血と束縛と

北川とも

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第40話

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「あれに言う必要がどこにある。――鷹津くんとの連絡役をさせたことがあるが、あとから、ずいぶん露骨に探りを入れられて、辟易したんだ。総和会と接触を持って、お前と会ったなどと知ったら、もっと面倒なことになる」
 鷹津と英俊が接触していたと知り、不可解な感情が和彦の中で芽生えたが、それがなんであるか分析するには至らなかった。ただ、英俊は鷹津のような男は苦手だろうなと考え、ふっと苦笑が洩れる。かつての自分がまさに、鷹津を毛嫌いしていたことを思い出したのだ。
 ここで和彦は、こちらをじっと見つめている俊哉と目が合った。途端に、怜悧な眼差しを意識することになる。
 食欲はなかったが、自然に視線を逸らすために料理に手を伸ばす。胡麻豆腐に箸を入れようとして、隠し切れないほど手が震えた。
「――何をそんなに緊張することがある。久しぶりの、父親との食事だろう。この間会ったときは、自分が囲われ者になっていることに対する後ろめたさ故かと思っていたが、それだけではないな」
 俊哉はさらに声を潜め、探るように言った。
「怖い夢でも見たか?」
「……夢?」
「お前がずいぶん小さい頃、よく夢を見てはうなされて、飛び起きてもいた。小学校に入ってしばらく経った頃には、忘れたようにそんなこともなくなったが。一度、どんな夢を見ているのか、お前に聞いたことがある。そのときお前は――」
 父親と向き合って話していた実家の書斎の光景が蘇り、忌避感が和彦の口を動かす。
「聞きたくない。……というより、思い出したくない。ううん。覚えてないんだ、ぼくは。父さんが言おうとしていることを」
「そういうことにしたい、ということか。現状、それが最善の手だろう。もし、お前が何か重大な秘密を隠していると知ったら、お前の周囲にいる男たちは、鬼に変わるかもしれない。それこそ、お前に痛みを与えて、強引に口を割らせるかもな」
 どうしてこんなことを言い出すのか、ひどく和彦は気になった。同時に、胸騒ぎを覚える。俊哉は何か、とんでもないことを言い出すのではないだろうか、と。
 急に席を立ちたくなったが、実行に移す前に俊哉がこう続けた。
「今、長嶺守光と交渉している。年末年始の間、お前の身を佐伯家のほうで引き取りたいと。……こういう言い方もおかしいな。お前はわたしの息子で、実家で一緒に年越しを迎えるのに、ヤクザどもの事情を斟酌してやる理由なんてないはずだ。その理屈が通じないから、連中は面倒臭い」
 思いがけないことを言われて、頭が混乱した。和彦は箸を置くと、わずかに身を乗り出す。
「年末年始に、ぼくが、家に……?」
「こちらも事情がある。お前の行方がわからなくなっていたことは、けっこうあちこちに知られているからな。自分探しに出ていた次男が戻ってきたということにして、さっさと片付けたい。英俊のほうも、〈仲のいい〉弟と同席する場が設けられそうで、断れないと言っていた。――化け狐にあれこれ聞かれたら、わたしが今言ったことまでは説明してかまわない」
 えっ、と声を洩らし、和彦は目を見開く。
 俊哉は珍しく、唇に淡い苦笑めいたものを刻んでいた。
「お前に行ってもらう場所がある。どこに、とはまだ言えない。誰にも……、総和会や長嶺組だけでなく、家の者にも悟られたくない」
「……家の者というのは、母さんや兄さんのことだよね」
「そうだ。ある人物と約束した。絶対に和彦を行かせると。その約束を守るために、お前もなんとしても、長嶺の人間たちを説得しろ。もっとも、お前が逃げ出さないという保証のために、何を欲しがるやらわかったもんじゃないが。さすがに、体の一部を置いていけとまでは言わないだろう」
 仮に言ったとしたら、それでも俊哉は、従えと命令するのだろうか。
 我ながら悪辣ともいえる想像に、和彦はゾッとする。ゾッとするといえば、いまさら実家にどんな顔をして出向けばいいのかということだ。
 和彦は、英俊や母親から投げつけられるであろう蔑みの眼差しを想像して、吐き気を催しそうになる。いや、どんな眼差しにしろ向けられるだけ、マシなのかもしれない。いないものとして扱われる可能性の高さを思えば。
「――……父さん、数日だけでも、ぼくは家に帰るつもりはないよ……」
「わたしが、帰って来いと言っている。拒否することは許さん」
 予期した通りの答えに、震えを帯びた息を吐き出す。俊哉に対する、和彦なりの控えめな怒りの発露だった。
「説得する気もなく、一方的に言って済ませるなら、電話でもよかったはずだ。こんな……、手のかかることをして」
「お前が無事なのか、この目で確かめる必要がある。それに今回は――」
 意味ありげに俊哉が視線を向けたのは、さきほど南郷も気にしていた部屋の奥にある襖だった。
「どうしても、お前に会いたいという人間を連れてきた」
「……誰?」
「お前もきっと、また会いたかったはずの人間だ」
 咄嗟に頭に浮かんだ男の名を、俊哉にぶつけることはできなかった。困惑する和彦に対して、俊哉は軽くあごをしゃくる。
「どうせ、食欲はないんだろう。久しぶりの〈逢瀬〉を楽しんできたらどうだ」
 にこやかな俊哉の表情からは、どんな感情も読み取れない。嘲りも嫌悪も怒りも。まるで、今言った言葉に裏などないとでもいうように。
 そんなはずはないのに――。
 まるで操られるように和彦はぎこちなく席を立つ。俊哉がそうしろと言うなら、逆らう術はなかった。
 ゆっくりと襖を開けると、思ったとおりもう一部屋あった。電気はついていなかったが、庭を照らす屋外灯の明かりが窓から差し込んでおり、室内の様子を見て取ることは容易だった。
 庭を眺めていたのか、窓の側にスーツ姿の男が立っていた。和彦はふらりと部屋に一歩足を踏み入れる。すると男が振り返り、こちらから呼びかけるより先に声を発した。
「――和彦くん」
 電話越しではない、穏やかな声と懐かしいイントネーションを耳にして、和彦は息を詰めた。
 甘く苦しい感傷を覚えたのは一瞬で、すぐに激しく動揺する。
「里見さん……」
 里見は、痛みを堪えているような表情を浮かべた。
 さきほど、俊哉は何を言った。この部屋で待つ男と和彦の関係を、すべて知っているような口ぶりだった。知っているとすれば、誰かから聞いたことになる。
 一体誰なのかと、めまぐるしく思考を動かしている間に、里見が目の前までやってきて、肩に手がかかった。
「会いたかった、君にっ……」
 切実な口調で言われて、和彦はようやく理解した。
 今年の二月に再会したとき、里見は育ちのいい青年のような屈託ない笑顔を浮かべていた。昔と同じように。
 その笑顔が今は影を潜め、こんなにも苦しげな表情を浮かべている理由が、残念ながら和彦はたった一つしか思い浮かばなかった。

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