血と束縛と

北川とも

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第39話

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『迷惑をかけられたとは思ったことはない。いつだっておれは、和彦くんのことを心配しているだけだ』
 里見の優しさが、心に絡みついてくる。昔なら素直に受け入れられたかもしれないが、大人となった和彦にはそれはあまりに甘すぎた。わずかな忌避感を覚えるほどに。
「――……里見さん、すっかり〈おれ〉に戻ったね。やっぱりそのほうが、ぼくの知っている里見さんらしいよ」
 電話の向こうで、里見は数秒ほど言葉に詰まった様子だったが、すぐに笑い声を響かせた。
『また君に会いたいよ。君と一緒に過ごせていた頃が、おれは一番楽しかったし、充実していた』
「機会があれば、そのうち」
 返事として正しいのかよく考える間もなく、和彦はそう答えていた。そして、逃げるように電話を切る。こうでもしないと、いつまででも里見と話し込んでしまいそうだったのだ。
 携帯電話を充電器にかけてから、やはりどうしても気になり、障子を開ける。もちろん、廊下に人の姿はなかった。




 予約状況で想像できていたが、今日もクリニックは忙しかった。
 ありがたいことではあるが、いつ長嶺組や総和会から呼び出されてもおかしくない立場である和彦としては、心情としては複雑なところだった。つい二日前に、クリニックの忙しさについて賢吾にも笑われたばかりだ。
 清掃を終えて、あとは大丈夫だからとスタッフたちを帰すと、クリップボードを手に一人黙々と薬品庫の在庫確認を行う。今週中に発注をかけておく必要があるものに印をつけながら、長嶺組が管理している薬品庫も近いうちに見ておきたいなと考える。和彦の仕事を増やさないようにと配慮してもらっているが、何もかも他人任せというのも落ち着かない。
 薬品庫を施錠してから診察室に戻ると、なんとなく壁の時計を見上げる。終業時間からすでに一時間以上経っていると気づいた途端、どっと疲労感が押し寄せてきた。
 暖房を切ってから、帰り仕度のため仮眠室にコートを取りに行く。そこでふと感じるものがあり、ブラインドの隙間から窓の外を見てみる。案の定、雨粒がガラスを叩いていた。雨が降っていると知ったからではないが、急に肌寒くなってきたようだ。
 和彦は小さく肩を震わせる。帰宅したら、何より先にバスタブに熱めの湯を張ろうと思った。昨日から自宅マンションに戻っており、本宅のように何から何まで至れり尽くせりというわけにはいかない。一人の時間を欲した結果なので、不満はなかった。
 ぼんやりと暗い景色を眺めていた和彦だが、窓の外で黒い影が動くのを見てギクリとする。一瞬、強い雨足による見間違いかとも思ったがそうではない。外の非常階段を歩いている足音がするのだ。
 最上階にあるこのクリニックにだけ繋がっている非常階段だ。他の階は、非常階段に通じるドアが塞がれているため、存在を認識している者はほとんどいないかもしれない。長嶺組は、緊急時に患者を運び入れるときなどに利用しているのだが、かつて不埒な目的で活用した男もいた。
「まさか……」
 得体の知れない影を見た怯えよりも、この瞬間、期待が上回っていたかもしれない。和彦はふらりと仮眠室を出ると、非常階段に通じるドアに視線を向ける。
 見た影が錯覚などではなかったことを証明するように、ドアがノックされた。すぐには動けなかった和彦だが、もう一度、今度は少し乱暴にノックされると、引き寄せられるように足が動いていた。心臓の鼓動が速く、大きく鳴る。
 もどかしい手つきで鍵を解いてドアを開ける。そこに、癖のある髪をオールバックにして、不精ひげを生やした彫りの深い顔立ちの男が立っていると信じて――。
「不用心だな、先生。相手も確認せずにドアを開けて」
 どこか嘲るような口調で男は言った。和彦は何も言えず、ただ目を見開く。なんの根拠もなく、ドアを開けた先に鷹津がいると思った。
 しかし目の前に立っていたのは、南郷だった。
「ど、して……、あなたが――」
 歯を剥き出すようにして野蛮な笑みを浮かべた南郷は、和彦を押しのけるようにして中に入ってくる。目の前を通り過ぎた南郷のジャケットは雨で濡れていた。
 寒気と危機感に怖気立ち、本能的に和彦は非常階段へと逃れようとしたが、すかさず南郷に腕を掴まれて阻まれたうえに、乱暴にドアを閉められる。有無を言わせず和彦の体は壁に押し付けられた。
 数十秒ほど、二人はただ見つめ合う。ただし和彦は怯えながら。一方の南郷は楽しげに。
 前回、南郷と顔を合わせたのはいつだったか、どこだったか。混乱した頭でそんなことを考えながら、和彦は問いかけていた。
「……南郷さん、護衛は……?」

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