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第40話
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結果が、昨夜の出来事だ。
恋愛の機微には聡いはずの元ホストにしては、迂闊すぎると言わざるをえない。あくまで、中嶋の話を聞いた限りでは。だが一方で、同じ元ホストである秦は、これまでの経験で培ったはずの手管を発揮できず、無邪気な悪女に翻弄されているようだ。
中嶋と秦の二人は、享楽的でスマートな関係を築いているとばかり思っていただけに、和彦としては困惑するしかないのだが、第三者としてはこう言うしかなかった。
「問題は二人で解決してくれ。――他人に迷惑をかけない形で。どちらにしてもぼくは、しばらく個人的な問題でバタバタするから、愚痴も聞いてやれないからな」
残念ですねと、本当にそう思っているのか疑わしい言葉を秦が洩らす。
いよいよ時間が気になってきた和彦は、話を切り上げて電話を切ろうとする。すると秦が囁きかけてきた。
『――本当にいいんですか?』
なんのことかと問うまでもない。ほんの一瞬の逡巡のあと、和彦は短く応じた。
「いい」
電話を切ったあとで、一気に心臓の鼓動が速くなる。気がつけば、携帯電話を握った手も冷たくなっていた。秦の最後の囁きは、和彦の心の深い部分を抉ったのだ。
遠い場所で潜伏していると思われた鷹津が、実は自分の動向を探り、さらには側にまでやってきたと知ったところで、喜びはなかった。いや、湧き起ころうとするその感情を、懸命に抑えつけていた。
鷹津は、二つの組織から追われている身で、さらに俊哉とも通じている。危険極まりない存在だ。だから、鷹津と会ってはいけない。鷹津のことを誰にも言ってはいけない。
そう心の中で繰り返していると、仮眠室のドアをノックされた。そろそろ予約の時間だと告げられ、平静を装って返事をする。
「今行くよ」
和彦は携帯電話の電源を切ると、何事もなかった顔で仮眠室を出た。
胸の奥がずっとモヤモヤしている。
何度目かの寝返りを打った和彦は、とうとう目を閉じ続けていることを諦めた。寝室の暗い天井を見上げ、金曜日までの日数を数えてから、憂鬱なため息をつく。
二日続けてなかなか寝付けず、だからといって安定剤を飲むのもためらわれ、今夜は早めにベッドに入ってはみたのだが、結局無駄に終わりそうだ。
俊哉と会うことと、自分の周辺に及ぼす影響について取り留めなく考えては、自ら睡魔を遠くに押しやっている気がするが、何も考えないというのはまた恐ろしいのだ。考え続けることで、暗澹たる気持ちとなり、罰を受けているような錯覚に陥る。その状態が、一種の安楽さに繋がっている。
秦から鷹津の連絡先を聞かなかったことに、どうしようもない後悔を感じている自分が、和彦には許せなかった。自分を大事にしてくれている男たちの顔が脳裏をちらつき、胸が痛む。それでも、後悔を消し去ることができない。
和彦はふっと息を吐くと、思い切ってベッドから出る。寒さに体を震わせてから、イスにかけてあったカーディガンを羽織ると、キッチンへと向かった。寝付けないのなら、いっそ開き直って、ゆっくりと温かいものでも飲もうと考えたのだ。
電気をつけたキッチンにふらふらと入り、カップを取り出しはしたものの、ハタと我に返る。さすがに夜、コーヒーは如何なものかと思い、結局、ホットミルクを作ることにした。
さっそく手鍋に牛乳を注いで沸かし始める。その間にカップや蜂蜜を準備していると、廊下から少し荒い足音が聞こえてきた。賢吾の足音ではないことは、すぐにわかった。そうなると、訪問者は一人しかいない。
一体何事かと、訝しみながら和彦がキッチンを出ると、ちょうどダイニングに入ってきた千尋と出くわした。
一目見て、千尋の表情の険しさに気づいた。それに、全身を取り巻く空気がいつになく荒々しい。
「……どうしたんだ、お前。こんな時間に……」
「さっき、オヤジに聞かされたんだ。先生――和彦が、金曜日に……会いに行くんだろ?」
再び俊哉と会うことを、賢吾には報告したものの、誰にも知らせないよう頼んでおいた。前回の和彦の憔悴ぶりを知る男たちに、心配をかけたくなかったのだ。当然、その中に千尋は入っていた。しかし――。
和彦が顔をしかめると、苛立ったように千尋が唇を歪める。
「厄介な奴にバレたって顔してる」
「当たり前だ。……お前の父親には口止めしておいたのに」
「俺は、和彦の口から聞きたかったよっ」
千尋ならそう言うだろうと容易に想像がついた。だから、知られたくなかったのだ。
「この間はお前にもずいぶん心配をかけて、気を使わせたから、また父さんに会うと言ったら大騒ぎするんじゃないかと思ったんだ」
恋愛の機微には聡いはずの元ホストにしては、迂闊すぎると言わざるをえない。あくまで、中嶋の話を聞いた限りでは。だが一方で、同じ元ホストである秦は、これまでの経験で培ったはずの手管を発揮できず、無邪気な悪女に翻弄されているようだ。
中嶋と秦の二人は、享楽的でスマートな関係を築いているとばかり思っていただけに、和彦としては困惑するしかないのだが、第三者としてはこう言うしかなかった。
「問題は二人で解決してくれ。――他人に迷惑をかけない形で。どちらにしてもぼくは、しばらく個人的な問題でバタバタするから、愚痴も聞いてやれないからな」
残念ですねと、本当にそう思っているのか疑わしい言葉を秦が洩らす。
いよいよ時間が気になってきた和彦は、話を切り上げて電話を切ろうとする。すると秦が囁きかけてきた。
『――本当にいいんですか?』
なんのことかと問うまでもない。ほんの一瞬の逡巡のあと、和彦は短く応じた。
「いい」
電話を切ったあとで、一気に心臓の鼓動が速くなる。気がつけば、携帯電話を握った手も冷たくなっていた。秦の最後の囁きは、和彦の心の深い部分を抉ったのだ。
遠い場所で潜伏していると思われた鷹津が、実は自分の動向を探り、さらには側にまでやってきたと知ったところで、喜びはなかった。いや、湧き起ころうとするその感情を、懸命に抑えつけていた。
鷹津は、二つの組織から追われている身で、さらに俊哉とも通じている。危険極まりない存在だ。だから、鷹津と会ってはいけない。鷹津のことを誰にも言ってはいけない。
そう心の中で繰り返していると、仮眠室のドアをノックされた。そろそろ予約の時間だと告げられ、平静を装って返事をする。
「今行くよ」
和彦は携帯電話の電源を切ると、何事もなかった顔で仮眠室を出た。
胸の奥がずっとモヤモヤしている。
何度目かの寝返りを打った和彦は、とうとう目を閉じ続けていることを諦めた。寝室の暗い天井を見上げ、金曜日までの日数を数えてから、憂鬱なため息をつく。
二日続けてなかなか寝付けず、だからといって安定剤を飲むのもためらわれ、今夜は早めにベッドに入ってはみたのだが、結局無駄に終わりそうだ。
俊哉と会うことと、自分の周辺に及ぼす影響について取り留めなく考えては、自ら睡魔を遠くに押しやっている気がするが、何も考えないというのはまた恐ろしいのだ。考え続けることで、暗澹たる気持ちとなり、罰を受けているような錯覚に陥る。その状態が、一種の安楽さに繋がっている。
秦から鷹津の連絡先を聞かなかったことに、どうしようもない後悔を感じている自分が、和彦には許せなかった。自分を大事にしてくれている男たちの顔が脳裏をちらつき、胸が痛む。それでも、後悔を消し去ることができない。
和彦はふっと息を吐くと、思い切ってベッドから出る。寒さに体を震わせてから、イスにかけてあったカーディガンを羽織ると、キッチンへと向かった。寝付けないのなら、いっそ開き直って、ゆっくりと温かいものでも飲もうと考えたのだ。
電気をつけたキッチンにふらふらと入り、カップを取り出しはしたものの、ハタと我に返る。さすがに夜、コーヒーは如何なものかと思い、結局、ホットミルクを作ることにした。
さっそく手鍋に牛乳を注いで沸かし始める。その間にカップや蜂蜜を準備していると、廊下から少し荒い足音が聞こえてきた。賢吾の足音ではないことは、すぐにわかった。そうなると、訪問者は一人しかいない。
一体何事かと、訝しみながら和彦がキッチンを出ると、ちょうどダイニングに入ってきた千尋と出くわした。
一目見て、千尋の表情の険しさに気づいた。それに、全身を取り巻く空気がいつになく荒々しい。
「……どうしたんだ、お前。こんな時間に……」
「さっき、オヤジに聞かされたんだ。先生――和彦が、金曜日に……会いに行くんだろ?」
再び俊哉と会うことを、賢吾には報告したものの、誰にも知らせないよう頼んでおいた。前回の和彦の憔悴ぶりを知る男たちに、心配をかけたくなかったのだ。当然、その中に千尋は入っていた。しかし――。
和彦が顔をしかめると、苛立ったように千尋が唇を歪める。
「厄介な奴にバレたって顔してる」
「当たり前だ。……お前の父親には口止めしておいたのに」
「俺は、和彦の口から聞きたかったよっ」
千尋ならそう言うだろうと容易に想像がついた。だから、知られたくなかったのだ。
「この間はお前にもずいぶん心配をかけて、気を使わせたから、また父さんに会うと言ったら大騒ぎするんじゃないかと思ったんだ」
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