいのだろうかと、些細なことを真剣に考え込んでいる最中、障子の向こうから声をかけられた。
「――起きてる?」
千尋の声だった。応じようとして和彦は、自分の格好を見下ろす。脱衣所に用意されていた浴衣をそのまま着て休んでいたのだが、まだ日が落ちてもいないのにこの格好はだらしないように思えた。
「ああ、ちょっと待ってくれっ……。今、着替えるから」
枕元に置いてあったネルシャツとパンツを再び着込んでから、障子を開ける前に部屋の隅に視線を向ける。布団に入る前にはあった南郷のスウェットの上下が、いつの間にかなくなっていた。そのことに和彦はさほど驚いてはいない。賢吾の様子を目の当たりにすると、どう処分されたのかなんとなく想像がついた。
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「平気だ。もう十分休めたから」
客間を出てまずは、洗面所で顔を洗う。鏡で見た限り、起き抜けのわりにはまともな顔つきだったように見えた。それほど、数時間前はひどい状態だったのだ。
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