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第41話
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その情報の何分の一かでも里見に耳に入っているのかと思うと、今になって強い羞恥に苛まれる。そこに、里見から向けられる強い眼差しも加わり、居たたまれない。
重苦しいが、どこか甘さも含んだ独特の空気が二人の間を流れる。それをなんとかしたくて、ふと思い出したことを問いかけた。
「……里見さん、さっき何か言いかけていたよね。おれは、君の――、って。それに、どんな最低なことをしているのかも、気になる」
伸ばされた里見の手に、指先を掴まれそうになったが、ちょうど仲居が通りかかったこともあり、和彦はさりげなく距離を取った。
「ねえ、里見さん、教えて」
それは、と言いかけて、里見は苦しげに顔を歪めた。いつもの和彦なら、無理をしてまで言わなくていいと制止していたかもしれないが、この瞬間、とにかく聞き出さなければいけないという義務感に駆られていた。
しかし、里見と会話が交わせたのは、ここまでだった。
落ち着いた雰囲気の料亭に似つかわしくない、慌ただしい足音がこちらに近づいてくる。誰かと思えば、第二遊撃隊の隊員二人だった。どうやら、南郷から指示を受けて、店の中に踏み込んできたらしい。
まさか里見を連れて行く気なのかと警戒したが、男たちは里見に目もくれず、和彦に声をかけてきた。
「佐伯先生、外で車を待たせています。すぐに我々と一緒に来てください」
「どういうことですか? 今晩は、時間は決められてなかったはずです」
「不測の事態が起きた場合は、すぐに佐伯先生を連れて戻るよう言われています」
隊員の一人が敵意のこもった鋭い視線を里見に向けた。すべてを理解した和彦は、反論はしなかった。その代わり、控えめに尋ねる。
「父がいる部屋に、コートを取りに行っていいですか?」
隊員の一人がついていくことを条件に許され、挨拶もできないまま里見と別れる。
部屋に戻ると、さすがに隊員は中にまでは入ってはこなかった。引き戸を閉め、顔を強張らせたまま振り返ると、俊哉は悠然と食事を続けていた。
その姿に一瞬だけ忌々しさを覚えたが、すぐに和彦の心を占めたのは、焦燥だった。
「里見さんのことが、総和会の護衛たちにバレたんだ。あの人に手を出さないよう、父さんから総和会に頼んでほしい」
俊哉が、テーブルナプキンで口元を丁寧に拭く。優雅な一連の動作は、和彦の言葉にまったく緊迫感を覚えていないことを物語っている。
普段と変わらず、俊哉は落ち着いていた。いや、落ち着きすぎている。
自分と里見の過去の関係を当時から知っていながら、そのことを一切匂わせなかったぐらいだ。この世に、俊哉を驚愕させ、動揺させる出来事などあるのだろうかと思った途端、和彦の記憶を鋭く刺激するものがあった。
すぐに我に返ったものの、まるで夢を見ていたような感覚に襲われ、気味の悪い浮遊感に足元がふらついた。
和彦の様子から何を感じ取ったのか、俊哉が、内緒話をするように声を潜めた。
「彼は、覚悟を決めている。事情も危険も承知のうえで、わたしに協力すると言ってくれた。それが、お前に対する誠意と愛情であり、わたしへの謝罪なんだそうだ」
「そんな……。里見さんは悪くないのに……」
「悪いさ。あれは、悪い男だ」
断定する俊哉の口ぶりから、和彦はさきほどの里見とのやり取りが蘇る。
「……里見さん、最低なことをしていると言っていた」
「冷静沈着な男だが、お前が関係すると一変して狂う。いや、感情的になると言ったほうがいいか。里見を悪し様に言えば、その言葉は、わたし自身に返ってくる。あの男が悪い男なら、わたしもまた、悪い男だ。とてつもなく」
俊哉は、人当たりのいい仮面のような笑みではなく、酷薄な嘲笑を浮かべた。誰に向けてのものか、もしかすると俊哉自身に対するものなのか。
「里見は、お前恋しさに、お前によく似た人間と関係を持った。……ああ、持っている、だな」
「ぼくと、よく似た――?」
「いるだろう。わたしたちの近くに」
じわじわと全身から血の気が引いていく。和彦は口元に手をやり、小さく声を洩らす。その声は、微かに震えを帯びていた。
「それ、兄さんのこと……」
認めたくない一方で、やはり、と思う自分がいる。思い返してみれば、英俊と里見が近しい関係にあると、ここまで感じる部分はあったのだ。
里見の職場近くで、二人が歩く姿を見かけたときは、仕事で関わりがあるためだと里見から説明され、そのこと自体に不自然さは感じなかった。さらに、英俊が和彦に連絡をしてきたことがあったが、携帯番号は、里見の携帯電話に登録されていたものを盗み見たと言っていた。いつ、どんな状況でそれが可能なのか、脳裏を過った疑問はあまりに些細で、すぐに消えてしまった。
重苦しいが、どこか甘さも含んだ独特の空気が二人の間を流れる。それをなんとかしたくて、ふと思い出したことを問いかけた。
「……里見さん、さっき何か言いかけていたよね。おれは、君の――、って。それに、どんな最低なことをしているのかも、気になる」
伸ばされた里見の手に、指先を掴まれそうになったが、ちょうど仲居が通りかかったこともあり、和彦はさりげなく距離を取った。
「ねえ、里見さん、教えて」
それは、と言いかけて、里見は苦しげに顔を歪めた。いつもの和彦なら、無理をしてまで言わなくていいと制止していたかもしれないが、この瞬間、とにかく聞き出さなければいけないという義務感に駆られていた。
しかし、里見と会話が交わせたのは、ここまでだった。
落ち着いた雰囲気の料亭に似つかわしくない、慌ただしい足音がこちらに近づいてくる。誰かと思えば、第二遊撃隊の隊員二人だった。どうやら、南郷から指示を受けて、店の中に踏み込んできたらしい。
まさか里見を連れて行く気なのかと警戒したが、男たちは里見に目もくれず、和彦に声をかけてきた。
「佐伯先生、外で車を待たせています。すぐに我々と一緒に来てください」
「どういうことですか? 今晩は、時間は決められてなかったはずです」
「不測の事態が起きた場合は、すぐに佐伯先生を連れて戻るよう言われています」
隊員の一人が敵意のこもった鋭い視線を里見に向けた。すべてを理解した和彦は、反論はしなかった。その代わり、控えめに尋ねる。
「父がいる部屋に、コートを取りに行っていいですか?」
隊員の一人がついていくことを条件に許され、挨拶もできないまま里見と別れる。
部屋に戻ると、さすがに隊員は中にまでは入ってはこなかった。引き戸を閉め、顔を強張らせたまま振り返ると、俊哉は悠然と食事を続けていた。
その姿に一瞬だけ忌々しさを覚えたが、すぐに和彦の心を占めたのは、焦燥だった。
「里見さんのことが、総和会の護衛たちにバレたんだ。あの人に手を出さないよう、父さんから総和会に頼んでほしい」
俊哉が、テーブルナプキンで口元を丁寧に拭く。優雅な一連の動作は、和彦の言葉にまったく緊迫感を覚えていないことを物語っている。
普段と変わらず、俊哉は落ち着いていた。いや、落ち着きすぎている。
自分と里見の過去の関係を当時から知っていながら、そのことを一切匂わせなかったぐらいだ。この世に、俊哉を驚愕させ、動揺させる出来事などあるのだろうかと思った途端、和彦の記憶を鋭く刺激するものがあった。
すぐに我に返ったものの、まるで夢を見ていたような感覚に襲われ、気味の悪い浮遊感に足元がふらついた。
和彦の様子から何を感じ取ったのか、俊哉が、内緒話をするように声を潜めた。
「彼は、覚悟を決めている。事情も危険も承知のうえで、わたしに協力すると言ってくれた。それが、お前に対する誠意と愛情であり、わたしへの謝罪なんだそうだ」
「そんな……。里見さんは悪くないのに……」
「悪いさ。あれは、悪い男だ」
断定する俊哉の口ぶりから、和彦はさきほどの里見とのやり取りが蘇る。
「……里見さん、最低なことをしていると言っていた」
「冷静沈着な男だが、お前が関係すると一変して狂う。いや、感情的になると言ったほうがいいか。里見を悪し様に言えば、その言葉は、わたし自身に返ってくる。あの男が悪い男なら、わたしもまた、悪い男だ。とてつもなく」
俊哉は、人当たりのいい仮面のような笑みではなく、酷薄な嘲笑を浮かべた。誰に向けてのものか、もしかすると俊哉自身に対するものなのか。
「里見は、お前恋しさに、お前によく似た人間と関係を持った。……ああ、持っている、だな」
「ぼくと、よく似た――?」
「いるだろう。わたしたちの近くに」
じわじわと全身から血の気が引いていく。和彦は口元に手をやり、小さく声を洩らす。その声は、微かに震えを帯びていた。
「それ、兄さんのこと……」
認めたくない一方で、やはり、と思う自分がいる。思い返してみれば、英俊と里見が近しい関係にあると、ここまで感じる部分はあったのだ。
里見の職場近くで、二人が歩く姿を見かけたときは、仕事で関わりがあるためだと里見から説明され、そのこと自体に不自然さは感じなかった。さらに、英俊が和彦に連絡をしてきたことがあったが、携帯番号は、里見の携帯電話に登録されていたものを盗み見たと言っていた。いつ、どんな状況でそれが可能なのか、脳裏を過った疑問はあまりに些細で、すぐに消えてしまった。
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