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第40話
(36)
しおりを挟む金曜日、いつものようにクリニックを閉めた和彦は、いくぶん緊張しながらエレベーターで一階へと降りる。勤務を終えてしまうと、頭を占めるのは、今日は一体、俊哉から何を言われるのだろうかということだけだ。
いくら心の準備をしても足りない気がして、強烈な不安に襲われる。無意識に手は、ジャケットのポケットをまさぐっていた。すでに電源を切ってある携帯電話を入れてあるのだが、クリニックを出る寸前まで、賢吾と話していた。その行為が、今の和彦にとってのお守りのようなものだった。
エントランスを抜けてビルを一歩出たところで、ぎょっとして立ち尽くす。後部座席にスモークフィルムが貼られた高級外車が停まっていた。
唖然として立ち尽くしてしまった和彦だが、我に返ったあと、猛烈な怒りに駆られる。
総和会から、送迎のための車を待機させておくと事前に連絡はあったが、まさかビルの目の前に停まっているとは思いもしなかったのだ。意図があるにせよ、総和会は、和彦が大事にしている領域に対して、些か配慮に欠けている節がある。
先日の、クリニック近くまでやってきた小野寺がそうだった。その小野寺に指示したのは、第二遊撃隊を率いる南郷だ。
和彦は荒く息を吐き出して軽く周囲を見回し、誰もこちらを注視していないのを確認してから、足早に車に歩み寄る。すかさず後部座席のドアが中から開いた。
「どうして……」
大柄な体を、悠然と後部座席のシートに収めている男の姿を見て、声を洩らす。
「――早く乗ったらどうだ、先生」
空気を震わせる獰猛な声に、ビクリと肩を揺らしてから和彦は車に乗り込んだ。
車内は程よく暖められているが、寒気を覚えて仕方ない。首に巻いたマフラーを心許ない盾に見立て、口元まで引っ張り上げる。話したくないという意思表示のつもりだが、当然のように、男――南郷には通じなかった。
「今日のあんたのお守りは、俺が任された。オヤジさんいわく、互いに最初に無難な手札を切ったあと、あんたの父親なら次は物騒な手札を切ってくるんじゃないかと言われてな。そういうことをやりそうな人物なのか?」
「……どうして、ビルの前に車を停めていたんですか? もし誰かに見られたら、困ります」
「それは悪かった」
まったく悪いと思っていないとわかる口調で謝罪され、和彦は二の句が継げない。露骨に顔を背け、ウィンドーの向こうを流れる景色に目を向けた。
会話する気はないという拒絶を明確に態度に示したが、かまわず南郷は話しかけてくる。
「俺が近くにいると、あんたはいつだって毛を逆立てた猫みたいな感じだが、今日は特にピリピリしているな。そんなに、自分の父親に会うのが怖いか?」
努めて冷やかな視線を向けると、南郷は唇の端に笑みを浮かべていた。まるで嘲笑されているようだと感じ、それでなくても憂鬱な気分に拍車がかかる。
「教えてくれ、先生。前に話したが、俺は〈父親〉という存在を知らない。それが高級官僚の肩書きを持つ父親ともなると、想像も及ばないんだ」
「――……少し、黙っていてください」
堪らず和彦が窘めると、一気に車内の空気が凍りつく。そのことに気づかないふりをして、再び外の景色に目を向けようとしたとき、聞き覚えのない携帯電話の着信音が車内に鳴り響いた。次の瞬間、和彦の隣で荒々しい気配が動いた。
いきなり南郷が片足を上げ、助手席のシートを後ろから蹴りつけると同時に、怒鳴った。
「今回の任務についたら、終わるまで携帯の電源は切っておけと言っただろうがっ」
まるで、獣の咆哮だった。シートの上で飛び上がらんばかりに驚いた和彦だが、すぐに今度は身を竦めて怯えていた。
自分の前では、皮肉屋ではあるものの、慇懃なほど紳士的に振る舞っていた南郷が突然〈キレた〉ことに、衝撃を受ける。隣で聞いた怒声の凄まじい迫力は、まさに雷で打たれたようだと錯覚するほどだ。暴力にも大声にもあまり免疫がないだけに、体が極端な反応を示す。
反射的にシートベルトを強く掴んでいた。心臓は痛いほど早打ち、呼吸が止まりそうになる。和彦は目を見開いたまま、南郷の横顔から視線を離せなくなっていた。目を合わせたくないと、本能が訴えているにもかかわらず。
和彦の様子に気づいたのか、姿勢を直した南郷が何事もなかったように、また唇の端に笑みを浮かべた。
「すまなかった、先生。今みたいな姿は見せたくなかったんだが、ふとした拍子に、地金ってもんが出ちまう」
返事もできず、顔を強張らせていると、途端に南郷の目に残酷な喜悦の色が浮かぶ。本人いわく、地金が出たということだろう。大仰に感心したように言われた。
「わかっているつもりだったが、やっぱり大事にされてるんだな。その様子だと、長嶺組の人間はあんたの前では荒事はなしだし、大声を出したりもしないんだろう。そう、長嶺組長が言いつけてあるってことだ。繊細で臆病なオンナを怖がらせるなと」
「……さあ、どうでしょう」
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