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第41話
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かつて自分が受けていた里見からの優しい囁きと、情熱的な愛撫を、今は英俊が受けている。それがどんな光景であるか、思い描くのは容易だった。
大事なものを奪われた。
そう、和彦自身が認めたとき、胸を切り裂かれ、血が噴き出したような痛みと喪失感を覚えた。その感触があまりにリアルなのは、意識が夢の中を漂っているからだ。悪い夢の中を。
急に息苦しさに襲われて無我夢中でもがくが、もどかしいほどに手足は動かず、声すら上げられない。その間にも、和彦の中で競り上がってくる感情の塊があった。
それは、憎悪や嫉妬という名を持つかもしれない。噴き出した血の代わりに体を満たし、開いた胸を塞いでいくそれらに、自分が支配されてしまいそうな予感があった。
「い、やだっ」
叫びが、声となって口を突いて出る。それがきっかけとなって目が覚めていた。
和彦は思い切り息を吸い込み、瞬きもせずに明るい天井を見上げる。じわじわと手足に感覚が戻っていき、全身から汗が噴き出す。初めての場所で、慣れない硬いベッドで横になっていたせいか、体が強張り、節々が痛い。眠りながらも、緊張が解けていなかったのかもしれない。
明かりの眩しさに目を瞬かせながら、ぎこちなく息を吐き出す。今日起こった出来事の何もかもが夢であればよかったのにと、子供じみたことを願った次の瞬間、嗚咽が漏れた。夢の中で号泣した余韻を引きずっており、高ぶった感情を制御できなかった。
「ふっ……」
ぐっと喉を締め付けられたようになり、行き場を失ったものが、一気に両目から溢れ出してきた。こめかみを伝い落ちる熱い液体の感触に、和彦はそっと指先を這わせる。泣いているという自覚はなかったが、確かに涙は出ていた。
涙の理由は、いくつもあるだろう。悲しさと悔しさ、もどかしさと切なさ。怒りも含まれているかもしれない。感情の区別はつくが、それが誰に向けられているものか、考えたくはなかった。
和彦は震えを帯びた息を吐き出し、その拍子に小さくしゃくり上げる。それがひどく子供っぽく感じられ、一人恥じ入る。
そう、部屋には自分一人しかいないと思っていたのだ。
「――あんたは、泣かない人間なのかと思っていた」
前触れもなく、傍らから話しかけられる。驚きのあまり体を硬直させた和彦は、わずかに視線を動かすことすらできなかった。すると、話しかけてきた人物のほうから、わざわざ顔を覗き込んでくる。出かけたはずの南郷だ。
南郷は、興味深そうに和彦の泣き顔を眺め、唇を緩める。加虐的で、性質の悪い表情だった。
なんの反応もできず、呆然として見上げる和彦に、南郷が片手を伸ばしてくる。口を塞がれるか、首でも絞められるのではないかと、一瞬ではあったが強烈な恐怖を覚えた。
大きなてのひらが頬に押し当てられ、分厚く冷たい感触にますます体を硬直させる。南郷は、和彦の怯えを堪能するように、無造作に頬を撫で、前髪を掻き上げてから、濡れた目元を指で擦った。
「自分の順調な人生を奪われて、泣き暮らすわけでもなく、むしろこっちの世界に馴染んでいるぐらいだ。とんでもなく図太くて、ふてぶてしい人間なんだなと。なんでも持っていて、与えられてきたからこその、感性の鈍さなのかとも考えなくはなかった」
淡々とした口調で語りながら、南郷は何度も目元からこめかみにかけて、指を行き来させる。
「そのあんたが、ポロポロと涙をこぼしていた。――品のいい見た目とは裏腹に、性悪女のように肝が据わってしたたかで、男を何人も翻弄しているあんたが、だ。その理由を、知りたいと思うのは当然だと思わないか?」
「……出かけたんじゃ、なかったんですか」
ようやく和彦が言葉を発すると、南郷はわずかに眉をひそめた。
「また、俺の質問に対して、質問で返したな。隊の人間ならぶん殴るところだが、あんた相手だと、そうもいかない」
「だったら、答えなくていいので、出て行ってください」
「――コンビニでいろいろ買ってきたついでに、仕事の連絡を何本かしていた。あんたを連れ出すとなったら……、ああ、違うな。あんたのわがままに、俺がつき合っているんだ。とにかく、大事にならないよう連絡は必要だ」
意趣返しのつもりか、南郷は出ていくどころか、折り畳みベッドの端へと腰掛けた。それでなくても狭いベッドだ。横になったままの和彦は、身の危険を感じざるをえない。ベッドの縁に手をかけ、いつでも行動を起こせるよう構える。
一方の南郷は、暑いな、と小さく洩らし、着ているジャケットを脱いだ。ネクタイは、ここに来る途中、車の中で忌々しげに外していた。粗暴なヤクザ者を演じるためなのか、派手めなスーツを崩して着ていることの多い南郷だが、さすがに今日は普通のスーツ姿だ。
大事なものを奪われた。
そう、和彦自身が認めたとき、胸を切り裂かれ、血が噴き出したような痛みと喪失感を覚えた。その感触があまりにリアルなのは、意識が夢の中を漂っているからだ。悪い夢の中を。
急に息苦しさに襲われて無我夢中でもがくが、もどかしいほどに手足は動かず、声すら上げられない。その間にも、和彦の中で競り上がってくる感情の塊があった。
それは、憎悪や嫉妬という名を持つかもしれない。噴き出した血の代わりに体を満たし、開いた胸を塞いでいくそれらに、自分が支配されてしまいそうな予感があった。
「い、やだっ」
叫びが、声となって口を突いて出る。それがきっかけとなって目が覚めていた。
和彦は思い切り息を吸い込み、瞬きもせずに明るい天井を見上げる。じわじわと手足に感覚が戻っていき、全身から汗が噴き出す。初めての場所で、慣れない硬いベッドで横になっていたせいか、体が強張り、節々が痛い。眠りながらも、緊張が解けていなかったのかもしれない。
明かりの眩しさに目を瞬かせながら、ぎこちなく息を吐き出す。今日起こった出来事の何もかもが夢であればよかったのにと、子供じみたことを願った次の瞬間、嗚咽が漏れた。夢の中で号泣した余韻を引きずっており、高ぶった感情を制御できなかった。
「ふっ……」
ぐっと喉を締め付けられたようになり、行き場を失ったものが、一気に両目から溢れ出してきた。こめかみを伝い落ちる熱い液体の感触に、和彦はそっと指先を這わせる。泣いているという自覚はなかったが、確かに涙は出ていた。
涙の理由は、いくつもあるだろう。悲しさと悔しさ、もどかしさと切なさ。怒りも含まれているかもしれない。感情の区別はつくが、それが誰に向けられているものか、考えたくはなかった。
和彦は震えを帯びた息を吐き出し、その拍子に小さくしゃくり上げる。それがひどく子供っぽく感じられ、一人恥じ入る。
そう、部屋には自分一人しかいないと思っていたのだ。
「――あんたは、泣かない人間なのかと思っていた」
前触れもなく、傍らから話しかけられる。驚きのあまり体を硬直させた和彦は、わずかに視線を動かすことすらできなかった。すると、話しかけてきた人物のほうから、わざわざ顔を覗き込んでくる。出かけたはずの南郷だ。
南郷は、興味深そうに和彦の泣き顔を眺め、唇を緩める。加虐的で、性質の悪い表情だった。
なんの反応もできず、呆然として見上げる和彦に、南郷が片手を伸ばしてくる。口を塞がれるか、首でも絞められるのではないかと、一瞬ではあったが強烈な恐怖を覚えた。
大きなてのひらが頬に押し当てられ、分厚く冷たい感触にますます体を硬直させる。南郷は、和彦の怯えを堪能するように、無造作に頬を撫で、前髪を掻き上げてから、濡れた目元を指で擦った。
「自分の順調な人生を奪われて、泣き暮らすわけでもなく、むしろこっちの世界に馴染んでいるぐらいだ。とんでもなく図太くて、ふてぶてしい人間なんだなと。なんでも持っていて、与えられてきたからこその、感性の鈍さなのかとも考えなくはなかった」
淡々とした口調で語りながら、南郷は何度も目元からこめかみにかけて、指を行き来させる。
「そのあんたが、ポロポロと涙をこぼしていた。――品のいい見た目とは裏腹に、性悪女のように肝が据わってしたたかで、男を何人も翻弄しているあんたが、だ。その理由を、知りたいと思うのは当然だと思わないか?」
「……出かけたんじゃ、なかったんですか」
ようやく和彦が言葉を発すると、南郷はわずかに眉をひそめた。
「また、俺の質問に対して、質問で返したな。隊の人間ならぶん殴るところだが、あんた相手だと、そうもいかない」
「だったら、答えなくていいので、出て行ってください」
「――コンビニでいろいろ買ってきたついでに、仕事の連絡を何本かしていた。あんたを連れ出すとなったら……、ああ、違うな。あんたのわがままに、俺がつき合っているんだ。とにかく、大事にならないよう連絡は必要だ」
意趣返しのつもりか、南郷は出ていくどころか、折り畳みベッドの端へと腰掛けた。それでなくても狭いベッドだ。横になったままの和彦は、身の危険を感じざるをえない。ベッドの縁に手をかけ、いつでも行動を起こせるよう構える。
一方の南郷は、暑いな、と小さく洩らし、着ているジャケットを脱いだ。ネクタイは、ここに来る途中、車の中で忌々しげに外していた。粗暴なヤクザ者を演じるためなのか、派手めなスーツを崩して着ていることの多い南郷だが、さすがに今日は普通のスーツ姿だ。
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