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第41話
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和彦は重苦しいため息を一つつくと、懐中電灯を手に部屋を出て、一階へと下りる。すでに廊下の電気は消されており、懐中電灯で辺りを照らす。さすがにシャワーを浴びる気分ではなく、ひとまず、南郷が言っていた〈給食室〉を探し当て、中に入ってみた。
予想はついていたが、ようは炊事場で、ここで子供たちの食事を作っていたらしい。電気をつけると、広い作業台がまっさきに視界に入る。二階の部屋とは違い、こちらは片付いているようだった。小型冷蔵庫と電気ポットがあるぐらいで、調理器具や食器は見当たらない。
作業台の上にスーパーの袋が置いてあり、カップラーメンの他に、割り箸や使い捨て容器が入っている。そこで和彦は、自分が俊哉との食事で、料理にほとんど箸をつけられなかったことを思い出す。もっとも、空腹感はなかった。
足元から這い上がってくる寒さに、大きく体を震わせる。水を取ってくるだけのつもりだったが、気が変わった。ペットボトルの水を電気ポットに注ぐと、湯が沸くまでの間に、シャワー室で顔を洗ってくる。
本当はカップがあればよかったのだが、いくら探しても見つけることはできず、仕方なく紙コップに白湯を注いで二階に戻る。子供用の小さなイスをベッドの傍らに置き、それをテーブル代わりにした。
ベッドに腰掛けた途端、まるで鉛でも背負わされたように体が重くなる。同時に、部屋の明かりが急に眩しく感じられ、忘れかけていた頭痛がぶり返す。せめて頭上の明かりだけでも消そうと思ったが、立ち上がれなかった。
肉体的にも精神的にも、とうに限界を迎えていたことを、ようやく和彦は悟る。そうなると、何もかもどうでもよくなってきた。自分を取り巻く環境への、尽きることのない憂慮も、男たちへの配慮も。何も、考えたくなかった。
今は――、と声に出すことなく呟き、和彦は紙コップを取り上げる。息を吹きかけながら少しずつ白湯を口に含む。部屋は暖まってきたというのに、体の内側がひどく冷えているようだった。
紙コップを空にすると、もそもそと毛布を広げてベッドに横になる。強い眩暈に襲われて、きつく目を閉じる。
まったく眠気は感じていなかったが、現実から逃れるように意識が急速に遠退いた。
幼かった和彦が一時期、口がきけなくなったことがあったと、父方の親戚から教えられたことがある。
なぜ、そうなったのかは不明で、とにかく一言も声を発しなくなり、自分の意思でそうしているのか、それとも心因性のものなのか、それすらはっきりしなかったらしい。らしい、というのは、病院で検査を受けたかどうかを、俊哉が明らかにしなかったからだそうだ。
再び親戚たちが集まったとき、和彦は何事もなかったように話しており、言葉に遅れも見られなかったため、それ以上の騒ぎになることはなく、笑い話とまではいかないまでも、他愛ない思い出話の一つになっていったのだ。
和彦には、自分がそんな厄介な状態にあったという記憶はない。幼児期の乏しい記憶はほぼ、佐伯家の広い家の、持て余すほど広い自室で、何をするでもなくぼんやりとしていたことで占められている。
両親は多忙で、和彦に構うことはなく、幼稚園の送り迎えをしてくれていた家政婦は、優しくはあったが、自分の仕事をこなすことが優先で、一人でおとなしくしている和彦の遊び相手までは手が回らなかったようだ。
毎日、和彦はぼんやりとベッドに座り込んでいたが、そんな日々が一変する出来事があった。
いつものように過ごしていた和彦に、本を突き出してきた人物がいた。英俊だ。小学校の図書室で借りてきたという、就学前の子供が読むには少々難しい本だった。何か言葉をかけるでもなく、本を突き出した兄の意図を、幼かった和彦には汲み取ることはできなかった。
英俊は、不機嫌な表情を浮かべながら、強引に本を和彦に押し付けて、そのまま部屋を出ていった。かろうじて、ひらがなは読めていたため、ふりがなを振ってある本を、時間がかかりながらも読み終えることはできた。すると英俊はまた、新しい本を借りてきてくれた。相変わらず、言葉もなく押し付けてきたのだ。
何度かそんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか和彦の部屋には本棚が置かれ、そこにぎっしりと本が並ぶようになった。きっと英俊が、俊哉に何かしら提言をしてくれたのだろうと、子供ながらに察することはできた。
痛みを与え続けてきた英俊を恐れ、苦手としてきたが、それでも、いなくなってほしいと願ったことはない。複雑な関係にある〈弟〉に対して、英俊が不器用な優しさを示してくれたことがあると、知っているからだ。
このまま、互いを理解することなく、距離が縮まらないまま、歪な兄弟関係がずっと続いていくはずだった。だが――。
予想はついていたが、ようは炊事場で、ここで子供たちの食事を作っていたらしい。電気をつけると、広い作業台がまっさきに視界に入る。二階の部屋とは違い、こちらは片付いているようだった。小型冷蔵庫と電気ポットがあるぐらいで、調理器具や食器は見当たらない。
作業台の上にスーパーの袋が置いてあり、カップラーメンの他に、割り箸や使い捨て容器が入っている。そこで和彦は、自分が俊哉との食事で、料理にほとんど箸をつけられなかったことを思い出す。もっとも、空腹感はなかった。
足元から這い上がってくる寒さに、大きく体を震わせる。水を取ってくるだけのつもりだったが、気が変わった。ペットボトルの水を電気ポットに注ぐと、湯が沸くまでの間に、シャワー室で顔を洗ってくる。
本当はカップがあればよかったのだが、いくら探しても見つけることはできず、仕方なく紙コップに白湯を注いで二階に戻る。子供用の小さなイスをベッドの傍らに置き、それをテーブル代わりにした。
ベッドに腰掛けた途端、まるで鉛でも背負わされたように体が重くなる。同時に、部屋の明かりが急に眩しく感じられ、忘れかけていた頭痛がぶり返す。せめて頭上の明かりだけでも消そうと思ったが、立ち上がれなかった。
肉体的にも精神的にも、とうに限界を迎えていたことを、ようやく和彦は悟る。そうなると、何もかもどうでもよくなってきた。自分を取り巻く環境への、尽きることのない憂慮も、男たちへの配慮も。何も、考えたくなかった。
今は――、と声に出すことなく呟き、和彦は紙コップを取り上げる。息を吹きかけながら少しずつ白湯を口に含む。部屋は暖まってきたというのに、体の内側がひどく冷えているようだった。
紙コップを空にすると、もそもそと毛布を広げてベッドに横になる。強い眩暈に襲われて、きつく目を閉じる。
まったく眠気は感じていなかったが、現実から逃れるように意識が急速に遠退いた。
幼かった和彦が一時期、口がきけなくなったことがあったと、父方の親戚から教えられたことがある。
なぜ、そうなったのかは不明で、とにかく一言も声を発しなくなり、自分の意思でそうしているのか、それとも心因性のものなのか、それすらはっきりしなかったらしい。らしい、というのは、病院で検査を受けたかどうかを、俊哉が明らかにしなかったからだそうだ。
再び親戚たちが集まったとき、和彦は何事もなかったように話しており、言葉に遅れも見られなかったため、それ以上の騒ぎになることはなく、笑い話とまではいかないまでも、他愛ない思い出話の一つになっていったのだ。
和彦には、自分がそんな厄介な状態にあったという記憶はない。幼児期の乏しい記憶はほぼ、佐伯家の広い家の、持て余すほど広い自室で、何をするでもなくぼんやりとしていたことで占められている。
両親は多忙で、和彦に構うことはなく、幼稚園の送り迎えをしてくれていた家政婦は、優しくはあったが、自分の仕事をこなすことが優先で、一人でおとなしくしている和彦の遊び相手までは手が回らなかったようだ。
毎日、和彦はぼんやりとベッドに座り込んでいたが、そんな日々が一変する出来事があった。
いつものように過ごしていた和彦に、本を突き出してきた人物がいた。英俊だ。小学校の図書室で借りてきたという、就学前の子供が読むには少々難しい本だった。何か言葉をかけるでもなく、本を突き出した兄の意図を、幼かった和彦には汲み取ることはできなかった。
英俊は、不機嫌な表情を浮かべながら、強引に本を和彦に押し付けて、そのまま部屋を出ていった。かろうじて、ひらがなは読めていたため、ふりがなを振ってある本を、時間がかかりながらも読み終えることはできた。すると英俊はまた、新しい本を借りてきてくれた。相変わらず、言葉もなく押し付けてきたのだ。
何度かそんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか和彦の部屋には本棚が置かれ、そこにぎっしりと本が並ぶようになった。きっと英俊が、俊哉に何かしら提言をしてくれたのだろうと、子供ながらに察することはできた。
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このまま、互いを理解することなく、距離が縮まらないまま、歪な兄弟関係がずっと続いていくはずだった。だが――。
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