血と束縛と

北川とも

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第40話

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 クリニックが休みの土曜日、いつもより一時間ほど遅い時間に起きた和彦は、パジャマの上からカーディガンを羽織った姿でキッチンに立っていた。
 コーヒーを淹れ、パンを焼くついでに、目玉焼きぐらい作ろうかと、冷蔵庫を開ける。ハムかベーコンでも残っていればと思ったが、どうやら甘かったようだ。せっかくなので、あとで食料を買いに出ることにした。
「今日は一人で、ゆっくり過ごすからな……」
 誰かに聞かせるわけでもないが、本日の目標めいたものを口にする。
 たまには、自分のペースで過ごせる休日があってもいいだろうと、いつになく強く願うのは、ここ最近の慌ただしさのせいだ。他人に振り回されるのは、今の環境にあっては仕方ないと半ば許容している和彦だが、中には不本意なことがある。
 現実逃避だとしても、一日、二日ぐらい、気が滅入るような悩み事を頭から追い払いたくもなるのだ。
 温めたフライパンに卵を落とし入れ、皿などを準備していると、玄関のほうから物音がする。耳を澄まし、落ち着いた足音が近づいてくるのを確認して、誰だろうと考えるまでもなかった。
「――いい匂いがしているな、先生」
 皮肉なのか本気なのか、忌々しいほど魅力的なバリトンによる開口一番の言葉に、和彦は背を向けたまま応じる。
「パンを焼いて、目玉焼きを作っているだけで、大げさな」
「残念だ。俺は朝メシは食ってきた」
「……誰も、あんたの分もあるとは言ってないだろう……」
 和彦は呆れながら振り返り、すぐに目を丸くする。スーツ姿だとばかり思っていた賢吾が、濃いグレーのタートルネックを着ており、その上からラフにチェスターコートを羽織っているのだ。革手袋をスマートに外す姿に、悔しいが少しだけ見惚れてしまった。
 すっかり、肩書き込みで長嶺賢吾という男を見てしまうことが自然になっていたが、何もなくても、そこに立っているだけで、極上の男なのだと思い知らされる。とんでもない状況で初めて賢吾と出会ったときも、外見と雰囲気に自分が圧倒されたことを和彦は思い出していた。
 ぼうっと突っ立っている和彦に、賢吾が薄い笑みを向けてくる。
「せっかくの目玉焼きが焦げるぞ」
 ハッと我に返り、慌ててフライパンの中を覗き込んだ。
 和彦が手軽な朝食を準備している間に、チェスターコートを脱いだ賢吾はダイニングのイスに腰掛ける。朝からやけに機嫌はよさそうで、少し焦げた目玉焼きを眺め、美味そうだなと、あからさまな世辞を口にしたぐらいだ。
 とりあえず賢吾にもコーヒーを淹れてやってから、和彦はやっとテーブルにつく。パンにバターを塗りつつ、疑問を口にした。
「で、朝から何をしに来たんだ。……オシャレして」
「オシャレか?」
 賢吾が露骨に目を輝かせる。やはり、機嫌はいいようだ。
「いいものをラフに着こなして、いかにも、金を持っている悪い中年男みたいだ。ヤクザの組長には見えない」
「それは好都合」
 パンをかじる和彦を、ニヤニヤしながら賢吾が見守っている。仕方なくこちらから水を向けた。
「……これから出かけるのか? だったら、早く行ったらどうだ。ぼくは元気だ――けど、昨日はジムでがんばりすぎたから、筋肉痛で全身が痛い。だから、部屋でゆっくり、したい……」
「早く食えよ、先生。これから一緒に出かけるんだから」
「人の話を少しは聞けっ」
「聞いたうえで、言ったんだ」
 いっそ清々しいほどきっぱり言われ、和彦は口ごもる。それをいいことに賢吾は滔々と続ける。
「今日は天気がいいから、外出日和だ。寒いのは仕方がねーな。しっかり着込んでおけよ、先生。今日はあちこち移動するつもりだから。それと、泊まりになるが、着替えはどうしても必要になったら買えばいいから、何も持っていかなくていい。――楽しい休日になるぞ」
 どうして今日、この男はこんなにも機嫌がいいのかと、和彦はそろそろ空恐ろしさすら感じ始める。
「ついこの間、紅葉を見に行っただろう……。ぼくもたまには、ゆっくりと一人の休日を過ごしたいんだが」
「今日は、俺と先生の二人きりだ。二人で、ゆっくりできる」
 人の話を聞けという再びの抗議は、口中で空しく消える。
 薄い笑みを浮かべたまま、大蛇の潜む賢吾の目は、ひたと和彦を見据えてくる。望み通りの返事を引き出すまで、この視線は逸らさないと言わんばかりに。
 こうなると、和彦に逆らう術はない。長嶺の男の強引さは今に始まったわけではなく、いつものことだと言われればそうなのだが、やはり気になるのは賢吾の機嫌のよさなのだ。
 目玉焼きの理想的な半熟とは程遠い、固くなった黄身を箸で突きながら、和彦はため息交じりで問う。
「あんたの行動の前触れのなさには慣れてきたつもりなんだが、今朝は少し様子が違うように思う。いつにも増して、ぼくの話を聞かないだろ。……何かあったのか?」
「――今日は、俺の誕生日だ」
 ふあっ、と声を上げた和彦は、反射的に立ち上がるとキッチンに駆け込む。冷蔵庫の横にカレンダーをかけてあるのだ。今日の日付を丹念に確認してから、冷蔵庫の陰からこそっと顔を出す。
「十一月十五日?」
「四十七になった」

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