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第39話
(23)
しおりを挟む覚束ない足取りで和彦が客間に戻ったのは、日付も変わった夜更けだった。だるい体でなんとかシャワーを浴びてから、一緒に寝たらどうだという賢吾の誘いを振り切った結果だ。
あの男の側にいたら、いつまで経っても情欲が鎮まらないという危機感があった。それこそ、精が尽きるほど賢吾の手と口で果てたというのに、いまだに胸の奥で燻ぶるものがあるぐらいだ。到底、隣で穏やかに眠れるとは思えない。
和彦はふらふらと畳の上にへたり込み、熱っぽい吐息を洩らす。さすがに今夜はもう、堅苦しい書類に再び目を通せる集中力はなかった。部屋の電気を消す前に、明日の出勤の準備を整えておこうと文机に這い寄ったところで、あることに気づく。
「あっ……」
出したままにしておいた携帯電話二台のうち一台に、着信表示があった。里見との連絡用に使っている携帯電話だ。一瞬、和彦の脳裏を過ったのは、いよいよ俊哉から連絡がきたのかということだった。履歴を見る限り、里見の携帯電話からかかってきたようだが、慎重にならざるをえない。
無視することもできず、おそるおそる折り返し連絡をしてみると、すぐに呼出し音は途切れた。
『――ああ、よかった。かけてきてくれたんだね』
聞こえてきた里見の穏やかな声に、心底ほっとした。前回、連絡を取ったときは、里見のもとに誰かが訪れた様子で、妙な空気で電話を切ったのだ。
「里見さん……。ごめん、こんな遅い時間に。もう休んでたんなら、日を改めるよ」
『気にしないでくれ。おれのほうこそ、驚いた勢いで電話をかけたから、君の事情をまったく考えてなかった。……今、話して大丈夫?』
里見の口ぶりが気になり、和彦は咄嗟に質問で返していた。
「……驚いたって、里見さん、何かあった?」
『今日……、もう昨日になるけど、君のお父さんに会ったんだ。話があると言って呼ばれて』
俊哉の話題が出た途端、心臓を締め付けられたような苦しさを感じた。和彦は硬い声で応じる。
「そう、なんだ……。話って、もしかして……」
『おれも無関係ではないからということで、内密にと念を押されて教えてもらった。――ようやく、会って話をしたそうだね』
うん、と返事をした和彦だが、すぐに大事なことに気づいて、正直ゾッとした。
「里見さん、父さんからどこまで聞いたっ?」
『どこまでって……、君と会えたことと、今後はとりあえず、連絡を取り合えるようにはなったということを。それはいいことではあるんだけど、おれとしては、君が一体何に巻き込まれて、普段はどこで生活しているのか、そういうことを知りたかったんだ。もちろん、佐伯さんに聞いてはみたけど、知らないほうがおれのためだと言われると、引き下がらざるをえなかった』
「父さんの判断が正しいよ。これ以上、里見さんに迷惑をかけられない……、かけたくない」
『ということは、やっぱり厄介なことに巻き込まれているんだな。今も』
「否定はしないけど、居心地はいいんだ、〈こちら〉は」
和彦が言外に含ませたものを感じ取ったのか、里見は少し沈黙したあと、ため息をついた。
『君にそんなことを言わせるために、おれは君と一緒の時間を過ごしたわけじゃないのにな。医者として順風満帆に過ごして、望むものを手に入れて、穏やかに笑って日々を過ごしてくれたらいいと、そう願っていた。そのために、独占欲の強いおれは、早いうちに身を引いたほうがいいと考えたんだ。君の将来にも関わっていきたいと、そう思い始めるのは目に見えていたから』
思いがけない里見の言葉に背を伸ばした和彦は、廊下に面した障子に反射的に視線を向ける。その向こうに、賢吾が立っているのではないかと、咄嗟に危惧したのだ。
ほんの少し前まで賢吾と濃密な時間を過ごしておきながら、里見からこんな言葉を囁かれたことが、とんでもない背信行為に思えた。
「里見さんが独占欲が強いなんて、初めて聞いた。そんなふうに思ったことなんて、一度もなかったよ。いつだって、穏やかで余裕があって――」
『君に嫌われたくないから、そう装ってただけだ。優しい思い出だけを作って、いつまでも君の中に残っていたかった。おれは、君と初めて会ったときから、打算的なズルい大人だったんだ』
里見の口調は穏やかなままだが、確かな熱を感じさせた。和彦の中に、ふっと疑問が芽生える。
俊哉は本当に、里見には詳しい事情を教えていないのだろうか、と。何か根拠があるわけではない。ただ、〈ズルい大人〉だと念を押されて、気になったのだ。
「……ズルい大人だったとしても、昔のぼくは、里見さんに救われた。だから今のぼくにできるのは、これ以上、里見さんに迷惑をかけないことだけだ。嫌な言い方になるけど、佐伯家の問題だし……」
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