1,051 / 1,268
第41話
(25)
しおりを挟む
障子が閉められ一人となっても、すぐにはその場から動けなかった。少しの間ぼんやりと立ち尽くしていたが、改めて自分の格好に思い至り、うろたえる。慌ててコートを脱ぐと、押入れからネルシャツとパンツを引っ張り出した。
着替えを済ませたところで和彦は、文机の上に置かれた紙袋に目を留める。この客間に置いてあるということは、自分に関係があるものだろうが、勝手に中を見ていいのだろうかと逡巡しているうちに、廊下から足音が近づいてくる。
いきなり障子が開き、賢吾が姿を見せた。数秒ほど、言葉もなく見つめ合う。
スッと賢吾の視線が動き、文机に向けられる。
「袋の中は見てみたか?」
「えっ……」
賢吾が軽くあごをしゃくったので、紙袋の中を覗き込む。
「第二遊撃隊の人間が、昨夜のうちに持ってきたんだ。佐伯俊哉から託ったということで。お前の忘れ物だそうだ」
紙袋に入っていたのは、昨夜和彦が首に巻いていたマフラーだった。慌ただしく料亭を出たため、今この瞬間まですっかり失念していた。
「マフラーだけ持ってきて、肝心のお前の居場所は知らないと言われたときは、性質の悪い冗談かと思った」
マフラーを文机の上に置いてから、和彦はおずおずと賢吾に向き直る。
「……さっき、南郷さんは、大丈夫だった、のか……?」
「お前がまっさきに言うことはそれか」
冷然とした声と眼差しに、胸の奥まで貫かれる。和彦は吐き出した息を震わせた。
「違う。そうじゃ、なくて……、あの人にあんなことして――」
「それはお前が気にすることじゃない。今、お前が何より気にしなきゃいけないことはなんだ」
あくまで賢吾の表情は静かだった。さきほど南郷を殴ったというのに、激した様子は微塵もない。だからこそ和彦は、賢吾が身の内に抱えた、冷たい、凍りつくような怒りを感じずにはいられない。
口を動かそうとするが、言葉が出ない。何から言うべきかと、頭が混乱していたのだ。気持ちと体が委縮して、意識しないまままた後ずさりそうになり、そんな自分の態度を言い訳したくなる。そしてさらに言葉が出なくなる。
痛いほどの沈黙が訪れようとしたとき、ふいに賢吾に呼ばれた。
「――和彦」
無意識のうちに視線を伏せていた和彦は、反射的に顔を上げる。その瞬間、左頬に衝撃が走り、足元がふらついた。
何が起こったのかわからないうちに顔半分が熱くなり、痺れる。呆然として賢吾を見上げると、左頬に大きなてのひらが押し当てられた。ここでようやく、頬を平手で打たれたのだと知る。
「お前を殴るのは、これが最初で最後だ。だが、この一回で俺の気持ちは伝わるはずだ」
殴ったとはいっても南郷に対してのものとはまったく違い、ずいぶん力加減をしてくれたのは明らかだ。それでも十分痛い。
賢吾から与えられた痛みだと認識した途端、たった一つの言葉が口を突いて出た。
「ごめん……」
痛む頬を優しく指でくすぐられる。
「……極道が何を言ってるんだと思うかもしれねーが、一晩お前の行方が知れなくて、心配で堪らなかった。俺の大事で可愛いオンナは、あんまりにも危なっかしい。誰かに連れ去られて、もう二度と会えないんじゃないかって、嫌でも考える」
和彦はもう一度、今度は消え入りそうな声で謝罪する。
労わるように頬を撫でられ、賢吾の手の感触だとやっと実感していた。その途端、一晩の間に自分に起こった出来事が一気に蘇り、食い入るように賢吾を見つめる。
「あの……」
「おおよそのことは、オヤジから聞いている。昨夜のうちに佐伯俊哉が連絡してきたそうだ。手前勝手な交渉事はこちら側の専売特許だと思ったが、お前の父親もなかなかのもんだ。いや、手前勝手ではないか。ヤクザに捕らわれた息子を、連れ戻そうとしているんだとしたら」
ため息をついた賢吾が、和彦の表情に気づいたのか、ふっと眼差しを和らげる。
「込み入った話は後回しだ。今はとにかく、風呂に入ってから体を休めろ。朝メシはきちんと食ったのか? 今なら笠野が準備している最中だから、食いたいものがあったらなんでも言え。喜んで作ってくれるぞ」
現金なもので、賢吾に言われて初めて空腹を自覚する。同時に和彦は、自分はようやく〈帰ってきた〉のだと思った。だからといって、賢吾の優しさに無条件にすがるわけにはいかない。
「……昨夜はいろいろあったんだ。あんたに本気で殴られても仕方のないことも……」
賢吾は、和彦の左頬の状態が気になるのか、再び撫でてくる。もしかすると赤くなっているのかもしれない。優しい手つきとは裏腹に、どこか突き放したような冷たい口調で賢吾が言う。
着替えを済ませたところで和彦は、文机の上に置かれた紙袋に目を留める。この客間に置いてあるということは、自分に関係があるものだろうが、勝手に中を見ていいのだろうかと逡巡しているうちに、廊下から足音が近づいてくる。
いきなり障子が開き、賢吾が姿を見せた。数秒ほど、言葉もなく見つめ合う。
スッと賢吾の視線が動き、文机に向けられる。
「袋の中は見てみたか?」
「えっ……」
賢吾が軽くあごをしゃくったので、紙袋の中を覗き込む。
「第二遊撃隊の人間が、昨夜のうちに持ってきたんだ。佐伯俊哉から託ったということで。お前の忘れ物だそうだ」
紙袋に入っていたのは、昨夜和彦が首に巻いていたマフラーだった。慌ただしく料亭を出たため、今この瞬間まですっかり失念していた。
「マフラーだけ持ってきて、肝心のお前の居場所は知らないと言われたときは、性質の悪い冗談かと思った」
マフラーを文机の上に置いてから、和彦はおずおずと賢吾に向き直る。
「……さっき、南郷さんは、大丈夫だった、のか……?」
「お前がまっさきに言うことはそれか」
冷然とした声と眼差しに、胸の奥まで貫かれる。和彦は吐き出した息を震わせた。
「違う。そうじゃ、なくて……、あの人にあんなことして――」
「それはお前が気にすることじゃない。今、お前が何より気にしなきゃいけないことはなんだ」
あくまで賢吾の表情は静かだった。さきほど南郷を殴ったというのに、激した様子は微塵もない。だからこそ和彦は、賢吾が身の内に抱えた、冷たい、凍りつくような怒りを感じずにはいられない。
口を動かそうとするが、言葉が出ない。何から言うべきかと、頭が混乱していたのだ。気持ちと体が委縮して、意識しないまままた後ずさりそうになり、そんな自分の態度を言い訳したくなる。そしてさらに言葉が出なくなる。
痛いほどの沈黙が訪れようとしたとき、ふいに賢吾に呼ばれた。
「――和彦」
無意識のうちに視線を伏せていた和彦は、反射的に顔を上げる。その瞬間、左頬に衝撃が走り、足元がふらついた。
何が起こったのかわからないうちに顔半分が熱くなり、痺れる。呆然として賢吾を見上げると、左頬に大きなてのひらが押し当てられた。ここでようやく、頬を平手で打たれたのだと知る。
「お前を殴るのは、これが最初で最後だ。だが、この一回で俺の気持ちは伝わるはずだ」
殴ったとはいっても南郷に対してのものとはまったく違い、ずいぶん力加減をしてくれたのは明らかだ。それでも十分痛い。
賢吾から与えられた痛みだと認識した途端、たった一つの言葉が口を突いて出た。
「ごめん……」
痛む頬を優しく指でくすぐられる。
「……極道が何を言ってるんだと思うかもしれねーが、一晩お前の行方が知れなくて、心配で堪らなかった。俺の大事で可愛いオンナは、あんまりにも危なっかしい。誰かに連れ去られて、もう二度と会えないんじゃないかって、嫌でも考える」
和彦はもう一度、今度は消え入りそうな声で謝罪する。
労わるように頬を撫でられ、賢吾の手の感触だとやっと実感していた。その途端、一晩の間に自分に起こった出来事が一気に蘇り、食い入るように賢吾を見つめる。
「あの……」
「おおよそのことは、オヤジから聞いている。昨夜のうちに佐伯俊哉が連絡してきたそうだ。手前勝手な交渉事はこちら側の専売特許だと思ったが、お前の父親もなかなかのもんだ。いや、手前勝手ではないか。ヤクザに捕らわれた息子を、連れ戻そうとしているんだとしたら」
ため息をついた賢吾が、和彦の表情に気づいたのか、ふっと眼差しを和らげる。
「込み入った話は後回しだ。今はとにかく、風呂に入ってから体を休めろ。朝メシはきちんと食ったのか? 今なら笠野が準備している最中だから、食いたいものがあったらなんでも言え。喜んで作ってくれるぞ」
現金なもので、賢吾に言われて初めて空腹を自覚する。同時に和彦は、自分はようやく〈帰ってきた〉のだと思った。だからといって、賢吾の優しさに無条件にすがるわけにはいかない。
「……昨夜はいろいろあったんだ。あんたに本気で殴られても仕方のないことも……」
賢吾は、和彦の左頬の状態が気になるのか、再び撫でてくる。もしかすると赤くなっているのかもしれない。優しい手つきとは裏腹に、どこか突き放したような冷たい口調で賢吾が言う。
42
お気に入りに追加
1,391
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


朝起きたら幼なじみと番になってた。
オクラ粥
BL
寝ぼけてるのかと思った。目が覚めて起き上がると全身が痛い。
隣には昨晩一緒に飲みにいった幼なじみがすやすや寝ていた
思いつきの書き殴り
オメガバースの設定をお借りしてます
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる