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第40話
(7)
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賢吾のことなので、とんでもない場所に連れて行かれるのではないかと少しだけ心配をしていたのだが、いい意味で予想は裏切られた。
駐車場に入ったときから、おやっ、と思ってはいたのだが、噴水の上がる広場を通り抜けて、ある建物に入ったところで、静かな驚きが和彦の中に広がる。賢吾がチケットを買う間、掲示されたポスターをまじまじと眺めていた。
「なんだ、ヤクザの組長とのデートで、まっさきに違法賭博場にでも連れて行かれるとでも思ったか?」
チケットを差し出しながら賢吾に意地の悪い口調で言われ、思わず和彦は苦笑を洩らす。
「連れて行ってくれるのなら、どこだってついて行くつもりだったけど、ここは……、少し意外だった」
和彦はもう一度、展示されているポスターに視線を投げかける。
賢吾に連れて来られたのは、美術館だった。現在は、海外の有名美術館のコレクションを展示中らしく、ポスターを見る限り、美術に疎い和彦ですら知っている名品や名画もあるようだ。
どうりで客が多いはずだと、展示室へと移動しながらさりげなく周囲を見回す。
「――若い頃、俺なりにささやかな夢があったんだ」
いつもよりさらに柔らかな賢吾の声音に、今日は特別なのだなと改めて実感させられる。護衛もついていないため、長嶺組組長という体面を取り繕う必要がないのだろう。
「美術品を扱う仕事がしてみたいってな。海外の美術館に実際に足を運んで、目を肥やしたいとか考えてた。まあ、自分でもわかっていた、叶うことのない夢だ。組を継ぐ未来しかないとわかっていたし、海外に出ることもままならない身だしな。青臭い夢に未練はないが、たまにこうやって、美術館に足を運ぶんだ。護衛は外で待たせて」
「なら、いつもは一人で?」
「今日は二人だ」
「……初めて知った。あんたにそういう一面があるなんて。部屋に、美術書の一冊も置いてないだろ」
「自分の頭に留めておくだけでいい。あくまで、気分転換だしな」
展示室に入ると、場の空気に圧倒された和彦は大きく息を吐き出す。美術館を訪れるなど、高校生のとき以来なのだ。浮き足立ってしまいそうになるが、さりげなく賢吾の手が背にかかり、ゆっくりと歩き出す。
「興味がないと退屈かもしれないが、少し我慢してくれ」
「我慢なんて……。ちょっと、ワクワクしている」
ふっと賢吾が吐息で笑う。顔を上げた和彦は、つられて微笑み返していた。
賢吾との〈デート〉は概ね順調だった。
美術館を出たあとは、敷地内に設置された案内板で確認してから、せっかくの機会なので近隣にある別の美術館にも足を延ばした。
新鮮な経験ができて和彦個人としては楽しんでいるのだが、一方の賢吾は駐車場に戻りながら、まじめな学生のようなデートコースだと苦笑交じりで洩らす。
そして次に連れて行かれたのは、競馬場だった。こちらもまた、予想外の場所だ。
「本当にいかがわしい場所には、先生を連れて行くわけにはいかねーしな」
大きなレースが開催されるということで、人出が多くにぎわっている。馬券は買わないため、レースを観戦する必要もない二人は、ひとまず早めの昼食を施設内のフードコートで簡単に取ったあと、出走前の馬がいるというパドックに移動し、馬たちを間近から見ることができた。
「ぼくに遠慮せず、馬券を買えばよかったのに」
パドックから引き返しながら和彦が言うと、賢吾が様になる仕種で肩を竦める。
「賭け事は、ずいぶん昔にやめた。千尋はその点、感心だな。そういうものにまったく手を出さない。……まあ、数字を見るのも嫌な性質ってのもあるんだろうが。ときどき突拍子もない行動を取るが、あれでなかなか品行方正だ、あいつは」
「だったら――、あんたの若い頃はどうだった? 誕生日でいい機会なんだから、半生を振り返ってみたらどうだ。ぼくが隣で聞いてやるから」
わざと偉ぶった口調で和彦が応じると、賢吾はハッとするほど鮮烈な笑みを浮かべた。
「俺のことが知りたくて堪らなくなったか、先生?」
「……そこまでは言ってないだろ。ただ、今日のあんたはいつにも増して口が滑らかなようだから、どうだろうかと……」
「大しておもしろくねーぞ。極道の世界で自力で成り上がったわけでもなく、代々続く組を継いで、それなりに上手く回しているだけ。特に大きな挫折があるわけでもなく、人によっては、つまらん半生だと言うかもな。まだ先生のほうが、波乱万丈だ」
「ヤクザと比べられてもな……」
駐車場に入ったときから、おやっ、と思ってはいたのだが、噴水の上がる広場を通り抜けて、ある建物に入ったところで、静かな驚きが和彦の中に広がる。賢吾がチケットを買う間、掲示されたポスターをまじまじと眺めていた。
「なんだ、ヤクザの組長とのデートで、まっさきに違法賭博場にでも連れて行かれるとでも思ったか?」
チケットを差し出しながら賢吾に意地の悪い口調で言われ、思わず和彦は苦笑を洩らす。
「連れて行ってくれるのなら、どこだってついて行くつもりだったけど、ここは……、少し意外だった」
和彦はもう一度、展示されているポスターに視線を投げかける。
賢吾に連れて来られたのは、美術館だった。現在は、海外の有名美術館のコレクションを展示中らしく、ポスターを見る限り、美術に疎い和彦ですら知っている名品や名画もあるようだ。
どうりで客が多いはずだと、展示室へと移動しながらさりげなく周囲を見回す。
「――若い頃、俺なりにささやかな夢があったんだ」
いつもよりさらに柔らかな賢吾の声音に、今日は特別なのだなと改めて実感させられる。護衛もついていないため、長嶺組組長という体面を取り繕う必要がないのだろう。
「美術品を扱う仕事がしてみたいってな。海外の美術館に実際に足を運んで、目を肥やしたいとか考えてた。まあ、自分でもわかっていた、叶うことのない夢だ。組を継ぐ未来しかないとわかっていたし、海外に出ることもままならない身だしな。青臭い夢に未練はないが、たまにこうやって、美術館に足を運ぶんだ。護衛は外で待たせて」
「なら、いつもは一人で?」
「今日は二人だ」
「……初めて知った。あんたにそういう一面があるなんて。部屋に、美術書の一冊も置いてないだろ」
「自分の頭に留めておくだけでいい。あくまで、気分転換だしな」
展示室に入ると、場の空気に圧倒された和彦は大きく息を吐き出す。美術館を訪れるなど、高校生のとき以来なのだ。浮き足立ってしまいそうになるが、さりげなく賢吾の手が背にかかり、ゆっくりと歩き出す。
「興味がないと退屈かもしれないが、少し我慢してくれ」
「我慢なんて……。ちょっと、ワクワクしている」
ふっと賢吾が吐息で笑う。顔を上げた和彦は、つられて微笑み返していた。
賢吾との〈デート〉は概ね順調だった。
美術館を出たあとは、敷地内に設置された案内板で確認してから、せっかくの機会なので近隣にある別の美術館にも足を延ばした。
新鮮な経験ができて和彦個人としては楽しんでいるのだが、一方の賢吾は駐車場に戻りながら、まじめな学生のようなデートコースだと苦笑交じりで洩らす。
そして次に連れて行かれたのは、競馬場だった。こちらもまた、予想外の場所だ。
「本当にいかがわしい場所には、先生を連れて行くわけにはいかねーしな」
大きなレースが開催されるということで、人出が多くにぎわっている。馬券は買わないため、レースを観戦する必要もない二人は、ひとまず早めの昼食を施設内のフードコートで簡単に取ったあと、出走前の馬がいるというパドックに移動し、馬たちを間近から見ることができた。
「ぼくに遠慮せず、馬券を買えばよかったのに」
パドックから引き返しながら和彦が言うと、賢吾が様になる仕種で肩を竦める。
「賭け事は、ずいぶん昔にやめた。千尋はその点、感心だな。そういうものにまったく手を出さない。……まあ、数字を見るのも嫌な性質ってのもあるんだろうが。ときどき突拍子もない行動を取るが、あれでなかなか品行方正だ、あいつは」
「だったら――、あんたの若い頃はどうだった? 誕生日でいい機会なんだから、半生を振り返ってみたらどうだ。ぼくが隣で聞いてやるから」
わざと偉ぶった口調で和彦が応じると、賢吾はハッとするほど鮮烈な笑みを浮かべた。
「俺のことが知りたくて堪らなくなったか、先生?」
「……そこまでは言ってないだろ。ただ、今日のあんたはいつにも増して口が滑らかなようだから、どうだろうかと……」
「大しておもしろくねーぞ。極道の世界で自力で成り上がったわけでもなく、代々続く組を継いで、それなりに上手く回しているだけ。特に大きな挫折があるわけでもなく、人によっては、つまらん半生だと言うかもな。まだ先生のほうが、波乱万丈だ」
「ヤクザと比べられてもな……」
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