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第39話
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しおりを挟むその傷口を一目見て、和彦はゾッとした。
長嶺組や総和会から依頼される仕事によって、通報事案に値する怪我の治療もこなし、経験を積んできているが、どうしても慣れないものがある。
消毒をする和彦の手が止まったことで不安を覚えたのか、ベッドに横たわった男が苦しげな息の下、言葉を発した。
「先生、どうかしましたか?」
「あっ、いや……、なんでもない、です」
四十代半ばに見える男は、苦痛に顔をしかめてはいるものの、非常に落ち着いていた。普通の人間なら、刃物で太腿を刺され、それなりに出血したとなったら、こうはいかない。そもそも、その場から動くこともできないだろう。
しかしこの男は、自分で足の付け根をネクタイで縛って止血をして、安全な場所へと移動してから、組に連絡して助けを求めた。
男への攻撃は、太腿への刃物による一刺しだけ。ためらいのない、美しいとすらいえる傷口が示すのは、明確な殺意だった。
「……あと少し刺される場所がズレていたら、動脈が傷ついていましたよ」
「マッサージを受けている最中で、ちょっとばかり無防備になっていたんです。咄嗟に身を捩ったおかげですね、助かったのは」
襲撃者を蹴りつけて逃げ出してきたと誇らしげに言われ、和彦としては返す言葉がない。
「朝まで待って、医者を寄越してもらうつもりだったんですが、『バカ野郎っ』と、うちの組長に一喝されまして……。まさか、佐伯先生みたいな、きちんとした医者を呼んでもらえるとは思っていませんでした」
この患者の中で医者のランク付けはどうなっているのだろうかと、気にならないわけではないが、今は治療が優先だ。和彦はさっそく局所麻酔をかける。
麻酔が効き始めるにつれ、男の苦痛の表情がわずかに和らぐ。治療に立ち合っている組員たちの様子をうかがいながら、和彦は気になったことを問いかけた。
「ぼくのことを、知っているんですか?」
「うちの組は、よく佐伯先生に世話になっていると、組長が話していました」
「組長……。あの、難波組長が、ですか?」
「そうです、あの難波組長が」
和彦としては苦笑を浮かべるしかなかった。初めて聞く名ではない。それどころか、今のような生活を送るようになってから、ある意味、馴染み深いともいえる名だ。
昭政組の組長である難波との初対面は、最悪というイメージで和彦の記憶に刻み込まれている。
難波の愛人である由香の治療のために呼ばれたとき、長嶺父子の〈オンナ〉という立場を侮辱されたのだ。和彦としては、味わった屈辱感を自分の胸に仕舞っておきたかったが、しっかりと賢吾の耳に入ってしまい、難波に何かしら釘を刺したらしい。
その後、由香が受けたいという美容整形の相談に乗ったり、難波の息子の治療をしたりと、あくまで医者としての立場で繋がりを持っていた。難波本人と顔を合わせることはなくなったが、どうやら使える医者として認識はされていたようだ。
「……ありがたいことです。それはともかく、しかし、物騒な傷ですね」
「病院に駆け込めなかった理由が、一目瞭然でしょう?」
普段、治療をしながら、こんなふうに会話を交わすことはあまりないのだが、緊張が解れたのか、気を紛らわせるためか、男は気安く話しかけてくる。
「こんな世界に長く身を置いていると、ときどき嫌な風を感じるときがあるんですよ。人心を掻き乱すザワザワするような、落ち着かない風です。最近、その風が吹いているような気がすると思ったら、この様です」
興味深い例えだった。総和会との関わりが深くなり、耳に入る情報はなるべく頭に留め、想像力を働かせるようにしている和彦だが、自ら積極的に情報収集をすることはまずない。人や組織にとって、どこに地雷が埋まっているかわからず、無用なトラブルを避けるためだ。
和彦は傷口の消毒をしながら、少しだけ好奇心に身を委ねることにした。
「何か心当たりがあるんですか?」
「この怪我は、新興の跳ね返りの組とのいざこざのせいですが、総和会の耳に入らないようにしたいんです。そこで今回、総和会を通してではなく、長嶺組長に直接、うちの組長が頼み込んだという事情があります」
だからかと、和彦は心の中で呟く。これまで昭政組からの依頼を請け負った場合、和彦の身は、長嶺組から総和会へと預けられる形を取っていた。それは、昭政組に限ったことではなく、総和会が仕事を仲介した場合、どの組織、個人でも同じ手順を踏んでいる。
しかし今回、和彦は長嶺組の車で直接、今いる雑居ビルの一室へと送り届けられたのだ。
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