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第40話
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聞こえよがしにぼやくと、肩に賢吾の手がかかってドキリとする。そのまま抱き寄せられるのではないかと身構えたが、軽くポンポンと叩かれただけで、すぐに手は離れた。さすがに、周囲に人がいる状況で、賢吾もそこまで大胆ではなかったようだ。
自分だけが動揺させられたようで悔しくて、恨みがましい視線を向ける。一方の賢吾も、意味ありげな流し目を寄越してきた。
「――そんな顔をするぐらい、俺のことが聞きたいなら、失敗した結婚の話をしてやろうか? 聞いて気持ちのいいものじゃないぞ。俺の人生において数少ない修羅場の一つだ」
「絶対、ウソだ」
「何がウソだ」
「あんたみたいな男が、モテないはずがないだろう。それこそ、修羅場なんていくらでもあるはずだ。……いちいち覚えられていられないぐらい」
「……先生が言うと重みがあるな」
賢吾のとぼけた口ぶりに、なんと返そうかと考えているうちに、再び肩に手がかかり、ぐいっと引き寄せられた。半ば強引に方向転換させられて立ち止まったのは、グッズが売っているショップの前だった。
ショップの前に置かれたワゴン台には、大小の可愛い馬のぬいぐるみや、こまごまとしたグッズが積まれており、子供たちが歓声を上げて眺めている。
「千尋に、キーホルダーの一つでも土産で買って帰ってやるか……」
賢吾の呟きを耳にして、和彦は顔をしかめる。
「嫌がらせになるんじゃないか、それは」
「先生には、でかい馬のぬいぐるみを買ってやろう」
「嫌がらせだなっ」
楽しそうに笑った賢吾だが、ふいに何か思案するようにあごに手をやり、まじまじとワゴン台を眺める。和彦は、そんな賢吾の横顔を眺める。
ふっと我に返ったようにこちらを見た賢吾に促され、競馬場をあとにする。
次にどこに向かうのか、現場に到着するまで一切知らされない和彦は、車に乗り込むと、黙ってシートを倒す。歩き回っているうちに気にならなくなっていたのだが、一息ついた途端、筋肉痛であることを思い出した。
カーナビを操作していた賢吾が、そんな和彦をちらりと見て口元を綻ばせる。
「今度から、デートに出かける前日は、ジムで体を動かすのはほどほどにしてくれと言っておかねーとな」
「ということは、また誘ってくれるのか」
「次は先生から誘うってのはどうだ?」
「――……考えておく」
それは楽しみだと言って、賢吾が車を出す。最初はぼんやりと外を流れる景色を眺めていた和彦だが、すぐにウトウトし始める。賢吾が話しかけてきたが、もう口を動かすことも億劫だった。
頬に軽く触れる感触があった。それが暖房の風なのか、革手袋越しの賢吾の手の感触だったのか、確認できなかった。
ホテルの部屋に入った和彦は、ダッフルコートをソファに置いてから、広々としたベッドにうつ伏せで横になる。
思いきり手足を伸ばすと、気持ちよくて吐息が洩れる。ホテル内のレストランでとった夕食も美味しくて、このまま充実感に浸りながら眠ってしまいたいところだ。
とにかくよく動いた一日だった。それに、よくしゃべったと思う。
和彦はパッと目を開くと、意識しないまま自分が笑みを浮かべていることに気づき、一人恥じ入る。今日一日楽しかったという気持ちが、全身から漏れ出ているようだった。
そもそも今日は、賢吾の誕生日を祝うために、行動を共にしたのだが。
ベッドの上をもそもそと動いて体の向きを変えると、携帯電話を耳に当てた賢吾が部屋に戻ってくる。
「ああ、無事にホテルに入った。報告するようなトラブルもないな。――先生の機嫌も上々だ」
電話に向かって報告しながら、賢吾の目線はしっかりと和彦へと向いている。
「……ぼくの機嫌がよくても仕方ないだろ。あんたの誕生日なんだから」
今日はもう誰の電話も出ないつもりか、携帯電話の電源を切った賢吾に話しかける。
「先生が隣でにこにこして、いつになく饒舌でいてくれたことが、俺には何よりの誕生日プレゼントだが?」
「そういう……、恥ずかしい台詞を堂々と言えるということは、あんたも機嫌がいいんだな」
「もちろんだ」
賢吾は、自分のチェスターコートだけではなく、和彦のダッフルコートもハンガーにかけてクローゼットに仕舞うと、静かにベッドに歩み寄ってくる。レストランで飲んだワインのせいばかりではなく、和彦の全身がじわじわと熱くなってきた。
「風呂は今、湯を溜めているから、一緒に入るぞ。時間がもったいない」
どういう意味だと問うのもあざといので、黙って頷いておく。ふっと目元を和らげた賢吾がベッドに乗り上がり、和彦の肩を掴んでくる。真上から見下ろされ、搦め捕られたように目を逸らせなくなっていた。
自分だけが動揺させられたようで悔しくて、恨みがましい視線を向ける。一方の賢吾も、意味ありげな流し目を寄越してきた。
「――そんな顔をするぐらい、俺のことが聞きたいなら、失敗した結婚の話をしてやろうか? 聞いて気持ちのいいものじゃないぞ。俺の人生において数少ない修羅場の一つだ」
「絶対、ウソだ」
「何がウソだ」
「あんたみたいな男が、モテないはずがないだろう。それこそ、修羅場なんていくらでもあるはずだ。……いちいち覚えられていられないぐらい」
「……先生が言うと重みがあるな」
賢吾のとぼけた口ぶりに、なんと返そうかと考えているうちに、再び肩に手がかかり、ぐいっと引き寄せられた。半ば強引に方向転換させられて立ち止まったのは、グッズが売っているショップの前だった。
ショップの前に置かれたワゴン台には、大小の可愛い馬のぬいぐるみや、こまごまとしたグッズが積まれており、子供たちが歓声を上げて眺めている。
「千尋に、キーホルダーの一つでも土産で買って帰ってやるか……」
賢吾の呟きを耳にして、和彦は顔をしかめる。
「嫌がらせになるんじゃないか、それは」
「先生には、でかい馬のぬいぐるみを買ってやろう」
「嫌がらせだなっ」
楽しそうに笑った賢吾だが、ふいに何か思案するようにあごに手をやり、まじまじとワゴン台を眺める。和彦は、そんな賢吾の横顔を眺める。
ふっと我に返ったようにこちらを見た賢吾に促され、競馬場をあとにする。
次にどこに向かうのか、現場に到着するまで一切知らされない和彦は、車に乗り込むと、黙ってシートを倒す。歩き回っているうちに気にならなくなっていたのだが、一息ついた途端、筋肉痛であることを思い出した。
カーナビを操作していた賢吾が、そんな和彦をちらりと見て口元を綻ばせる。
「今度から、デートに出かける前日は、ジムで体を動かすのはほどほどにしてくれと言っておかねーとな」
「ということは、また誘ってくれるのか」
「次は先生から誘うってのはどうだ?」
「――……考えておく」
それは楽しみだと言って、賢吾が車を出す。最初はぼんやりと外を流れる景色を眺めていた和彦だが、すぐにウトウトし始める。賢吾が話しかけてきたが、もう口を動かすことも億劫だった。
頬に軽く触れる感触があった。それが暖房の風なのか、革手袋越しの賢吾の手の感触だったのか、確認できなかった。
ホテルの部屋に入った和彦は、ダッフルコートをソファに置いてから、広々としたベッドにうつ伏せで横になる。
思いきり手足を伸ばすと、気持ちよくて吐息が洩れる。ホテル内のレストランでとった夕食も美味しくて、このまま充実感に浸りながら眠ってしまいたいところだ。
とにかくよく動いた一日だった。それに、よくしゃべったと思う。
和彦はパッと目を開くと、意識しないまま自分が笑みを浮かべていることに気づき、一人恥じ入る。今日一日楽しかったという気持ちが、全身から漏れ出ているようだった。
そもそも今日は、賢吾の誕生日を祝うために、行動を共にしたのだが。
ベッドの上をもそもそと動いて体の向きを変えると、携帯電話を耳に当てた賢吾が部屋に戻ってくる。
「ああ、無事にホテルに入った。報告するようなトラブルもないな。――先生の機嫌も上々だ」
電話に向かって報告しながら、賢吾の目線はしっかりと和彦へと向いている。
「……ぼくの機嫌がよくても仕方ないだろ。あんたの誕生日なんだから」
今日はもう誰の電話も出ないつもりか、携帯電話の電源を切った賢吾に話しかける。
「先生が隣でにこにこして、いつになく饒舌でいてくれたことが、俺には何よりの誕生日プレゼントだが?」
「そういう……、恥ずかしい台詞を堂々と言えるということは、あんたも機嫌がいいんだな」
「もちろんだ」
賢吾は、自分のチェスターコートだけではなく、和彦のダッフルコートもハンガーにかけてクローゼットに仕舞うと、静かにベッドに歩み寄ってくる。レストランで飲んだワインのせいばかりではなく、和彦の全身がじわじわと熱くなってきた。
「風呂は今、湯を溜めているから、一緒に入るぞ。時間がもったいない」
どういう意味だと問うのもあざといので、黙って頷いておく。ふっと目元を和らげた賢吾がベッドに乗り上がり、和彦の肩を掴んでくる。真上から見下ろされ、搦め捕られたように目を逸らせなくなっていた。
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