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第39話
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いつになく鋭い眼差しに和彦がまず感じたのは、千尋が変わりつつあるということだった。背に刺青を入れたことによって、千尋は身の内に物騒な何かを飼い始めたのかもしれない。
危惧と呼べるほど物騒ではなく、むしろ甘い予感めいたものに和彦がそっと息を詰めると、ケープの下に千尋が手を入れてくる。驚いて目を丸くすると、素早く手首を掴まれた。
「先生、あそこから川のほうに下りられるみたい。行ってみよう」
返事をする前に引っ張られ、勢いに圧されるように和彦は千尋についていく。
橋の近くになだらかな坂道があり、そこから河原へと下りられるようになっている。さすがに河原には大小の石が転がっているため草履で歩くわけにはいかず、その手前で立ち止まる。千尋が名残惜しそうに手を離した。
冷たい風が川を渡ってくるのもお構いなしで、河原にも人の姿がちらほらとある。子供は石を投げて遊んでいるが、大半の人の目的は、紅葉と川という組み合わせのようだ。少し遠くに見える山は、紅葉の赤だけではなく、緑や橙、さまざまな色をまとってまるで絵のように美しい。
和彦は目を細めながら、ケープから両手を出す。頬だけではなく、指先でも空気の冷たさを感じた。
「やっぱりこの辺りは寒さが違うな。十一月に入ったばかりとは思えない」
陽射しもあるため、歩いているうちに暑くなってくるのではないかと思っていたが、余計な心配だったようだ。むしろ、いくらか厚着をしているおかげで、寒さを防げていたのだと実感する。和彦の格好を見立てたのは賢吾で、何もかも万全だと感心するしかない。
ふと視線を感じて隣を向く。案の定、千尋は和彦を見ていた。せっかく紅葉狩りに来たというのに、さきほどから千尋の目に鮮やかな紅葉は映っているのだろうかと心配になってくる。
「――ぼくはここにいるから、川の近くまで行ってみたらどうだ」
「別に、いいよ」
「だったらどうして、ここまで下りてきたんだ?」
問いかけに対して、千尋の視線が橋へと動く。欄干にもたれかかった賢吾がこちらを見ていた。
「先生とオヤジがイチャついてたから、ちょっと邪魔してやりたくなった」
「してなかっただろ……」
「気づいてなかったのは本人だけってね」
向けられた千尋の横顔は、拗ねた子供そのものだった。機嫌を取ったほうがいいのか、変なことを言うなと叱ったほうがいいのかと迷ったのは一瞬だ。和彦は、ぐいっと千尋の腕を取って引っ張る。
「千尋、熱いお茶が飲みたい」
「えっ、あー、奥に続く道の途中で、茶屋が出てるみたい。でも、きっと混んでるよ」
「そうだろうな。でも、少しぐらい待ってもいいじゃないか。急ぐわけでもないんだから。――なんなら、ぼく一人で行くけど」
千尋は考える素振りを見せたあと、にんまりと笑った。
「仕方ないなー。先生のわがままにつき合ってあげるよ」
跳ねるような足取りで先を歩き始めた千尋だが、すぐに慌てて引き返してくると、ぎこちなく和彦の背に手をやる。勾配が緩やかとはいえ坂を上るということで、気遣っているらしい。
和彦は顔を伏せると、込み上げてくる笑いを必死に押し殺した。
紅葉を堪能してから、宿がある温泉街に移動すると、ここで父子とは一旦別行動となった。この辺り一帯を縄張りとしている組の組長と連絡が取れたということで、急遽、顔を見せることになったのだという。
前に、長嶺組と昵懇だと話していた組のことだろうなと見当をつけ、和彦は二人を見送った。
その後、まっすぐ宿には向かわず、護衛の組員を伴って、そのまま温泉街を歩いて見て回る。紅葉の名所が近くにあり、土曜日ということもあってにぎわっているが、それでもどこか落ち着いた雰囲気が漂い、土産物屋を覗いたりして、のんびりと過ごすことができた。
夕方前には父子と再び合流し、今度は千尋と二人で、宿の周囲を散策した。元気だなと、どちらに向けての言葉か、そう言って賢吾は笑っていた。
宿に戻ってから、浴衣に着替えて大広間で夕食をとったあと、和彦は前回同様、大浴場での入浴をゆっくりと堪能する。
冷たいお茶のペットボトルを抱えて部屋に戻ったとき、廊下に組員が一人立っていた。他の組員は、賢吾と千尋にそれぞれついているという。
「千尋さんは家族風呂に行かれていて、組長は少し外に出られています」
「外?」
「今日お会いになった方の口から、組長がここに滞在していると他の方に伝わったようです。それで、どうしても挨拶をしたいとおっしゃられて、組長も無碍にはできなくて……」
「……組長も大変だな。威張っているだけじゃダメなんだから」
和彦の率直な感想に、組員はなんともいえない表情を浮かべた。
危惧と呼べるほど物騒ではなく、むしろ甘い予感めいたものに和彦がそっと息を詰めると、ケープの下に千尋が手を入れてくる。驚いて目を丸くすると、素早く手首を掴まれた。
「先生、あそこから川のほうに下りられるみたい。行ってみよう」
返事をする前に引っ張られ、勢いに圧されるように和彦は千尋についていく。
橋の近くになだらかな坂道があり、そこから河原へと下りられるようになっている。さすがに河原には大小の石が転がっているため草履で歩くわけにはいかず、その手前で立ち止まる。千尋が名残惜しそうに手を離した。
冷たい風が川を渡ってくるのもお構いなしで、河原にも人の姿がちらほらとある。子供は石を投げて遊んでいるが、大半の人の目的は、紅葉と川という組み合わせのようだ。少し遠くに見える山は、紅葉の赤だけではなく、緑や橙、さまざまな色をまとってまるで絵のように美しい。
和彦は目を細めながら、ケープから両手を出す。頬だけではなく、指先でも空気の冷たさを感じた。
「やっぱりこの辺りは寒さが違うな。十一月に入ったばかりとは思えない」
陽射しもあるため、歩いているうちに暑くなってくるのではないかと思っていたが、余計な心配だったようだ。むしろ、いくらか厚着をしているおかげで、寒さを防げていたのだと実感する。和彦の格好を見立てたのは賢吾で、何もかも万全だと感心するしかない。
ふと視線を感じて隣を向く。案の定、千尋は和彦を見ていた。せっかく紅葉狩りに来たというのに、さきほどから千尋の目に鮮やかな紅葉は映っているのだろうかと心配になってくる。
「――ぼくはここにいるから、川の近くまで行ってみたらどうだ」
「別に、いいよ」
「だったらどうして、ここまで下りてきたんだ?」
問いかけに対して、千尋の視線が橋へと動く。欄干にもたれかかった賢吾がこちらを見ていた。
「先生とオヤジがイチャついてたから、ちょっと邪魔してやりたくなった」
「してなかっただろ……」
「気づいてなかったのは本人だけってね」
向けられた千尋の横顔は、拗ねた子供そのものだった。機嫌を取ったほうがいいのか、変なことを言うなと叱ったほうがいいのかと迷ったのは一瞬だ。和彦は、ぐいっと千尋の腕を取って引っ張る。
「千尋、熱いお茶が飲みたい」
「えっ、あー、奥に続く道の途中で、茶屋が出てるみたい。でも、きっと混んでるよ」
「そうだろうな。でも、少しぐらい待ってもいいじゃないか。急ぐわけでもないんだから。――なんなら、ぼく一人で行くけど」
千尋は考える素振りを見せたあと、にんまりと笑った。
「仕方ないなー。先生のわがままにつき合ってあげるよ」
跳ねるような足取りで先を歩き始めた千尋だが、すぐに慌てて引き返してくると、ぎこちなく和彦の背に手をやる。勾配が緩やかとはいえ坂を上るということで、気遣っているらしい。
和彦は顔を伏せると、込み上げてくる笑いを必死に押し殺した。
紅葉を堪能してから、宿がある温泉街に移動すると、ここで父子とは一旦別行動となった。この辺り一帯を縄張りとしている組の組長と連絡が取れたということで、急遽、顔を見せることになったのだという。
前に、長嶺組と昵懇だと話していた組のことだろうなと見当をつけ、和彦は二人を見送った。
その後、まっすぐ宿には向かわず、護衛の組員を伴って、そのまま温泉街を歩いて見て回る。紅葉の名所が近くにあり、土曜日ということもあってにぎわっているが、それでもどこか落ち着いた雰囲気が漂い、土産物屋を覗いたりして、のんびりと過ごすことができた。
夕方前には父子と再び合流し、今度は千尋と二人で、宿の周囲を散策した。元気だなと、どちらに向けての言葉か、そう言って賢吾は笑っていた。
宿に戻ってから、浴衣に着替えて大広間で夕食をとったあと、和彦は前回同様、大浴場での入浴をゆっくりと堪能する。
冷たいお茶のペットボトルを抱えて部屋に戻ったとき、廊下に組員が一人立っていた。他の組員は、賢吾と千尋にそれぞれついているという。
「千尋さんは家族風呂に行かれていて、組長は少し外に出られています」
「外?」
「今日お会いになった方の口から、組長がここに滞在していると他の方に伝わったようです。それで、どうしても挨拶をしたいとおっしゃられて、組長も無碍にはできなくて……」
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和彦の率直な感想に、組員はなんともいえない表情を浮かべた。
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