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第41話
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そしてもう一つ、夜更けにもかかわらず、里見の部屋に誰かが訪れた気配を、和彦は電話越しに感じ取ったことがあったが、おそらく英俊だったのだろう。
それぞれの出来事は他愛なく、気にかけるほどでもなかったが、積み重ねていくことで、和彦から否定の言葉を奪ってしまう。
どうしてそんなことを自分に告げるのかと、すがるように俊哉を見る。すでに、いつもの穏やかな笑みを口元に湛えた俊哉だが、口にしたのは苛烈きわまる内容だった。
「――わたしは、里見がお前に向ける恋着と執着を買った。お前をこちらに連れ戻すには、相応の〈情〉が必要だろう。それを持っているのが、里見だ。子供だったお前を大事に守りながら、大人にもした特別な男だ。お前も、彼には特別な想いがあるだろう」
「だからって、里見さんを巻き込むなんて、危険すぎるっ」
「綺麗事を言う前に、考えてみたらどうだ。大事な男を、さんざんお前を痛めつけてきた英俊に奪われていいのか?」
俊哉の囁きには、異様な力強さと熱がこもっていた。和彦の中から、どす黒い感情を引きずり出そうとしているかのように。
頭と心が掻き乱される。ふいに吐き気を覚えた和彦は咄嗟に顔を背け、きつく目を閉じる。考えたくもないのに、一緒にいる英俊と里見の姿が次々と瞼の裏に映し出され、胸が痛くなった。
「里見のことは、総和会に連絡しておこう。わたしの代理人として接し、手出しはするなと。あの化け狐も、否とは言うまい。なんといっても、わたしが誠心誠意、頼むんだ。ふふっ、〈そういうこと〉が好きな男だ、あれは」
ここで、引き戸の向こうから急かす声がする。のろのろと首を巡らせた和彦は、俊哉を見ることなくコートを取り上げる。自分の中で処理しきれる情報と感情の容量を超えてしまい、言葉が出てこなかった。
そのまま部屋を出て行こうとすると、背後から俊哉に言われた。
「年末年始に、お前とまた会えることを楽しみにしているぞ。みんな、な」
和彦は振り返ることなく、黙って部屋をあとにした。
表と裏の世界の境界が曖昧になっていく――。
俊哉の垂らした毒液がじわじわと、今、和彦が生きている世界を侵食しているのだ。息苦しくなってもがき苦しみながら和彦が逃げ出してくるのを、待ち構えているのかもしれない。
走行する車の外に目を向けたまま、さきほどまでの俊哉と里見とのやり取りを思い返す。
気が重くなるばかりで、この憂鬱から逃れられるならいっそ消えてしまいたいと、ふっと考えてしまう。
もしそうなったら、自分を大事にしてくれている男たちにもう会えなくなるのだと、当然のことに気づき、数瞬あとに罪悪感に襲われる。それと、喪失感も。
そんな和彦の目に、人工の光に溢れた夜の街はきらびやかで、毒々しいほど華やかに映る。ときおりウィンドーに反射して、蒼白な顔色となった男と目が合う。
そのたびにドキリとしてしまうのは、自分の顔ではなく、兄である英俊に見えるからだ。
これまで、鋭い刃のように心に突き立てられてきた英俊の容赦ない言葉と眼差し、体に与えられた痛みの記憶が蘇り、大きく身震いをする。すると、隣で身じろぐ気配がした。
「寒いのか、先生」
隊員に伴われて店を出た和彦を一目見るなり、露骨に不機嫌そうな顔となった南郷は、車に乗り込んでから今まで、黙り込んだままだった。
叱責か嘲弄を覚悟していたため、いつ何を言われるのかと身を硬くしていた和彦だが、すぐに憂鬱な思索に耽ってしまい、正直、この瞬間まで、南郷の存在を意識の外に追い払っていた。
「……いえ、平気です」
会話のきっかけが掴めたといわんばかりに、南郷が問いかけてくる。
「あの男前のことだが――、里見真也、だったか、長嶺組長は知っているのか?」
南郷の前で里見の名を出さなかったのに、どうしてフルネームを知っているのかと、和彦は目を見開く。ニヤリと笑って南郷は教えてくれた。
「あの男が出した名刺が、一瞬だけ見えた。さすがに会社名までは無理だったがな」
「そうですか。……長嶺組長が知っているかどうか、それを確認して、どうするんです」
「質問しているのは、俺なんだが。――いや、長嶺組長は、なんとも思わないのかと気になってな。明らかに堅気の男が、あんたに接触したんだ。しかも、色恋も絡んでいる。俺を牽制するために、あんなことをしたんだ。何もないなんて白々しいウソはつかないでくれよ」
「……南郷さんには、関係ないと思います」
「俺も、あんたの男関係をいまさら詮索はしたくないが、そうもいかない。あんたの父親が、わざわざうちの監視をかい潜ってまで、店に連れ込んだぐらいだ。さて、何を企んでいる?」
それぞれの出来事は他愛なく、気にかけるほどでもなかったが、積み重ねていくことで、和彦から否定の言葉を奪ってしまう。
どうしてそんなことを自分に告げるのかと、すがるように俊哉を見る。すでに、いつもの穏やかな笑みを口元に湛えた俊哉だが、口にしたのは苛烈きわまる内容だった。
「――わたしは、里見がお前に向ける恋着と執着を買った。お前をこちらに連れ戻すには、相応の〈情〉が必要だろう。それを持っているのが、里見だ。子供だったお前を大事に守りながら、大人にもした特別な男だ。お前も、彼には特別な想いがあるだろう」
「だからって、里見さんを巻き込むなんて、危険すぎるっ」
「綺麗事を言う前に、考えてみたらどうだ。大事な男を、さんざんお前を痛めつけてきた英俊に奪われていいのか?」
俊哉の囁きには、異様な力強さと熱がこもっていた。和彦の中から、どす黒い感情を引きずり出そうとしているかのように。
頭と心が掻き乱される。ふいに吐き気を覚えた和彦は咄嗟に顔を背け、きつく目を閉じる。考えたくもないのに、一緒にいる英俊と里見の姿が次々と瞼の裏に映し出され、胸が痛くなった。
「里見のことは、総和会に連絡しておこう。わたしの代理人として接し、手出しはするなと。あの化け狐も、否とは言うまい。なんといっても、わたしが誠心誠意、頼むんだ。ふふっ、〈そういうこと〉が好きな男だ、あれは」
ここで、引き戸の向こうから急かす声がする。のろのろと首を巡らせた和彦は、俊哉を見ることなくコートを取り上げる。自分の中で処理しきれる情報と感情の容量を超えてしまい、言葉が出てこなかった。
そのまま部屋を出て行こうとすると、背後から俊哉に言われた。
「年末年始に、お前とまた会えることを楽しみにしているぞ。みんな、な」
和彦は振り返ることなく、黙って部屋をあとにした。
表と裏の世界の境界が曖昧になっていく――。
俊哉の垂らした毒液がじわじわと、今、和彦が生きている世界を侵食しているのだ。息苦しくなってもがき苦しみながら和彦が逃げ出してくるのを、待ち構えているのかもしれない。
走行する車の外に目を向けたまま、さきほどまでの俊哉と里見とのやり取りを思い返す。
気が重くなるばかりで、この憂鬱から逃れられるならいっそ消えてしまいたいと、ふっと考えてしまう。
もしそうなったら、自分を大事にしてくれている男たちにもう会えなくなるのだと、当然のことに気づき、数瞬あとに罪悪感に襲われる。それと、喪失感も。
そんな和彦の目に、人工の光に溢れた夜の街はきらびやかで、毒々しいほど華やかに映る。ときおりウィンドーに反射して、蒼白な顔色となった男と目が合う。
そのたびにドキリとしてしまうのは、自分の顔ではなく、兄である英俊に見えるからだ。
これまで、鋭い刃のように心に突き立てられてきた英俊の容赦ない言葉と眼差し、体に与えられた痛みの記憶が蘇り、大きく身震いをする。すると、隣で身じろぐ気配がした。
「寒いのか、先生」
隊員に伴われて店を出た和彦を一目見るなり、露骨に不機嫌そうな顔となった南郷は、車に乗り込んでから今まで、黙り込んだままだった。
叱責か嘲弄を覚悟していたため、いつ何を言われるのかと身を硬くしていた和彦だが、すぐに憂鬱な思索に耽ってしまい、正直、この瞬間まで、南郷の存在を意識の外に追い払っていた。
「……いえ、平気です」
会話のきっかけが掴めたといわんばかりに、南郷が問いかけてくる。
「あの男前のことだが――、里見真也、だったか、長嶺組長は知っているのか?」
南郷の前で里見の名を出さなかったのに、どうしてフルネームを知っているのかと、和彦は目を見開く。ニヤリと笑って南郷は教えてくれた。
「あの男が出した名刺が、一瞬だけ見えた。さすがに会社名までは無理だったがな」
「そうですか。……長嶺組長が知っているかどうか、それを確認して、どうするんです」
「質問しているのは、俺なんだが。――いや、長嶺組長は、なんとも思わないのかと気になってな。明らかに堅気の男が、あんたに接触したんだ。しかも、色恋も絡んでいる。俺を牽制するために、あんなことをしたんだ。何もないなんて白々しいウソはつかないでくれよ」
「……南郷さんには、関係ないと思います」
「俺も、あんたの男関係をいまさら詮索はしたくないが、そうもいかない。あんたの父親が、わざわざうちの監視をかい潜ってまで、店に連れ込んだぐらいだ。さて、何を企んでいる?」
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